ライトノベルは二度結末を迎える

ちょっと堅めに語りはじめよう

 あるアート作品のあり方は、作品そのものの内在的な論理だけでなく、外在的な事情をも反映して決定される。たとえば紙粘土だけで等身大フィギュアをつくろうとしても、まあ無理であろう。割れたり折れたりしてしまう。このような物質的な事情のほかにも政治的な事情とか経済的な事情とか作者の家庭の事情とか、さまざまな外在的事情がアート作品のあり方に影響を与えうるであろう。

ライトノベルの出版形態をみてみよう

 ここで着目したいのは、ライトノベルにおける業界の事情である。ラノベ作品の物語のあり方は、もちろん、第一義的にはその物語の内在的な論理によって決定されるであろう。しかし、それだけではないのではないか。どうも、ラノベ業界の事情というやつが、ラノベのあり方に影響を与えているようだ。そのため、かなり毛色の異なるラノベ作品が、なぜか似通った特徴を共有する、という事態が見られるのである。

 では、共有される特徴とはなにか。
 多くのライトノベルは、二度結末を迎えるのである。

 単純な話である。たいがいのラノベは、単行本第一巻分のお話としてひとまず執筆される。それで評判がいいようだとシリーズ化されていくわけだ。これがラノベのビジネスモデルである。そのため、一般に、ラノベはシリーズ化されることを見込んで書かれることになる。このとき興味深いのは、第一巻に当たるであろう物語単位の位置づけである。これは、シリーズの出発点であると同時に、それだけで単独の作品として読んで楽しめるものでなければならない義務を負っている。
 シリーズになれるような作品でなければ、ラノベレーベルのラインナップに連なることは難しい。シリーズとして展開して固定ファンに安定して売れてこそのラノベだからだ。この意味で、第一巻は、完結してはならない。他方、第一巻が一つの作品としてきちんと完結して、読者に満足を与えてくれるものでなければ、そもそも人気がでることもなく、シリーズ化されることもないだろう。すなわち、第一巻は完結していなければならない。
 このように、ラノベの第一巻は、二つの正反対の要請を満たす義務を追っているのである。
 この要請を満たすためには、ラノベは二度結末を迎えるような構成を採るほかないだろう。一回目の結末は、第一巻の終りに。二回目の結末は、シリーズそのものの終りに。
 二つの結末をもつことが、連載漫画やテレビアニメやその他もろもろのジャンルからラノベを弁別する特徴の一つなのである。

とりわけ恋愛モノに注目してみよう

 ここで、ラノベにおけるラブストーリーに話を移したい。
 ラブストーリーは明確な結末をもつ場合が多い。それは恋が実ったり実らなかったりする瞬間であったり、初めてのいろいろなコトを経験する瞬間であったりするだろう。その瞬間を目指して物語が動いていくのが、ラブストーリーの基本構造である。
 もちろん、すべての恋愛にかかわる物語が結末への志向性を強くもつわけではない。ラブコメディには、特定の結末を志向しないものも多い。
 お付き合いした後、結ばれた後でのもろもろを描くラブコメを想起されたい。作品ジャンルの形式と相性がいいのであろうか四コマ漫画に多い、ラブラブカップルもの、新婚さんモノなどが例となろうか。このようなタイプの作品は、結末を目指すことなしに続いていくことができるだろう。また、関係が明確に定まっていない状態でラブがコメっていて、キャラクターたちがその不安定な関係を保存したままで話が続いていくような作品もあるだろう。くっつくかくっつかないかの状況で話を転がす、ラブコメの王道である。この手のタイプの作品にも、特定の結末を目指すという性格が欠けている。これを、結末志向型の物語と差別化して、萌えコメと名づけておこう。
 さて、以上のようなジャンルも存在するのだが、ラノベ、それも第一巻分の物語には、明らかに結末志向型のラブストーリーであるようなものも少なくない。以下では、これについて考えてみる。

 ラノベの結末志向系ラブストーリーには一つの問題が存する。
 先に、ラノベは二度結末を迎える、と述べた。ラノベのラブストーリにもこれは当てはまる。まず、第一巻の終りで、その恋愛の物語は結末を迎えねばならない。また、それに加えて、シリーズ化されたのち、シリーズの終りで再び結末を迎えねばならない。 このような要請がラノベにはあった。
 ところがである。ラブストーリーについては、結末を二度つくることが難しいのである。

 ラブストーリーの結末とは、恋が実ったり実らなかったりする瞬間や、初めてのいろいろなコトを経験する瞬間である。それは、当該の物語において、その恋にとってはまさにその瞬間がいちばん大事だ、とされたからこそ、結末となっているわけだ。そうであるならば、その結末を一度書いてしまえばそれで物語は終わりのはずだ。結末は二つにはなりえないのである。
 この問題は、ラブストーリーに特有のものである。たとえばヒーローものを考えてみよう。一度結末を迎えた物語を再始動させるのは、比較的簡単である。新たな悪が登場すればいいのだ。ミステリーでは新たな事件が起きればよい。SFでは新たなワンダーが生じればよい。これらのジャンルでは、物語の再始動にそれほどの違和感はない。物語が再び動き出しても、その前の結末そのものの価値が決定的に損なわれるわけではないからだ。新たな敵や事件が登場しても、かつての勝利、かつての解決は、そのものとしてかつての位置づけを保ちうるであろう。
 しかし、ラブストーリーにおいては事情が異なる。先に、ラブストーリーの結末は、問題の恋にとっていちばん大事な瞬間が生じたところになる、と述べておいた。この「いちばん大事」という最上級表現が問題である。一度結末を迎えたラブストーリーの物語が再始動する、ということは、すなわち、先に結末とされていた瞬間が、実は結末の名に値しないものであった、という含みをもってしまうのである。これは読者を混乱させてしまうであろう。
 つまりこういうことだ。恋愛というのは一連の連続的な過程であって、そこには結末というものはそのものとしては存在しない。どちらかの葬式までいくらでも過程を辿ることができるのである。これは、逆に言えば、物語上の要請によって、どの段階でも結末にしうる、ということを意味する。たとえば、出会って相思相愛になって喧嘩して仲直りして性交して結婚して子どもできてまた喧嘩して仲直りして…というところのどこでも結末にしうるのだ。だからこそ、この瞬間こそが結末だ、と一度決めたものを後になって覆すことが、ラブストーリーにおいては難しいのである。それは、物語の物語としての統一性を決定的に損ねてしまう可能性が高い。簡単に言えば、グダグダになってしまうのである。

ライトノベルにありがちな現象を考えてみよう

 さて、すでに述べたように、そうであるにもかかわらず、ラノベは二度結末をつくらねばならない。それは、ラブストーリーであっても変らない。では、どうなるのか。もちろん、正攻法でラブストーリーを再始動させようとする試みもある。それで成功すれば万々歳である。しかし、これはなかなかに難しい。以下では、迂回路をとる戦略を考えたい。

 ラノベのラブストーリーに特徴的な事態として、シリーズ化に伴うジャンルの微妙な移行という現象が指摘できるように思う。ラブストーリーで二度結末をつくるのは難しい。そこで、一度めの結末がラブストーリーであったとしても、再始動したあとの物語をラブストーリーではない別のタイプの物語にしてしまうのである。このときには、先に指摘した問題は生じない。
 第一巻はたしかにラブストーリーだったのだが、シリーズ化されて以降は、キャラクターがその関係を保ちつつワイワイ騒ぐような非結末志向型萌えコメに変化していたりする例などは多い。萌えコメの場合は、ラブストーリーのような問題は起こらない。ネタが尽きないかぎり、いくらでも話を転がすことができるだろう。また、第一巻は純然たるラブストーリーだったのだが、シリーズ化されると、恋の行方ではない別の主題を登場させたり前景に出したりして、そこを軸に話をつくっていくようになる例もあるだろう。このときも、ラブストーリー部分が足止め状態であっても巻を重ねることができるので、問題は回避されることになる。
 ラノベのラブストーリーにしばしば目につくこういった移行には、作品ジャンルそのものの要請に応答した結果という側面もあるわけだ。第一巻の結末は典型的ラブコメだったりするので、ときにこういった移行に乗り切れない読者が出てきて、二巻からあとの雰囲気の違いに違和感を覚えたりすることがある。しかし、それはある意味でラノベのラブストーリーの宿命であって、仕方のないことなのである。

 このあたりの事情は、アニメ化されたラノベの場合は、アニメ版と比較してみたりすると面白いだろう。アニメから入ったりすると、このような引っかかりが起きにくかったりする。それは、アニメの場合は、シリーズ単位で構成がなされるからであろう。シリーズ構成という仕事が一つ入ることで、原作には残っていた移行のつなぎ目が目立たなくなるのである。
 私としては、逆に、この移行のありようを見定めることを、ラノベを読むときの楽しみの一つとして積極的に受容するのがいいのでは、と思う。シリーズが安定してしまう前の、第一巻の結末から第二巻の物語が動き出す瞬間、ここで作者はしばしばなにかを仕掛けている。新しい事件の発生、新しいキャラの登場などに隠れて、物語のジャンルや主題を軌道修正させてきていることが多いのだ。ラブストーリーの場合、比較的それがわかりやすいのであるが、他のジャンルのラノベにも、こういったポイントは存在する。ラノベであるかぎり、やはり二度結末をもつからだ。ただし、上述したような独特の事情をもつラブストーリーならともかく、他ジャンルで結末の二重性の問題が露骨に読者に見取られてしまう、というのは、作者の未熟さの表れと取られても仕方がないのかもしれない。
 ともあれ、作者の結末の二重性を処理する手つきの巧拙を味わうのは、他の小説ジャンルではあまり経験できない、ラノベならではの楽しみなのである。

具体例のないまま話を〆る

 最近ライトノベルを読むのがけっこう楽しくなってきたので、少し前に書いたテキスト「『涼宮ハルヒ』の迷走」のネタを練り直して一般化してみた。
 それと同時に、ラノベに特有の文学ジャンルとしての特徴はあるのか、あるとしたらそれはなにか、という定番の問題に、私なりの角度からちょっとだけ光を当ててみた次第である。
 もうちょっと具体的な作品の分析にも踏み込みたかったのだが、これは別の機会にしたい。このところ忙しくて、一作品を丁寧に読み込んだり、シリーズの既刊を全部読み通したりする余裕が生活にないのである。そうかといって、ろくに読まずにエア批評するのは私の趣味ではない。というわけで、少々半端に終わることをお詫びしたい。

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