U−1 貧困と開発に関する一考察 

    出典:『開発教育 No.51』(開発教育協会、2005)掲載論文

 
                                          開発教育協会
                                          小貫 仁


はじめに

 本稿は、旧開発教育協議会が1995年に発行した『援助と開発』の改訂作業から見えてきた「貧困」と「開発」についての新しい捉え方をまとめようとするものである。「貧困」と「開発」の概念は開発教育のカリキュラムの軸となるものと思われる。2002年にスタートした改訂タスクチームは、2年間にわたる検討を重ねるなかで、「経済開発」「社会開発」さらに「人間開発」などの開発概念を総合化する見方に至っている。そして、それらはJ.フリードマンやA.センの開発思想に多くを依拠している。ここでは、「貧困と開発」の学びのあり方にも言及しながら、私なりに咀嚼して報告しよう。

「貧困と開発」に関する学びを構想する

1) 『援助と開発』の意義と改訂の必要性
 『援助と開発』はイギリスの開発教育教材を原典とする教材集である。原典は "Dhaka to Dundee" (1988) 。リーズ開発教育センターが関わり、NGOのWar on Want が出版した。この教材集は、バングラデシュを対象として、開発教育に関わる7つの題材を総合ユニットにしている(Unit1:Family life、2:Rural life、3:History、4:International trade、5:Jute、6:Aid and development、7:Migration and racism)。日本語版『援助と開発』は、このうちの Unit6を翻訳し、日本で使えるように修正した。その上で、学校及び社会教育での実践事例を加え、「開発教育教材とその実践事例集」(副題)として発行したものである。
 この書の特徴は、「開発(development)」に関して幅広い視座を提供しているところにある。開発は、一般的な経済開発の考え方を含みながら、さまざまなことを意味している。もともとは、"de + envelop" で「封じ込められた状況からの解放」が原義。ところで、「援助(aid)」のプロジェクト内容は援助する側が開発をどう考えるかに左右されるであろう。したがって、援助を検討するには必然的に開発をどう捉えるかが問われる。こうして、『援助と開発』は、開発とは何かを考えながら、どのような援助が望ましいかを考察する学習教材であるところに意義があった。さらに、方法的には、そのための多種多様な参加型手法を活用した教材を提供していた。この教材集は中等教育向けであり、開発教育の入門書に適している。特に、教材「開発とは何か」(ランキング)は、現在でも開発教育の紹介の場で使われることが多いと自負している。
 今回の改訂は、当初、「開発と協力」についての独自のカリキュラムモデルを創ることをねらいとしていた。ところが、改訂作業の過程で、貧困の克服としての開発を捉えるには、「貧困」の捉え方から再構築しなければならないことと明らかになった。『援助と開発』は援助のあり方を考えるために開発を考えており、その前提となる貧困に向き合っているとは言えない。もう少し書くと、「貧困とは経済的欠乏」という経済開発の枠の中にとどまっているからである。今日では、貧困は経済的欠乏だけでは捉えきれないであろう。それが、後に解説する、J.フリーマンやA.センらの導いた新しいパラダイムである。
 例えば、「開発とは何か」(ランキング)についてのカードの不具合も指摘された。そのダイヤモンド型ランキングの9枚のカード内容は、最近の岩崎裕保氏(帝塚山学院大学)の訳で書き出すと次の通りである。

(A)「国の生産が増し、それによって富や仕事が増えること」
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(B)「権力や権限がより平等に人々にいきわたり、行使できるようになること」
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(C)「人々がもっと健康で幸せになり、いっそう自信をもち、そして身の周りのことに疑問をもったり発言できるようになること」
(D)「産業基盤(例えば交通網)が十分整備され、経済が成長すること」
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(E)「近代的農法や大工場などのような進んだ技術を導入すること」
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(F)「生活維持や福祉のために、他の国々に依存することを止めること」
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(G)「強力で安定した政権を樹立すること」
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(H)「誰もが中学・高校教育を受けることができ、より良い家族計画がなされ、充実した保健サービスを受けられるようになること」
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( I )「貧困をなくすこと」

 このカード群でどうしても気になるのは(I)の「貧困をなくすこと」である。「何のための開発か」〜「開発は貧困の克服」という道筋で考えるとき、その克服対象には「経済的欠乏」以外にさまざまな状況がある。上のカード群はまさにそのことを表現しているはずである。ところが、「貧困をなくすこと」というカードは、今日の視点で考えるとここにふさわしくないものに見えるのである。すべてのカードが貧困から克服を説明しているという立場からは。
 こうして、今回の改訂は、「開発と協力」に関する企画を超えて、その前提となる貧困問題から再出発するという、まったく新しい企画となった。重要なのは、貧困が経済的欠乏だけではなくもっと幅広い状況を含むものであり、南の国々だけでなく、私たちの生活のなかに起こりうる問題であるという認識である。このことは、近年、国連開発計画(UNDP)の『人間開発報告』の「人間開発」及び「人間貧困」という概念にも現れている。

2) 新しい「貧困」と「開発」の概念
 こうして、私たち『援助と開発』改訂タスクは、南北に共通の貧困に向き合うことになった。それでは、新しく捉えた「貧困」とはどのようなものであろうか。
 開発とは貧困克服のプロセスであるという大前提については既に触れた。ここでは、開発が経済的欠乏を克服する経済開発だけでないことも自明である。
 すなわち、今日、貧困は広義に解釈される傾向がある。人間が労働力としてしか見なされず、人間らしい生活を生きられない現象は、北の国々における「豊かさの中の貧しさ」である。それはUNDPの「人間貧困」とも表現できる。私たちの社会の病理現象を列挙することは容易であろう。例えば、貧富格差の拡大、借金地獄、ホームレス、福祉の後退、環境破壊、さらに、マイノリティ問題、ジェンダー問題など、さまざまな私たちの社会の歪みである。
 これらの現象は、何らかの社会のしくみによって人間が人間らしさを奪われている状態である。人間としての開発(人間開発)から疎外された現代の「人間疎外」である。そして、これら「豊かさの中の貧しさ=人間貧困」は「経済的欠乏」つまり「欠乏としての貧困」を含む「剥奪としての貧困(deprivation)」と捉えることができるであろう。単なる状態ではなく、社会構造に発して、人間が人間らしさ(人権)を奪われているのである。これは、社会における関係性の問題である。そして、貧しさの核心にある「剥奪」は社会のしくみによって生じるものであるから、その解決は単なる金銭の供与では不十分である。私たちの社会が失っているものを獲得するためにの問題解決能力が必要である。私たちの社会もまた「豊かさの中の貧しさ」の克服つまり開発を必要としている。ここでは、私たち自身が私たちの状況をより良くするための気づきとエンパワーを獲得することが何よりも重要である。私たち一人ひとりが主体的に問題を捉え、その問題の解決に向けて気づきを深め、さらには問題解決のために参加していくことで社会のエンパワーにまで至る。こうしたプロセスこそが、開発そして協力の核心と言えるのではないだろうか。

3) J.フリードマンとA.センによる新しいパラダイム
 これまで考察してきた「貧しさ」のキーワードは「剥奪」と「エンパワーメント」である。これらのキーワードは、J.フリードマンとA.センの思索に負うものである。ここでは、私たちの検討内容との関わりで、その概要を確認しておきたい。
 まず、フリードマン(John Friedmann, 1926-)においては、貧困とは各世帯における「社会的な力の剥奪の一形態」である。そこでは、8つの基本的ニーズ、つまり、生活空間・余剰時間・組織・ネットワークという基本的基盤と、さらに、教育・情報・生産道具・資金という発展的基盤とがともに剥奪されている。


 < 図 フリードマンの「力の剥奪モデル」 >  (略)


 図で重要なのは、組織とネットワークをつなぐ縦軸であろう。これが社会的関係性の剥奪に直接つながっている。フリードマンは、ここでの関係性の変容を力の剥奪からのエンパワーメントとして構想している。これは社会における権力関係の変容に他ならない。そして、これを実現する政治的手段が「参加型民主主義」である。
 ここで、立ち止まって考えてみたい。「力の剥奪モデル」は開発途上国と称される南の国々だけの問題だろうか。「参加型民主主義」が実現しているはずの私たちに「力の剥奪」はないのだろうか、と。
 例えば、横軸の生活空間と余剰時間の欠如は人間の基本的ニーズの核心であるとされている。私たちは、自分の生活空間が充足しているだろうか、余暇時間が充分だろうか。かつて「ウサギ小屋」と酷評された住環境、時として「過労死」が話題と労働環境などを想像することができるだろう。あるいは、社会的関係性としての縦軸はどうだろうか。日本は本来的に横のつながりの薄い社会ではないだろうか、あるいは労働組合などの社会組織は弱体化しているのではないだろうか。南の国々では明らかに欠如している斜めのラインにおいても同様の考察が可能である。不良債権問題やデフレ経済、情報公開や受験地獄・・・・・・日本の社会は本当の「参加型民主主義」が実現しているとは言えない。これからもっと良い関係性を築いて行かなければならない必要性が見えてくるのである。これが、フリードマンから学ぶ実践的な理解である。
 次に、セン(Amartya Sen, 1933-)における貧困とは、「ある状態になったり、何かをする」機能(functionings)を実現する基本的能力(entitlement)が何らかの原因によって損なわれた状態である。これがセンのいう「権利の剥奪」である。つまり、人間はその潜在能力(capability)が奪われている。したがって、潜在能力の選択幅の拡大こそが開発である。それは自由の拡大をも意味する。そして、その克服にとって重要なのは、権利を奪われている人びとが積極的行為の主体者となることである。参加型民主主義の保障こそが重要である。
 さて、フリードマンの「力の剥奪」とセンの「権利の剥奪」を展望してきたが、重要なのはキーワードとしての「剥奪(deprivation)」である。開発にとって重要なのは、経済的な欠乏を含んだ剥奪としての貧困である。そして、その気づきがエンパワーメントの第一歩である。そこから、剥奪を克服するプロセスがエンパワーメントのプロセスであり、開発のプロセスであると考える。私たちがフリードマンとセンから得たものは、ダイナミックにより良い社会を創造するためのエンパワーメントの認識に他ならない。
 ここには、これまでの経済開発と社会開発を総合する視座が含まれているだろう。それはまた、開発経済学の新しいパラダイムにも結びついている。A.センの影響で、今日の開発経済学は明らかに過渡期にある。ここで考察してきた新しい開発教育の視点にとって、開発経済学の新しいパラダイムは重要な学問的背景として無視できない。こうした過渡期の状況は、政府ODAの新しいあり方にも必ず反映していくであろう。

4) 「貧困と開発」の学びの構想
 これまでの考察を踏まえて、「貧困と開発」の学び(開発教育)について触れておきたい。
それは、開発教育の目標へのアプローチとプロセスに関する事柄である。
 まず、開発教育の4つのアプローチを、気づきとエンパワーメントの視点で捉え直してみよう。第一の「文化理解アプローチ」は、人間の尊厳性や世界の文化の多様性を理解するものであるが、ここでは、人権の剥奪への感受性や多様な価値観の尊重が学びの基礎として重要である。第二の「課題解決アプローチ」は、貧困や格差の現状を知り、その原因を理解するものであるが、ここでは、剥奪された状況への気づきが何よりも重要である。第三の「関係理解アプローチ」は、開発をめぐる問題と地球的諸課題及び私たち自身との関わりを理解するものであるが、ここでは、状況における力の剥奪の欠如や環境の持続可能性を理解することがポイントとなる。最後の「課題解決アプローチトーチ」は、まさに課題解決への取り組みであるが、貧困の克服に向けてエンパワーメントと参加が重要なポイントとなる。
 次に、開発教育の学びのプロセスについて。開発教育のプロセスは、「知る」〜「考える」〜「行動する」の三段階と言われてきた。これはどう考えることができるであろうか。ここでは、これまでの考察を踏まえながら、P.フレイレ(Paulo Freire, 1921-1997)の思索を加味して整理しておきたい。開発教育の学びでは、まず「知る」ことが重要だが、それは知識としての状況理解である。その上で、「考える」とは、剥奪された状況として理解し、変革可能な現実として再構成していく「意識化」である。そして、次の段階で、学習者は、それまでの主体的な気づきから、剥奪された状況に対して参加型民主主義を通して自覚的・主体的に変革して行く力を得る。エンパワーする。こうして、子どもたち一人ひとりが主体的に問題に気づき、それを解決可能なものとして学びを深め、さらには問題解決に向けて参加できる力を培っていくプロセスが開発教育である。
 最近の『子どもの参画』で紹介された「アクション・リサーチ」はまさにこの学習プロセスに他ならない。学習者は、地域に出て地域の現状を調査する。その結果、地域の課題と感じたことについて地域での解決策を模索し、問題解決の策が見つかったならば、民主的な方法でその地域づくり案を提案して行くのである。ここには「参加」を通して、民主的に地域の改善に関わった成功体験も、明日の主権者である子どもたちの貴重な学びとなる。今日の学びが、地域の現実と乖離しがちで、知識があって気づきがないことと対照をなす学びがここにはあると言えるだろう。
 子どもたちは、こうした学びを通して、社会に関心をもち、自分自身の社会あるいは世界のために行動できる力を獲得する。そして、そのような、自分の能力の開発こそが、人間に自由をもたらし、社会の可能性をも拡大することになるのが開発教育の学びの本旨と考える。

おわりに

 以上は、『援助と開発』改訂タスクチームの最近の検討内容である。勿論、私個人の発展的見解をつけ加えているから、本稿の文責はすべて筆者が負う。タスク作業の方向性であるが、「貧困と開発」の学びを検討したのちは「開発と協力」の検討に向かう予定である。そこでは、互いに真の開発を進めあう国際協力のあり方を学びたい。
 これからの開発教育は、ここで考察してきた「貧困」と「開発」を原点としながら、ESD(Education for Sustainable Development , 持続可能な開発のための学び)を展開して行くことが求められるだろう。そして、もう一つの原点である「国際協力」へと進むのである。その具体的展開は、アクション・リサーチのように、学習者が学習対象との関係性を深め、自ら学び自ら気づく活動を通して関係性の再構築に参画していくことが基本になるだろう。それこそが「地球規模で考え、地域で行動する」ことである。さらに、地球レベルの協力関係が築ければ、それはより地球規模の活動となり、「地球規模で考え、地球規模で行動する」ことにもつながるであろう。
 そこにおいて重要なのは、学習者と共にあって、共に学び促進する存在としてのファシリテーターである。開発教育の担い手にはファシリテーションの力量向上が不可欠である。そうした内容と方法の学びを、私は開発教育の「学びの転換」と考えている。


参考文献 :
・開発教育の教材を作る会 『援助と開発』(開発教育協議会、1995)
・国連開発計画 『人間開発報告書』(国際協力出版会、1997)
・小貫 仁 「テーマの構造化の試み」(開発教育協議会『開発教育』No.44、2001)
・西川 潤 『人間のための経済学』(岩波書店、2000)
・J. フリードマン 『市民・政府・NGO』(新評論、1995)
・A. セン 『自由と経済開発』(日本経済新聞社、2000)
・P. フレイレ 『被抑圧者の教育学』(亜紀書房、1979)
・R. ハート 『子どもの参画』(萌文社、2000)
・開発教育協会編 『参加型教材で世界を感じる』(開発教育協会、2003)


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