『電脳コイル』と記憶の取り違え

 萌えるオタクは物語の評価を間違える。よくできていない作品について、物語として面白かった、と思ってしまうのだ。
 このことの原因を、萌えオタは能力が低いので作品をきちんと鑑賞できていないからだ、とするのは誤りである。これでは問題の重要な含意を取り落としてしまう。ここに見て取るべきは、能力の低さではない。オタク、とりわけ萌えているオタクに特有の物語想起の様式である。

 以前私は「萌え語りの論理と倫理」というテキストで、オタクに特有の物語読解様式について考察を行った。そのさい、私はオタクがしたがうべき倫理として、「寛容の原理」なる規則を示しておいた。
 本稿の問題意識は、これと少々重なるが、まったく同じというわけではない。ここで問題にしたいのは、オタクがしたがうべき物語との接し方の規範ではなく、オタクが実際に行ってしまっている物語との接し方の事実である。

 オタクが萌える存在だとしよう。萌えるということは、キャラクターへの着目を含意する。ある物語を読むさいに、オタクはその物語をキャラクターについての規定の記述として読み替える作業を行っているのである。
 この点にかんしては、すでにいくつかの拙稿で指摘しておいた。さらにここから一歩進んで、以下のような仮説を立ててみたい。
 オタクは物語の内容を想起ないしは再認識するさいに、物語をそのものとして思い出すことをしていないのではないか。そうではなく、諸々のキャラクターの規定から物語を再構成しているのではないか。

 萌えつつ物語を読解するときに、オタクは、物語をそのつど諸キャラクターの規定に置き換えていると思われる。物語をキャラクターについての情報として受容し、キャラクターについて萌えているのである。このとき、物語の大きな流れはあまり重要視されなくなる。物語は、それを構成する個々の部分的なエピソードに解体されつつ受容されるわけだ。「萌えはエピソード単位で喚起される」という私のテーゼを想起されたい。
 さて、注意すべきは、この過程がオタクにとって無意識的なものである、ということだ。自分がそのようなオタク的な読解を行っていることをオタクは気づかない。オタクにとっては、まさにキャラクターが萌えあがってくるという現象がはじまりであり、すべてであるのだ。
 このことは、キャラクターから物語そのものへと目を向けるためには、オタクは意識的な注意の向けかえを行う必要がある、ということを意味する。ところが、ここで問題が生じる。
 オタクにとって、あらためて物語そのものが問題になったとしよう。このときオタクは、物語を思い出すのではなく、萌えているキャラクターから物語を再構成してしまうことが多いのではないだろうか。
 オタクにとってまず手近にあるのは、いくつかの印象的なエピソードと、自分が萌えているキャラクターだけである。そこで、オタクは、諸々のキャラクターを組み合わせ、「このキャラクターはこうで、あのキャラクターはああだったから、原型の物語はこうだったはずだ」というような推論を手がかりにして、原型の物語を再構成する。そして、その再構成を、想起と取り違えてしまうのである。

 さて、再構成された物語は、往々にして、物語の原型からずれてしまう。たとえば、キャラクターそのものの魅力が一定程度以上に高い場合には、物語の再構成に無意識のうちに補正が入ってしまうだろう。このような魅力的なキャラクターがいた物語なのだから、きちんとした物語だったに違いない、というように。
 かくして、再構成を想起と取り違えることで、オタクは原型の物語を見失うのである。そこでなされる作品の評価が不適切なものになってしまうのは、もはや当然のことであろう。つまり、萌えるオタクは、その本性からして、物語の評価をし損ないがちなのである。

 ここで強調しておきたい。以上の事態は、表層を見れば、キャラクターの魅力に引きずられて物語の評価を間違える、ということでしかない。しかし、問題は、これがオタクの萌えの機構と密接に結びついた誤りだということだ。つまりは、オタクの本性に由来する誤りなのだ。
 もちろん、意識的に萌えの発動を差し止めて、物語そのものの出来を判定することも、やればできるはずだ。それは否定しない。しかし、これはつまり、わざわざやらなければできない、ということを意味する。たとえば、批評しようとする(私の場合はこれ)とかアンチになるとかいった、なんらかの別の動機が入り込まないと、オタクは物語をそのものとして想起することをしにくいのである。
 すでにそこここで述べたことだが、こういうこともあって、「オタクは批評を核とする存在ではない」と私は考えるわけだ。

 ということで、前置きは終わり。本題の『電脳コイル』である。

 アニメ版『電脳コイル』を全体として眺めてみると、お話そのものの出来はそれほどよくない。描くべき要素をきちんと描けていない。主人公である小此木優子の描写が足りないがゆえに、どうして彼女を軸に物語が回っていくのかよくわからない。さらに、もう一人の主人公である天沢勇子とヤサコとの関係性の描写も足りなかった。そのため、物語の骨格がいまひとつしっかりしないままで終わってしまった。もちろんキャラクターには魅力がある。それはいい。しかし、それとお話の出来とは別のことのはずだ。

 ところが、『電脳コイル』のキャラクターに魅せられたオタクの多くが、『電脳コイル』の物語の欠点を、それがわかりやすいものであるにもかかわらず、失認してしまっている。これが面白い。あたかも『電脳コイル』がよくできた物語であったかのように語る人が少なくないのだ。
 もっと酷いアニメはいくらでもあると言われればそうかもしれない。ダメアニメ群のなかでは、偏差値はそれなりに高いことは確かだ。しかし、絶対評価で考えれば、それほど高い点数はつけられないのではないか。

 私はここに、先に指摘した萌えるオタクに特有の物語想起様式をみる。

 萌えるオタクは、『電脳コイル』の原型の物語からヤサイサを抜き出したうえで、自分の妄想のなかでヤサイサを絡ませる。そのうえで、『電脳コイル』物語を再構成する。しかし、再構成された『電脳コイル』はキャラクターへの愛と妄想が混入した、想起としては不正確なものになってしまっている。描かれるべきであったが描かれなかったことを補足したり、エピソードの配分を調節したり、展開の冗長だった部分を刈ったり、といった操作が加わってしまっているのだ。つまり、想起のつもりで、そうであった物語ではなく、そうであるべきだった物語を思い浮かべてしまっているわけだ。
 私の感じだと、テーマがそれなりに重そうでキャラクターに魅力があり、絵になるエピソードをいくつかもっている作品は、実際にはテーマを描ききれず、物語としては中途半端であった場合であっても、あたかも大河ドラマを描ききれていたかのように錯覚されがちのようだ。
 『電脳コイル』受容はまさにこのような記憶の取り違えの一例なのである。
 アニメ版の評価の落としどころとしては「随所に目を惹く点があったが、全体としては物足りない」が順当なところではないか、と私は感じている。

 以上のような事態は萌えるときにかぎって起こることではない。燃えるときにおいても類似した事態を指摘できる。
 たとえば昭和第一作目の『仮面ライダー』などは、そのものとしては駄目な箇所も多い。子どもを舐めているとしか思えない手抜きも数知れない。しかし、燃えるオタクは、それらすべてをなかったことにして『仮面ライダー』を再構成している。そして、その再構成を想起と取り違えている。
 まあ、この取り違えは錯誤というより確信犯である場合が多いのだが。

 ここまで作品の内実についてなにも触れていないので、話をずらしたい。

 アニメ版の出来について首をかしげたわけだが、そこで私が推したいのは、小説版『電脳コイル』(宮村優子、徳間書店)である。すでに指摘したようなアニメ版の足りないところがきちんと補ってある。
 小説版にかんしては、「アニメ版とは違う話になっている」とか「ヤサコが黒い」とかいったことが言われるが、ちょっとこれは的外れである。『電脳コイル』のお話をちゃんとやろうとすると、小説版のようになるのである。アレが正しいのだ。唯一の正解である、とまでは言わないが。
 まあ、小説版を独立させて考えすぎてもいけないのかもしれない。基本的に我々は小説版の台詞を脳内アフレコして読んでいるわけで、アニメ版なしに小説版の魅力の全体が成立するわけでもないからだ。さらに言えば、未完結なので、着地するまでわからないしな。
 それを踏まえたうえで、なんとなく私の見込みを述べておけば、以下のようになる。

 ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』が『電脳コイル』の遠い先祖だとしよう。ここで鍵になるのは、電脳空間の広がりの行き着く果てがどこにあるのか、ということである。
 ギブスンのような古典的サイバーパンクの出発点は「コンピュータに繋がれば、身体を動かさずに全世界のどこにでも行くことができる」というインドアでユビキタスな発想にあったわけだが、『電脳コイル』は少々異なる。メガネがウェアラブルコンピュータであることが効いている。メガネは着用者を実際に走らせるのである。サイバーパンクであるにもかかわらず、アクションが肉体的条件に拘束されるのだ。小説版には「メガネで遊ぶ子どもたちはサッチーから逃げ回るので、身体能力が昔の子どもより高い」というような記述があったりもする。「ゲームばっかりやっている最近の子どもは身体能力が落ちている」というお決まりの主張の逆をついているわけだ。
 このように身体性を前面に出すことで、アクションの行われる空間が、子どもたちの身の丈範囲内に限定される仕組みになっている。無際限に広がりうるはずの電脳空間が、子どもの狭い行動空間の枠内に重なるかたちでのみ登場する、という舞台設定はなかなかに興味深い。
 実のところ、人為的に造られた空間は、それだけではそれだけのものでしかない。人為を超えた「なにか」が存在するリアルな空間に繋がる可能性を孕んでいるからこそ、電脳空間の広がりは我々を魅了するのだ。
 そこで、ギブスンの電脳三部作は彼方へ彼方へと電脳空間を突き抜けていった果てに、最終的に宇宙のどこかの他者へと繋がった。空間的な外部の他者へと爆発的にスケールを広げていったわけだ。
 ところが、『電脳コイル』は逆を行く。
 『電脳コイル』の電脳空間は、近所の路地裏に張り巡らされた記憶の細い糸を辿ることで、「子どもたちの忘却された過去」という、きわめてささやかであやふやなものに繋がっていく。空間は限定されているので、広がりようがない。そこで、ギブスンとは異なり、空間ではなく時間に、外部の他者ではなく自己の内面に、つまりは自らの過去に繋がっていくのだ。電脳空間は、空間的な外部にではなく、時間的な内部、すなわち過去へと導くものとなる。登場人物たちは、内向に内向を極めていくのである。「ウェアラブルコンピュータによるサイバーパンク」が、このような図式を可能にしている。
 さて、ジュヴナイルという観点からすると、これはなかなかに難易度の高い試みであろう。
 過去についての内向的反省は基本的に老成の証だから、子どもに子どものままでこれをやらせようとするのはかなり危険な綱渡りである。一方にズレると、いやにオッサンオバサン臭いキモイ子どもができあがってしまうし、もう一方にズレると、これまたウンザリのセカイ系チックな悪しき自閉に堕してしまう。
 しかし、もちろん、こういう未成熟な内向こそが、オタク系ジュヴナイルの核心をなす主題なのだとも言えるわけで、この危険な綱渡りをどのようにこなしてみせるのかが、『電脳コイル』に期待されてくるわけだ。
 ここで話を戻すならば、このような主題をアニメ版はどうも展開しきることができずに終わった感が否めないのである。これをどこまで深く突っ込んで描いていけるかが、『電脳コイル』小説版の課題ということになるだろうか。
 (このあたり掲示板で「ファンですよー」氏に頂いたコメントをもとに加筆してある。ありがとうございました。)

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