U−5 社 会 認 識 を い か に 深 め る か



『 教育評論 』 (アドバンテージサーバー、VOL628、1999.8) 掲載論文

                            開発教育協会 小貫 仁
                            地域と地球をつなぐ学びの広場主宰
                            http://www.ne.jp/asahi/onuki/hiroba/


 「総合的な学習の時間」は横断的・総合的な学習として総合学習を提起している。従来の教科の系統性の枠を超えて現実的課題に取り組むこと、さらに、課題解決のために主体的な学びの方法を重視することなどは、学校における授業のあり方への革新的な問題提起を含むものとして注目したい。
 一方、「総合的な学習の時間」はこれまでの一元的な能力主義の行き詰まりを打開しようとするもので、「関心・意欲・態度」中心の学力観に立って各々の子どもの能力に応じるところにその特徴がある。このことは、この時間が単に子どもの興味・関心等に依拠するだけの体験主義の学習に終始してしまう危険性とも表裏一体である。
 ともあれ、私たち授業者は「総合的な学習の時間」における総合学習の意義と課題を踏まえて、それをどのように展開するか検討すべき時期に来ている。社会科の視点としては、総合学習で社会認識をいかに深めるかが大きな課題である。


初期社会科に学ぶ

 まず、社会科の貴重な遺産である初期社会科を検討してみよう。言うまでもなく、社会科の原点としての初期社会科は既成学問の系統に依存しない総合教科であった。そして、生活の中の具体的な問題の課題解決学習を通して子どもの社会的経験を発達させ、社会についての理解を深めることをめざしていた。
 しかし、この総合教科の実践に対してさまざまな批判が出され、初期社会科は約十年にしてその姿を消すのである。その批判とは、目の前の社会生活の理解にのみ傾き、社会の現実に適応するにとどまっているとの指摘。また、活動重視が強調されるあまり社会事象に密着しすぎて、基礎学力を保障せぬまま「はいまわる社会科」に陥っているとも批判された。
 今、私たちは同じ轍を踏まぬためにも、これらの批判を十分に吟味することが必要だろう。特に、「総合的な学習の時間」は社会の変化に主体的に対応できる資質や能力の育成をねらいとしているが、社会に対して受動的でなく、能動的に社会変革に参加し得る開かれた主体の形成こそが肝要である。また、活動重視の学習では、身近なところから社会のしくみに至る社会認識の見通しこそが問われよう。

今日の社会科教育の苦悩

 ここ数年、全国教研の社会科分科会では、初期社会科を否定して成立したはずの系統的教科学習における知識注入授業を超えようとする傾向が顕著である。討議の柱の方法関連の名称は「楽しくわかる」から「教えるから学ぶへ」と転換した。討議の場では総合学習を先取りするかたちで、子ども主体の授業で子どもの社会認識をいかに深めるかが真剣に検討されている。
 ここで問題としているのは、生徒の主体性よりも教師の主体性なのである。「教えるから学ぶへ」という時、教師は「教えない」のかそれともいかに「教える」のか、こうした素朴だが本質的な問いを現場の教師はぶつけあっている。
 「教えない」と「教える」の対立は「経験」と「教科」の対立でもある。これに関しては初期社会科の生みの親・デューイにまで戻って検討することも意味があろう。例えば、デューイはその著書『子どもとカリキュラム』(1902)で経験と教科の対立の止揚を検討し、教育とは子どもの現在の経験から出発して教科の真理の体系へと入り込んでいく不断の再構成であると考察している。子ども中心の学習においても教師による「指導」が不可欠なのであり、そのためにこそさまざまな対話の満ち溢れた学びの共同空間を必要としたのである。こうした学習の深まりをどう築くかが、子ども主体の授業実践上の大きな課題である。

総合学習カリキュラムと子どもの学習権

 各学校が総合学習のカリキュラムを創造するとき、何よりも不可欠なのは、校内の教師集団による真剣な討議である。
 その際の検討でまず留意すべきは、子どもの学習権であるように思われる。ここでの学習権とはユネスコの「学習権宣言」(1986)に由来している。現在の学校での学習が子どもにとってどれだけ意味あるものであるかが問われる。学習を通して、自分の存在を読みとり、世界とつながり、自分たちの地球社会を築くための手だてを得ることは学習者の権利である。言い換えれば、真の学習とは、そのようにして世界を認識し、学習者が歴史の主体となることを可能にするものでなければならない。
 これは「子どもの権利」を授業でどう生かすかとも関わっている。子どもは学習を通して意見を表明する力を得、そればかりでなく、学習のプロセスで自己の価値観を鍛えることで、学習主体になると共に参加主体にもなっていくのである。

カリキュラムの国際化

 さらに留意すべきはカリキュラムの国際化である。これは先の学習権の延長上にあるが、新学習指導要領に例示されている国際理解を単に取り上げることのみを意味するのではない。むしろ国際理解(異文化理解)は課題のひとつなのであって、環境・開発(貧困と格差)・人権・平和などの国際的諸課題の総合こそが意識的に求められなければならない。 このことに関して確認すべきはユネスコ「教育勧告」(1974)の意義であろう。この勧告は、日本では今日までほとんど無視されてきたが、主体的な学びについて批判的な思考、討論の重視などさまざまに例示し、さらに「国際理解、国際協力および国際平和のための教育ならびに人権および基本的自由についての教育に関する勧告」という正式名称が示すように、基礎となる国際理解に加えて人類の切実な課題への取り組みと国際協力の重要性を提示して、それまでの国際理解教育よりも一層広義の「国際教育」を提唱していた。
 総合学習カリキュラムのテーマ設定においては、以上のような見地に立って、子どもと世界をつなぐ見通しを考慮したい。

注目したい取り組み事例

 学校での具体的な検討に関連して、ここでは総合学習を先取りして実践している宮城県の私立高校の事例を紹介したい。この学校は1996年度から3年次に「地球市民学習」という名称の選択科目を配置した。授業内容に関しては校内の委員会による独自のカリキュラムが作成されている。そして、科目のねらいは「グローバルな課題に目を向け、人類的な視野の中で人格の形成をめざす」ことであるとしている。このことを、教師集団が校内でさまざまに討議するなかで確認し、教科の枠を超えた横断的・総合的な学習を可能にしてきた。
 学習の領域は、「人権・民主主義」「公正・平等」「平和・共存」「多文化・多価値理解と相互依存・共生」「持続可能な開発」という五つの基本概念に基づいて設定されている。そして、複数教科が相互に乗り入れる総合科目として、ゆるやかなティームティーチングが行われ、それを社会科がマネジメントするかたちで進めている。
 この例のように、カリキュラム作成過程は、ねらい・目標、課題領域、テーマ、方法などに関する具体的検討を必要とするが、そこでは同時に、共通見解をもって教科の枠を超える取り組み体制が望まれる。

社会認識を深めるためのテーマとスキル

 子どもにとって意味あるテーマとは何であろうか。テーマ設定上の原則は、人間としての生き方に切実な問題や人類が直面している課題を取り上げることである。それらは、子どもの生活現実の中の問題であり、生活から世界につなげることのできる問題でもある。その実践においては、校内で組織された指導体制の下での複数教科の連携が不可欠であるが、その際、先の例のように、社会科の担う責任は極めて大きいと思われる。
 同時に、新たな観点での技能(スキル)が問われる。ここでのスキルとは、書き話すという表現に関するスキル、聞き討論するという意見表明に関するスキル、資料収集し分析するという調査研究に関するスキルなどであるが、人間関係の形成、決定への参加などの社会的スキルも重要である。
 総合学習の実践ではこのようなスキルの発達に注意深く留意する必要がある。こうしたスキルの獲得を通して、学習者は学びを自己の生き方とつなぎ、未来を築くことに向けての参加主体に成長する手だてを得るのである。

経験と知識の統合

 総合学習には大きな意義があるけれども、それは「総合的な学習」が各教科での学習と有機的につながることが前提である。何より、教科の重視する知識と総合学習の重視する経験が対立してしまってはならないだろう。総合学習は、現実的な課題に則して、知識を経験的に再構成する学習の深まりこそが問われる。
 また、教科も創り上げた「総合的な学習」から多くを学ぶべきである。それぞれがまったく別物として存在して校内に二元的な授業形態が存在することは総合学習を本当に創り上げていることにはならない。私たちは教科主義の枠をこそ超えなければならない。

枠を超える学習

 総合学習における学びとは、教科の枠を越えた総合的な内容領域の課題が準備され、生徒と教師そして学校の枠を超えて地域の人びとが共に参加する場における協同学習であると考えたい。
 子どもたちが他者や世界に対して心を閉ざす傾向が指摘されて久しい。特に、1970年代以降、ズタズタにされてきた子どもたちの学習の権利は最早ごまかしのきかないところまで来ているのではないか。授業の変革が求められるが、特に留意すべきは地域の異なる人との出会いや触れ合いの体験である。社会認識とは、そうした日常の場と関係を組み替えることで、子ども自身が心に感じ、気づいていくところから始まるものと思われる。 総合学習で社会認識を深めるためには、教科との有機的なつながりとともに、こうした学校の枠を超えるさまざまな創意工夫が求められる。学びの場に地域や世界の多様な人びとの声が反映されることが課題追求を一層深める契機となることを考えたい。インターネットの活用なども含めて、総合学習はあらゆる枠を超えて広がり深まるものである。


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