オタクの多様性についての覚書

はじめに

 私は基本的にオタクというものの本質は一つである、と考えている。多様性や変化があるように見えても、それは現象の位相でのことにすぎない、というわけだ。しかし、このような立場は、現に存在するように見える多様性や変化をきちんと説明してはじめて説得力をもつものであろう。本稿の課題はこれである。ただし、問題が大きいので、だいたいの構図だけ描いておくことで、現段階では満足しておきたい。

多様性問題の諸相

 多様性問題は、さまざまな局面で、それぞれ異なる仕方で出てくるので、一律に扱うことは難しい。とりあえず、これまでに各所で提起されてきた論点を思いつくままに列挙していきたい。私自身が重要だと思っている、というよりは、一般によく論じられている、という観点で選んである。どれも、オタク文化における多様性や変化は、ある特定の原因に由来しているものであり、それゆえに、個人的あるいは偶然的なものではない、と主張するものである。

  1. ジャンルに由来する多様性
  2. 漫画、アニメ、ゲーム、ノベルといった、ジャンルに応じてオタクの本質が異なるのではないか、という問題である。また、アイドル、プロレス、映画、さらには電車や切手などについても、「オタク」という語が使われることがある。どこからどこまでが同じ営みとされ、どこから違うものとされるべきなのか。

  3. 世代に由来する多様性
  4. 生まれ成長した時代の違いに応じてオタクの本質が異なるのではないか、という問題である。世代の区分については諸説あるが、エポックメイキングな作品や技術の登場によって区切りがなされることが多い。

  5. 年齢に由来する多様性
  6. 年齢の違いに応じてオタクの本質が異なるのではないか、という問題である。上に挙げた世代の問題と混同してはならない。こちらは、一人のオタクが成長するにつれて、異なる仕方でオタク的営みをするようになる、ということである。わかりやすいので、人生における環境の変化と合わせて論じられることが多い。たとえば、各種進学、一人暮らし、就職、結婚等々があるだろう。

  7. 性差に由来する多様性
  8. 女性であるか男性であるか、はたまたそれ以外の性的マイノリティに属するか、といった性差に応じてオタクの本質が異なるのではないか、という問題である。あってあたりまえのたんなる嗜好の違いではなく、オタクとしての営みのありように根本的な違いがあるかどうか、が問われている。

  9. 能力に由来する多様性
  10. オタク的な能力の大小に応じてオタクの本質が異なるのではないか、という問題である。世代や年齢と絡めて「最近の若いオタクは」という感じで語られることが多い。この論点には補足が必要であろう。普通に考えれば、能力の大小を比較できる時点で本質は共有されているはずだからだ。自転車で例えよう。自転車に乗っているかぎりでは、乗るのが上手かろうが下手であろうが、同じ乗り物に乗っているとみなされる。しかし、あまりにも自転車に乗るのが下手な人は、補助輪をつけて乗るだろう。さて、補助輪付自転車は、自転車と同じ乗り物なのか否か。微妙であろう。同様に、オタク的能力に応じて、異なるオタク的活動がなされているのではないか、ということである。

  11. ライフスタイルに由来する多様性
  12. ライフスタイルに応じてオタクの本質が異なるのではないか、という問題である。上述の世代、年齢、性差によってもライフスタイルはいろいろと変わるわけだが、ここではそれ以外の要素を考えたい。いくつか頻出する論点を指摘しておこう。第一に、コミュニケーション能力の大小である。つまるところ、いわゆる非モテのオタクとリア充のオタクに差異はあるのか、ということである。第二に、居住地である。都市圏に住んでいるのか地方に住んでいるのか、あるいは海外に住んでいるのかで、オタクのありかたはどこまで変わるのか。第三に、経済状況の豊かさである。趣味の活動にどれだけ金をつぎ込めるかで、オタクのありかたはどこまで変わるのか。

  13. 文化に由来する多様性
  14. いわゆるオタク系の諸作品は日本以外の文化圏でも受容されている。それら別文化圏におけるオタク的営みは、我々のそれと本質を同じくするのか否か、という問題である。海外でのオタク受容については、近年多くの文献が出ているが、ビジネス的な観点から論じたものが多い。もう少しオタク内在的な調査と考察が必要であろう。

 よく論じられる多様性問題は、基本的には以上七つのうちのどれかに分類可能であるように思われる。

多様性問題にたいする私見の整理

 次いで、以上に挙げた七つの論点にかんして、これまでにさまざまなテキストで述べたことをもとに、私の立場をまとめておきたい。面倒臭いので、かなり端折った記述になるが、ご容赦いただきたい。

  1. ジャンルに由来する多様性
  2. 基本的に私のオタク観は、物語の鑑賞をベースに妄想する、というところを軸に置いたものとなっている。そのため、物語性のないジャンルにたいする趣味的な関わりは、そもそも「オタク」と呼ばない。また、物語性があるかぎりで、ジャンルによる多様性を認めない。ただし、オタク的活動にしばしば伴う「やってたのしい」「つくってたのしい」という快楽については、この捉え方では見逃されてしまうので、このあたりについてはさらなる考察が必要であると考えている。

    さらにもう一つ問題を指摘しておきたい。声優のアイドル化である。

    かつて母屋の論考の一つで私は、アイドルオタの態度もまた、キャラクターとそれにまつわる物語から快楽を引き出すものであるからして、私のオタク論の延長線上で扱うことができるのではないか、という仮説を提示しておいた。(「声優オタクの特殊事情」を参照。)この議論を完全に撤回するわけではないが、その時点では気づいていなかった問題を確認しておきたい。

    それは、オタクの濃さをどこに見て取るか、ということおける差異である。私のオタク論では、オタクの濃さは第一に妄想能力の強さ、第二に知識に置かれることになる。しかし、このような理解はアイドルオタ的な態度には馴染まないように思われる。私はそれほど詳しくないので、聞きかじりプラス印象論になってしまうのであるが、アイドルオタの濃さにかんしては、一個の崇拝対象への忠誠心の強さが要求される度合いが大きいようだ。つまり、一人のアイドルにどれだけ資源(時間や金や労力)を費やしたか、ということが、アイドルにかんする一般的な知識の多さや広さよりも重視されるということだ。ところが、漫画やアニメやゲームにかんしては、一つの作品にしか興味がない、一人のキャラにだけ執着する、という態度は、オタクとしてあまり濃くないものとされてしまうのではないか。『けいおん!』グッズに何十万かけたとしても、アニメを『けいおん!』しか見たことがない場合には、ほとんどオタクとして評価されないのではないか。私が典型として考えるオタクとアイドルオタとのあいだには、明らかな価値観の違いがあるのだ。

    さて、昨今の声優の総アイドル化、オタクポップのメジャー化に伴い、いわゆるオタク的態度とアイドルオタ的態度とが交錯する場面が増えてきている。それは、違った態度をもつオタクたちが交流する、ということでもあるし、一人のオタクが両方の態度を兼ね備える、ということでもある。ここからどのような問題が生じてくるのか。新たなオタク文化の展開が見られるのかどうか。これらの点については、さらなる考察が要求されるであろう。

  3. 世代に由来する多様性
  4. いわゆるオタク第一世代的態度を、妄想を核に置かないがゆえに、オタクの範囲から排除する。そして、第二世代以降については、世代による多様性を認めない。ところで、世代問題として語られているものの多くは、実は次に挙げる年齢の問題を誤認したものではないか、と私は考えている。若い世代は必然的に年齢が若いので、困った行動をしがちである。さらに、年々「オタク」という語が低年齢層にも使われるようになってきたので、若い世代はより幼いものとなってきている。しかし、これは真の世代問題ではない。見かけ上の錯覚にすぎないのだ。

  5. 年齢に由来する多様性
  6. この論点についてはあまり語ってこなかった。私のオタク論は、しばしば子ども的な態度との対比を強く出したものになっている。つまり、大人があえて選びとる趣味がオタクである、というような了解が私にはあるのだ。すなわち、私がある人を「オタク」と呼ぶのは、まあ少なくともその人が高校生になってから、できれば18歳過ぎてから、なのである。これは、あまり一般的ではない立場であろう。聞くところによれば、各種イベントなどには小学生がごろごろいるそうで、こういったいわゆるオタクの低年齢化現象などについてもっとよく考える必要がありそうである。また、年を喰ったオタクの独特の雰囲気については何度か語ってきたが、こちらは本質的な違いとまでは考えていない。

  7. 性差に由来する多様性
  8. この差異についてはあまり重視していない。欲望の種類は当然のことながら違うが、オタク的な営みの構造そのものには基本的には変わりがない、と考えている。

  9. 能力に由来する多様性
  10. この論点については、ライトオタク論、ヌルオタ論との絡みでいろいろと語ってきた。基本的には、オタクはすべて濃さを志向すべきである、というのが私の立場である。ただし、一見オタクとして薄いような言動を、濃いオタクがあえてなすことがあるので、これについては注意が必要となる。少し詳しく述べておこう。

    一般化すれば、言動の濃さ薄さと能力の濃さ薄さが対応しない、ということ、これが鍵である。薄い言動をするのが薄いオタク、と言い切れるのであれば簡単なのであるが、そうではないのだ。これまでそこここで挙げてきた論点のうち、重要なものを挙げておこう。第一に、薄いオタク的言動をすることが、ある種の芸になっている場合がある。たとえば、脊髄反射的な台詞が、場の空気を盛り上げるために、計算ずくで繰り返されることがありうるだろう。第二に、薄いオタク的言動をすることが、愛の表現になっている場合がある。たとえば、関連グッズを買いあさる行為はたいして濃いものではないが、好きな作品、キャラ、アーティストであれば、誰でもやりたくなるものである。また、本当に好きな作品については、もはや理屈を捏ねて語る気がなくなってしまう、ということもある。第三に、作品の側が薄いオタク的受容を要求する場合がある。簡単に言えば、頭を空っぽにして脊髄反射で楽しんだほうが勝ち、というようなタイプの作品がある、ということだ。

    薄いオタクが濃い言動をしようとしても失敗するであろう。しかし、濃いオタクが薄い言動をする、ということはいくらでもありうるわけだ。オタクはすべて濃さを志向すべきであるとしても、つねに濃く振る舞うべきである、とはならないのである。

  11. ライフスタイルに由来する多様性
  12. コミュニケーション能力の有無云々をオタク論に絡める発想については、いろいろと批判してきた。これまで論じてこなかったのは、居住地の問題と経済状況の問題である。本質的な差異を生むとまでは考えていないが、居住地問題は面白そうである。地方出身のオタクの過去の苦労話などを聞くことがたまにあるのだが、いろいろと考えさせられる。

  13. 文化に由来する多様性
  14. この論点にかんしては正直なところ勉強不足および経験不足で、現段階でなにか語ることはできない。

 こんなところであろうか。最初に述べたとおり、基本的にはオタクの本質にかんして一元論を採用しているので、多様性や変化をあまり重視しないのが私の立場、ということになる。

おわりに

 以上、オタクの多様性問題にかんして、整理および私見の要約を行った。とりあえずは、ここまで、ということにしたい。本稿の一部はウェブログのテキストを再利用したものであるが、元テキストにたいして有益なコメントをくださった皆様に感謝したい。また、声優のアイドル化にまつわる問題は、某中華料理屋で後輩たちと飲んでいて指摘されたものを整理したものである。同席者諸君の示唆にも感謝したい。

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