テーマの構造化の試み 〜 教育実践のための覚え書き


出典: 『開発教育 No.44』(開発教育協議会、2001)掲載論文

                             開発教育協会 小貫 仁
                             地域と地球をつなぐ学びの広場主宰
                             http://www.ne.jp/asahi/onuki/hiroba/


はじめに

 開発教育協議会内のカリキュラム研究会(世話人:田中治彦)は、1998年からの3年間、新学習指導要領の「総合的な学習の時間」を意識した総合学習のカリキュラムを作成する作業を行った。その成果は『いきいき開発教育−−総合学習に向けたカリキュラムと教材』(開発教育協議会、2000)に結実した。そこでは、カリキュラムの概念を再定義し、ウェビングなど学習展開の具体的な方法を示した上で、厳選した12のテーマについてのカリキュラムを例示している。
 これらのカリキュラムには幾つか重要な共通点がある。第一に、子ども主体の学びであること。第二に、地域(NGOなど)と連携していること。第三に、身の回りから世界とつながる学びを展開していること、である。開発教育実践のための今日的な指針と言えるだろう。
 研究会の残された課題は様々にある。現在重視しているのは、地域に開かれた総合学習を実践するための学校運営の問題、最終的な評価の問題などである。開発教育の軸となるカリキュラムとして、イギリス教材『援助と開発』(開発教育協議会、1995)の日本版が必要という意見も出ている。
 そして、それらに関連して、より根源的な課題を避けて通れないと考えている。それがテーマの構造化である。教育実践にはある程度全体像の連関が必要なのである。また、昨秋の第2回総合学習セミナーで次のようなアンケートの回答を目にした。曰く「結局、開発教育って何? には今後も答えられないのではないか。開発教育をもしくは開発教育としてやることの意味は?」。テーマの構造化は「開発教育の考え方と視点」を明らかにすることになるから、こうした問いへの対応でもありたい。勿論、これは簡単ではない。関わる人の数だけの捉え方がありうる。それでも、ここでは、開発教育ならではの構造化を試み、その「見取り図」を提案したい。これは、『いきいき開発教育』で示された実践のための指針の基盤となるものである。

テーマの構造化の試み−−地域と地球をつなぐ学びの構想

1)開発教育カリキュラム研究会とカリキュラムの転換
 開発教育の全体像の整理は、かつて1980年代前半に、国立教育研究所内の開発教育カリキュラム研究会が行ったことがある。その作業はきわめて重厚なもので、開発問題学習の全体像を系統的に整理している。そこでは、開発問題学習カリキュラムの構造として「南北問題」「国際協力」など9つの領域を提示していた。
 この成果は大なり小なり実践者に影響を与えてきた。カリキュラム研究会でもこの成果を吟味し、全研での共有と検討も行った。結局、今日では、カリキュラムの考え方自体が違っているのである。当時はその展開を〔ねらい→目標→内容〕と考えていた。そうした知識目標の体系化は開発教育の体質と相容れないものがあったようにも思われる。そのことが今日の「カリキュラムの転換」ではっきりしたと言えよう。
 新しいカリキュラムの展開は、〔主題→探究→共有〕という子ども主体の課題学習である。そこでのプロセス自体を重視したい。そこには、子どもの生活の場から出発して学習素材と関わり、その意味を問い直す学びの展開がある。私たち自身の生活を問い直すことが最初であり最後である。
 勿論、開発教育は地球規模の課題と向き合う教育である。身の回りと世界とのつながりを築く学びである。重要なのは、地球的課題を自分の問題と受け取ることのできる「地球市民」となる学びのプロセスである。

2)原点としての「貧困・格差」と「国際協力」
 テーマの構造化にあたって、まずは、開発教育の軸となるものについて確認する必要があろう。開発教育が、元来、1960年代の南北問題への関心に伴って欧米諸国で誕生したことからわかるように、開発教育の学びの原点は南北問題学習である。具体的には「貧困・格差」や「国際協力」の課題学習である。
 その後、開発教育は、時代状況を反映するかたちでその内容を多様化してきた。今日、広義に捉えるならば、開発教育は隣接領域を総合するアンブレラをもった教育でもある。開発問題を焦点としながら、地球的諸課題に対して「開発のあり方を問う」視点で世界認識の学びを形成している。そこでも、原点である「貧困・格差」「国際協力」の課題学習が中心軸のはずである。
 ところで、外務省は、用語「開発教育」の学校での扱いについて、文部科学省と調整を行っていると聞く。文部科学省も時代の要請である地球的諸課題に十分対応できていない「国際理解教育」を意識しており、開発教育の機運を無視しきれなくなっていることが伺える。多分、開発教育は「国際協力のための教育いわゆる開発教育」くらいで学校現場に位置づくことになるだろう。開発教育が「ほんとうの国際協力」の模索を学習課題としていることは確かである。けれども、余りの「明快さ」には躊躇させられる。「国際協力のための教育」の内実が問われよう。国際協力への学びの裾野とそのプロセスこそがむしろ重要であるが、その内容は現場の実践が決めていくことになる。
 本研究のねらいは、テーマの構造化のなかで、「貧困・格差」「国際協力」をどのように捉え、その上でどのように広がりを持ちうるかを整理することである。

3)「剥奪」概念の導入
 「貧困」について考察をまとめよう。今日、「貧困」は広義に解釈される傾向がある。人間が労働力としてしか見なされず、人間が人間らしい生活を生きられない現象は、北の国々における「人間貧困 (Human deprivation)」とされる。次のような日本社会の様々な現象がそれである。過労死、ホームレス、子どもの選別、公害病、ジェンダー、障害者、孤老の死、外国人労働者 etc. ・・・このような課題をどのように解決しながら前へ進むのか。ちなみに、この「人間貧困」という用語は国連開発計画『人間開発報告』(1990)に現れている。
 これらの現象は、何らかの社会のしくみによって人間が人間らしさを奪われている状態である。人間としての開発(人間開発)から疎外されている。それゆえに、これらの日本社会の現象は開発教育の重要な学習対象となる。断るまでもなく、開発は南の国々だけの問題ではない。次項で詳しく書くが、こうした「人間貧困」に対峙することこそが、国際協力に必要な社会性(公共の心)と問題解決能力(問題解決のスキル)を培うのである。 けれども、「人間貧困」という用語はどうしても腑に落ちにくい。それに、本来の経済的な「貧困・格差」の概念と混乱する危険もある。開発教育にとっては、「経済的貧困・格差」に向き合うことは重要である。ゆえに、「人間貧困」に属する「貧困」を語源のまま「剥奪 (deprivation)」として捉える。本研究に大きな影響を与えてくれている西川潤は、「貧困」を「剥奪」として明快に定義している(『<新版>貧困』、岩波ブックレット、1994)。「剥奪」とは、社会構造に発して人間が人間らしさ(人権)を奪われている状態であり、私たちの身の回りにも数多く認識できる状態に他ならない。
 なお、付言すると、デューイの指摘によれば「私的個人とは公的立場を剥奪された (deprived) 個人である」と言う(佐藤学『カリキュラムの批評』、世織書房、1996)。つまり、「剥奪」という概念は教育の根本課題としての「公共性の剥奪」に関係している。私たちが開発教育で根本的なテーマとしているのは、人間社会における「関係性と公共性の回復」ではないだろうか。

4)剥奪の克服としての「エンパワーメント」と「参加」
 「人間貧困としての剥奪」はフリードマンの定義する「力の剥奪」モデルにも対応している(『市民・政府・NGO』、新評論、1995) 。フリードマンによれば、剥奪された力を獲得(エンパワー)すること、そのための「参加」が重要である。(図1)

(図1)フリードマンの「力の剥奪モデル」 − 略 −

 このことは私たちの社会も同じである。剥奪は社会のしくみによって生じる構造的なものである。したがって、剥奪の克服は単に金銭の供与では真の解決とならない。私たちの社会が失っているものを獲得するための問題解決能力が必要である。私たちの社会こそが開発されねばならないのである。足元の社会を、一人ひとりが人間として生きられる共同体とすべく模索するのが開発教育の第一歩である。そして、それだけにとどまらず、生活の場と地球社会を切り離さずに「地域と地球をつなぐ学び」を築く。世界の人びとと共に生きることのできる地域づくりを模索する。こうした学びによって、子どもは「地球規模で考え、地域で行動する」市民となる。私たち一人ひとりが共に生きる力(元気)を自分のものとするのである。
 図2は、まとめとしての見取り図である。『いきいき開発教育』の12のテーマを巡って、研究会と教材作成チームの共同作業で作られたものである。「貧困」と「国際協力」を中心軸としながら、私たちの身の回りの、政治、経済、文化に関する現実(諸問題)を「剥奪」というフィルターで見ることで、その剥奪を克服するための課題解決学習を築くことを提示している。

(図2)テーマの構造化の見取り図  − 略 −

 その学びは、各々の課題とじっくり取り組まなければならない。私たちの社会に何が欠けているのか、それを「エンパワー」すること、そのための民主的な「参加」。そうしたものを学びたい。そして、子どもの民主的な参画の体験を重視したい。こうした「学びのプロセス」こそが開発(development) 教育と考える。"development" とは「封じ込められた状態からの解放」を意味する。仏教用語の「開発(かいほつ)」とは人間の根源にある人間性の発露を意味する。

おわりに

 以上は、カリキュラム研究会の最近の研究動向である。勿論、個人的な見解で書いているから、本稿の文責はすべて筆者が負う。
 1974年の「国際教育勧告」(ユネスコ)の20周年に当たる1994年、国際教育会議は「平和、人権、民主主義のための教育」の行動要綱を提示した。世界の国際教育の方向性はこの路線上にあると考えられるが、本研究も、最終的には、これらに「持続可能性」を付け加えることで4つのビジョンをイメージしている。日本の社会は「民主主義(参加)」をキーワードに考えても「途上国」である。「開発」とはそれらが達成されていくプロセスであり、結果でもあるだろう。
 けれども、本稿は中間報告である。見取り図は完成されていない。ここに公開することで、開発教育に関わる大勢の方々と共に手直しして行きたい。総合学習で、身の回りから世界とつながる学びを地域と共に築くために、ご意見をお寄せ下さると幸いである。実践に裏打ちされた様々な視点とテーマ群を見取り図に組み込むことで、より豊かな開発教育像をイメージできる可能性がある。
 昨秋の総合学習セミナーで作られた7つのカリキュラムも、参加者が自由な発想で作成したが、やはり身の回りから世界とつながる学びを構想していた。そこには、身の回りから自己を世界に開いていく方向性と、地球的視野で身の回りを見据える方向性の柔軟な相互作用が現れていたように思う。このように、開発教育は地域学習と地球学習を総合化する。また、それゆえに、「総合的な学習の時間」で例示された課題領域(国際理解、情報、環境、福祉・健康)をも総合化するのである。


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