V−2  貧   困



 出典:『開発教育〜持続可能な世界のために』
     (学文社、2008)
                               拓殖大学
                               国際開発教育センター
                                  小 貫  仁


  コ ラ ム (まえがき)

 2007年夏、私はタイに現地調査に出かけた。「国際教育協力イニシアティブ」事業(文科省)に関連して、幾つかの学校を訪れ、授業を参観し、インタビューするのが目的だった。訪れた教育現場は東北タイ(イサーン)である。テーマは都市でなく農村の教育の質的向上だった。生活状況は教育へのアクセスに大きな影響がある。私は、教育の前提として、イサーンの農村の現状に改めて大きな関心をもったのだった。

 タイでは1970年代半ばから都市部と農村部の所得格差が拡大してきた。工業化の進展による産業構造の変化が経済の高度成長をもたらした裏面である。まして、イサーンはタイで最も貧しいとされている地帯である。私が聞き取りで接触した生徒の家庭はどこも出稼ぎが常態だった。借金が積み重なり、農業では生活を維持できず、父親は都市に出稼ぎに出ている。世界一の米輸出国を支えているはずの農村は疲弊していた。そして、聞き取りをすすめるうちに、私は三つの現実に向きあうことになった。
 第1に、すでにふれたように、工業化優先政策で工業と農業の所得格差が拡大したこと。タイ国内の「南北問題」である。工業化の進展は貨幣経済の浸透というかたちで消費生活をも変化させた。この生活の変化も、かつてはお金に依存せずとも衣食住で自立できていた農村の「豊かさ」を奪っている。
 第2に、農業も近代化を進めていること。化学肥料と農薬の投与、機械化による生産性向上の取り組みを進めている。そして、従来の米・キャッサバ・タピオカなどよりもピーナッツ・メロン・コーヒーなどの商品作物への転換が随所に見られる。けれども、これが悪循環して、借金と出稼ぎに結びついている。
 第3に、グローバル経済での激しい競争にさらされていること。もともとコストの安いタイのコメ生産だが、今日では、アメリカなど先進国の輸出補助金付き米価と競争している。グローバリゼーションの進展の下での過当競争がタイの農家を苦しめている。

 さて、これらは私がタイの農村でみた貧困の要因である。そして、強調したいのは、こうしたタイの農村で私が感じたのは、日本とタイの「違い」よりも「共通性」だったことだ。日本の農業もまた、工業化の波に取り残され、グローバルな競争の下で、農業の近代化も行き詰まりをみせているのではないか。もっと一般化してもよい。第1は日本国内にもある格差の拡大である。第2は経済優先の近代化が抱えている問題。そして第3に今日のグローバル経済の激しいコスト削減競争に勝ち残りを賭ける経済の現実である。
 さらに私が見たものをつけ加えると、要因が同質ならば、どうしたら良いかの対策も同じ方向性をもちうることだった。印象深かったのは、現地の人たちによる「農村開発センター」の視察である。そこでは、有機農法に活路を求めて無農薬でコストを削減し、生産の多角化に取り組んでいた。農村の再生に向けた下からの力強い息吹が感じられた。私はそうした試みを目の当たりにして、新しい開発が住民主体でなされるとしたら凄いことだと感じるとともに、日本でも可能性を模索している自立できる農業つまり“地産地消”の需給システム、さらに“地域循環型”の開発のあり方をイメージしたのだった。

 この章では、こうした南北に共通のまなざしを持ちながら、世界の貧困の現実を理解し、その上で、貧困について考える。そして、できるだけ私たち自身に引きつけながら考察を進め、地球社会のあり方について考えていく。


1 世界の貧困問題

(1) 世界の現実

 「世界には63億人の人がいますが、もしもそれを100人の村に縮めるとどうなるでしょう」というのは『世界がもし100人の村だったら』(2001)の核心部分の始まりのフレーズである。
 数字は2000年時点の概数であるが、これを読めば、読者は世界の概要を容易にイメージすることができるだろう。そこには、村に住む人々100人のうち20人は栄養がじゅうぶんでなく、すべての富のうち6人が59%もっていて、74人が39%を、20人がたったの2%を分けあっているとある。また、すべてのエネルギーのうち20人が80%を使い、80人が20%を分けあっていると説明している。[1]
 けれども、私たちはこうした数字のもつ限界性にも注意する必要がある。たとえば、この村の生活は良くなってきたのか悪くなってきたのか、この村の近年の特徴はどんなことか、さらに、村の地区ごとの詳細はどうなのか、などについてはわからないままだからである。

 そこで、「100人の村」の状況に関して、補足を加えて概観しておこう。
 世界には、今なお、人間らしい最低限度の生活を営み得ない人々が広く存在する。たとえば、世界銀行の定義する「貧困ライン」(各国の物価水準で比較して1日1ドル)に満たない収入しか得ていない貧困人口は世界におよそ10億人存在する。さらに、貧困ラインを1日2ドルに広げれば、貧困人口は25億人を超え、この数字は途上国人口のおよそ半数に当たる。[2]
 ただし、近年、世界経済全体は堅実な成長を示している。それを牽引しているのは急成長著しい中国とインドである。そして、これらの国々の経済発展は極度の貧困にあえぐ人々を減少させた。1日1ドルの貧困ライン以下の人口の割合は、減少することで5分の1未満になってきたのである。
 けれども、それにもかかわらず、世界は格差が拡大している。どういうことだろうか。世界的な傾向として、所得は貧困層も含めて増加したが、富裕層の所得がそれをはるかに上回るペースで増えているということである。1960年に世界の上位20%の富裕層と下位20%の貧困層の所得格差は30対1であったが、30年後の1990年には60対1と倍になり、1990年代末には86対1にまで拡大している。[3] この傾向のまま進めば、減ってきたはずの最貧困層が増加に転ずることも憂慮される。
 世界の貧困の解決を考えるとき、経済を発展させてパイを大きくすることは重要な課題である。けれども、パイが大きくなることとそれがどう分配されるかは別問題である。

(2) ジニ係数でみる格差

 そこで、世界の所得分配についてより詳しく知るために、最近よく使われる「ジニ係数」という指標でとらえてみよう。ジニ係数は世帯数と所得額の関係から所得の分布を表示する指標である(図5−1)。0から1までの値をとり、1に近いほど分布が偏っている。具体的に理解するために「100人の村」の例でみるならば、すべてのエネルギーのうち20人が80%を使い、80人が20%を分けあっているという格差のジニ係数はいくらだろうか。この数字だけの概算は0.6となる。一般にジニ係数は0.5を超えると何らかの改革が必要とされている。それは上位25%の所得が全体の75%を占める社会である。ところが、世界全体のジニ係数は平均0.67であり、先の0.6の計算例さえも大きく超えてしまっている。[4]


    図5−1 世界の所得分配(ジニ係数)  
   (出所:UNDP『人間開発報告書2005』、2005年)


 こうした格差の現状をわかりやすく図示したものに、いわゆる「ワイングラスの図」がある。UNDP(国連開発計画)が1992年に発表したものである。図は1989年時点の世界の格差として、上位20%の所得が全体の82.7%を占め、下位20%が1.4%を分けあうという59倍の格差を表現している。[5] 最上位6%の所得が全体の59%を占め、下位20%が2%を分けあっているという「100人の村」の描いた世界も、この「ワイングラスの図」を模してイメージ図を作成することができる。そして憂慮すべきは、先にふれたように、世界の二極分化は改善されるどころか一層進んでいることである。


   図5−2 世界の富の偏在
   (出所:UNDP“Human Development Report 1992”より作成)



(3) グローバリゼーションと格差

 近代以降の世界経済は、産業革命を経て、工業化による経済成長を軸として発展してきた。今日のグローバリゼーションは世界経済をこれまでより一層緊密に結びつけ、国際貿易を通して経済成長する条件を整えた。けれども世界は、科学技術が優位で資本の蓄積を絶えず遂行する国々と、その国々に資源を送り、製造される商品の市場ともなる国々とを生み出してきた。世界的な市場原理の展開は、経済的な発展にもかかわらず二極分化をますます進め、その陰に絶えず社会的弱者を再生産している。
 格差の現実は世界全体の所得分配の格差の問題ばかりではない。世界各国の内部でも顕在化している。世界一の経済大国で豊かなはずのアメリカの格差が顕著であるなど、先進諸国の内部をも含めた二極分化なのである。
 近年最も成長したはずの中国の国内格差の拡大も無視できない。貧困の克服には経済成長が重要な処方箋とされている。しかし、それは必要条件であっても十分条件ではないことがわかる。今日の世界規模の貧困削減への挑戦(ミレニアム開発目標)は人類の壮大な取り組みである。極度の貧困に陥っている人々が開発の梯子を昇れる機会を得るための国際的な援助協力と投資の拡大が実施され、同時に、経済の国際的なルールを公正なものにすることが求められている。ここでは、公正なルールとは何か、どのように実現可能かが問われよう。社会的な格差への取り組みがどうあるべきか、関連して、世界の貿易や金融のしくみがどうあるべきかなどは今日の人類の大きな課題である。


2 貧困の再検討

(1) 貧困の多元性

 前節では、経済的欠乏という一般的概念で貧困と格差について検討した。けれどもそれだけでは、貧困は経済成長すれば解決する問題としてしか見えないかも知れない。ここでは、貧困問題の根源に迫るために、貧困の内実を検討する。

 できるだけリアルに検討するために、世界の貧しい人たちの声に耳を傾けよう。世界銀行に『私たちの声が聞こえますか』という調査報告がある。それによれば、食料不足と失業は貧困の根本的な現象であり、道路、交通機関等の基本的インフラストラクチャーの欠如が貧困の状況を特徴づけることは確かだが、世界の貧しい人々にとって貧困はもっとはるかに多面的である。[6]
 「貧困とは屈辱なのです。誰かに依存しているという感覚、助けを求めても、無礼な態度、屈辱、無関心を受け入れるしかないという感覚が付いて回ります」(p.280 ラトビア調査より)
 ここでは、他人に依存していることからくる無力さ、自らを守る手段が欠如している状態への嘆きがうかがえる。貧しい人たちの実感は、貧困を単に「お金がない」こととだけとらえているのではない。特徴的なことは、国家のサービスがいきわたっていないこと、家庭も社会の連帯も重圧で崩壊しつつあることである。報告書は、依存度や克服する力の欠如が貧しい人々による貧困の定義の本質的要素であることに着目している。そして、貧困を安心できる自他の関係性や自立のためのアクセスの欠如とし、社会制度やしくみ、ジェンダーのあり方に関心を向けている。
 貧困を多元的にとらえ直すことは貧困の現実を一層リアルにとらえることである。人間が自分を貧しいと感じる状況とは、生活がうまくいかず、人間としての絆を失い、社会から排除されているなど、人間らしさを支えるものがない状況なのである。貧困とは、社会のしくみのなかでの社会関係で人間らしさを奪われている状態に他ならない。貧しい人々にとって必要なのは、エンパワーメント、保障、機会の提供などである。逆に、貧困はこうした諸要因が欠如した状況全体である。こうとらえることで、多元的な貧困概念は人権を保障する民主政治の内実を問うものになる。単なる経済成長ではなく、貧困を克服する社会のあり方を必要とする。

(2) センとフリードマンの先駆的研究

 貧困概念のパラダイムを転換した先駆的研究は、インドのアマルティア・セン (Amatya Sen)とアメリカのジョン・フリードマン (John Friedmann) に学ぶことができる。
 アジアで初のノーベル経済学賞を受けたセンは、これまでの開発経済学が開発を経済開発の観点からのみとらえていることを批判した。貧困とは単に所得が低いというだけでなく、人間の潜在能力すなわち人間として為す諸活動を実現する力の欠如である。つまり、人々が本来あるべき潜在能力を剥奪された状態である。センは「政治的自由」「経済的便宜」「社会的機会」「情報の透明性」「保護の保障」という五つの機能的自由を人間に平等に必要なものとしている。[7]
 この「人間開発」アプローチは、所得(1人当たり実質国内総生産)とともに、保健(出生時平均寿命)や教育(教育達成度)を主要な指標とする。また、人間開発にとってもっとも基本的な機会と選択肢が奪われた状態は「人間貧困」である。その内容は、人間開発指標に対応して、@40歳まで生存できない出生時確率、A成人非識字率、B改善された水源を継続して利用できない人口及び年齢の割に低体重の子どもの割合とされている。こうした指標は、社会的関係性から貧困が生じることを明らかにし、貧困を多面的にとらえることに貢献している。

 こうした「剥奪としての貧困」をエンパワーメントの概念を軸に考察したのがフリードマンである。フリードマンは、貧困とは各世帯がその構成員の生活条件を改善するための社会的な力が剥奪(反エンパワーメント)された状態であると考えた。貧しい人々は社会関係のなかで制度的に力を剥奪されている。したがって、社会的な力の基盤へのアクセスの機会を拡大し、人々がエンパワーすることが重要である。それによって内発的な発展が可能となる。その基盤とは、社会ネットワーク・社会組織・生活空間・余剰時間からなる基礎的基盤と、資金・生計手段・情報・教育からなる発展的基盤である。[8]


   図5−3 力の剥奪モデル 
   (出所:ジョン・フリードマン『市民・政府・NGO 力の剥奪からエンパワーメントへ』、
    1995年)



 図5−3において、基礎的基盤は縦軸(社会ネットワークと社会組織)と横軸(生活空間と余剰時間)に表現されている。特に縦軸はそこでの変容が権力関係の変革に直結する。人々が社会的な力を獲得した社会では、コミュニティの自律的意思決定、地域の自立、民主政治への参画が実現しているはずである。


3 日本の貧困問題

(1) 「剥奪としての貧困」の共通性

 貧困とは、本来その人が実現できるはずのことが社会的に阻まれている状態である。そのための条件を奪われて無力化している。このことは、私たちの身の回りでは、制度として保障されていても実際には機能していない(剥奪されている)現実として現れる。たとえば、制度としては労働の権利や選択の自由が定められていても、雇用へのアクセスが極度に狭められる現実の下で本人の努力にもかかわらず正規の職に就けないまま年をとっていく人々が増えているとすると、そこには社会制度から疎外された貧しさがあると言わねばならない。あるいは、正規雇用されていても、サービス残業が当たり前で、それが行き過ぎて過労死するまで働かざるを得ない現実があるとしたら、それがやむなしとされる実態は制度が保障する労働のあり方とは程遠い。途上国の場合と同様に、ここでも自由の選択の幅が狭められているのである。さらに、社会保障制度でのセーフティネットのあり方の問題等々、私たちの身の回りの「剥奪としての貧困」は深刻化する方向にあることが懸念される。
 また、貧困を考えるとき、経済的欠乏の見地から「絶対的貧困」と「相対的貧困」に分け、その軽重をつけるだけで両者の共通性を軽視する考え方がある。センによればそれは間違いである。絶対的に充当しなければならないものはあるが、それは経済的欠乏の視点からの貧困よりもっと根源的なものであることを理解する必要がある。所得は重要である。けれども、所得だけで終わらないことが同じように重要なのである。こうして、貧困の多元性はいわゆる先進国の内実において一層はっきりする。

(2) 日本の貧困率とジニ係数

 センの人間開発アプローチにおける人間貧困の指標は、所得の高い国々の貧困にも適用される。先に途上国の人間貧困指標にふれたが、先進国における人間貧困を測定する変数は、@60歳未満の平均余命、A識字率、B可処分所得が中央値の50%以下の割合、C12カ月以上の長期失業者の割合である。
 それでは、日本の貧困はどうなのだろうか。最近注目されるようになった尺度に「貧困率」がある。実は、これは、センが人間貧困指標で3番目にあげた測定変数である。OECDの最新の統計(表5−1)では、日本は13.5%となっている(OECD17カ国のなかでアメリカに次ぎワースト2位)。この数字は7.5人に1人が貧困層ということになる。1980年半ばまでの日本は北欧並みの低さであった。日本の相対的貧困層はここ20年で5ポイント増加している。[9]


   表5−1 OECD諸国の貧困率 
   (出所:OECD「日本における所得の不平等、貧困と社会的支出」 2007年)



 表5−1を見ると、最初の所得では、貧困率はヨーロッパ諸国の方が高い。それにもかかわらず、社会保障等を含めた最終統計では日本の方が高くなるという逆転現象が起きている。日本の貧困率の高さの背景にはヨーロッパ諸国に比べて社会保障の厚さの違いがあることに気づかなければならない。このことは、ヨーロッパ諸国に比べて、福祉が内需と結びついて社会的セーフティネットとなる経済構造となっていないことを示している。

 次に「ジニ係数」でも日本の現状をみておこう(表5−2)。ジニ係数では0.5を上回ると何らかの改革が必要とされることはすでにふれた。その改革の例が社会保障等の所得再分配政策である。自然状態ではすぐ0.5を超えてしまうのが現実であるが、通常、所得再分配機能で修正している先進諸国では0.3前後である。日本のジニ係数は0.3台であるが、2006(平成17年)で0.3948と0.4に近い水準で推移している。[10]


   表5−2 日本のジニ係数の推移
   (出所:厚生労働省「平成18年 国民生活基礎調査」2007年)


 同じ厚労省調査の所得の状況調べでは、日本の3割の世帯が300万円以下の所得である。生活保護世帯は2005年に100万世帯を超えたが、多くの人々が働きながら生活保護基準以下の生活をしている「ワーキングプア」(ここでは年収200万円以下と定義)も日本の貧困の一形態である。

(3) 身の回りの貧困の探求

 日本の貧困は「先進国の病」でもある。それらは、過労死、ホームレス、孤老の死、障害者差別、子どもの選別、公害など様々な側面をもって現れている。これらの現象は、労働時間の長さ、働く女性に不利なしくみ、住宅を含めた社会資本の不足、削減される社会保障、自己決定権を奪う教育、自然環境の破壊などの現実を象徴している。
 グローバル経済の下でのより安いコストを求める競争は過激である。企業は勝ち残るために合理化を追求する。低コストの海外に工場をもち、国内ではリストラを進め、正規雇用を減らす(今日では3人に1人が非正規労働者)。労働力としてしか見なされない人間が経済のメカニズムに翻弄されている。そして、今日の先進諸国は、格差が拡大しているにもかかわらず、所得再分配が十分に機能しにくくなっている。それは社会的排除に結びつきかねない。成功してきたはずの先進諸国の近代化は、社会的連帯を崩し、克服すべき大きな問題を抱えていると言わねばならない。

 こうした現実が日本の貧困の要因である。日本の開発問題である。だからこそ、日本に深刻な貧困はないと考えるのでなく、足元の現実を知ることが大切である。身近な地域を探求してみよう。方法としては、PLA(参加型学習行動法)やアクション・リサーチがある。PLAでは、経済開発に限定しない視点をもって、マッピング(地図づくり)しながら歩いてみる。人々の日々の暮らしを調べる。地域の組織や資源の現状を分析してみる。そこからテーマを絞り込み、文献を調べたり、インタビューするなどして掘り下げていく。そして、因果関係を分析して解決策を模索し、問題解決行動につなぐのである(アクション・リサーチについては「教材紹介」参照)。見えてくるものは、地域格差がすすむ日本の「地域おこし」に関連するかも知れない。重要なのは、センとフリードマンの問題意識を忘れないことだ。そうすれば、人間として大切なものに想いを致し、「ほんとうの豊かさとは」「そのための開発とは」という深い問いを伴って探求を進めることができるだろう。身近なリアリティのなかで、開発のあり方(本来、development とは「封じられた状態を解放する」という意味)を探求し、自分たち自身の課題に気づき、そこから一人一人が一市民として足元の課題に働きかけることができるならば、それこそが世界認識(貧困理解)の基礎となるだろうし、その一歩から何かが変わっていくことにつながるだろう。


4 貧困の克服へ向けて

(1) 世界的な不安定への取り組み

 今日の世界は余りにも不安定である。問題を深刻にしているのは、援助による債務の累積であり、先進国に有利ニなりがちな貿易のしくみであり、国際金融を混乱に陥れる巨大な余剰資金の存在などである。ここには、構造的な問題が存在している。
 世界の不安定は世界の貧困・格差の現実と密接に関連している。世界を危機に陥れる根本には富のアンバランスな集中があるからである。今日の富の偏在は、世界中の金余り現象を伴って、世界の金融市場や資源・食料市場を混乱に追い込んでいる。環境問題も相俟って、世界は安定的な存続が危ぶまれている。
 実は格差の拡大はグローバリゼーションの帰結でもある。世界的労働市場の下では、労働者の賃金に対する下方圧力が働く。そして、自国の経済がグローバル経済での競争力を維持して景気を良くするためには、福祉予算を削減するなどが必要とされ、国民は痛みを感受することを求められる。けれども、いつまで耐えても経済成長でトリクルダウン(富の浸透)による格差是正の期待は裏切られる傾向にある。しかも、無限の経済成長に問題の解決を託すことは地球環境の限界を無視しており、持続不可能である。
 こうした現実に対して、世界では、2000年に貧困撲滅を目標とした「国連ミレニアム開発目標(MDGs)」がまとめられ、2015年までに達成すべく包括的な取り組みがなされている。特に深刻なアフリカ諸国の貧困に対するアフリカ開発会議(TICAD)などの国際協力も進められている。2005年には世界規模で貧困撲滅(「ほっとけない世界のまずしさ」)キャンペーンが行われた。こうして、世界が一致して貧困に取り組む気運は高まってきている。
 今日、経済のグローバリゼーションは適切にコントロールされないまま、市場原理が進展している。様々な取り組みでは、貿易のしくみの是正や途上国の国内格差の改革などに難しい問題を抱えている。けれども一方で、たとえば北欧諸国のように、福祉と内需が有機的に結びつくことで経済的発展と社会的セーフティネットの共存に成功している例もある。世界の問題点について理解を深め、その根本因を除去できるならば、現状の修正は可能なはずである。

(2) 私たち一人ひとりの取り組み

 世界の貧困に関する構造的な認識は私たちの根本課題であるが、さらに重要なのは、私たちが世界の貧困問題に目を向け、どうしたら良いかを模索し、行動することである。それは、問題が大きすぎて自分には何もできない、あるいは寄付くらいしかできないとしてしまうにとどまらず、もう一歩踏み込んで世界の貧困問題に正面から向きあうことである。海外に出て国際協力現場に携わることのできる人材の輩出が求められる。そうした国際協力を側面から支援する行動も重要である。その上で、もっと広い視野で私たち一人一人にできることはないだろうか。「地球規模で考え、地域で行動する」というスローガンはどういうことだろうか。
 そのことを考察するために、もう一度、貧困の克服を身近な問題としてとらえ直してみよう。
 今日のグローバリゼーションの下では、私たちは貧困問題を二重の意味で世界と共有している。第1に、私たちが当事者性をもつ社会にも人間社会に共通の構造的問題が存在する。たとえば、教育や労働や福祉に関する諸問題、地域の再生と自立に関する問題、食料の自給拡大の問題などである。それらを自助努力で解決できることが大切である。自立の条件としてのエンパワーを必要としているのは私たち自身なのだ。本来の開発のあり方への模索は南の国々だけでなく北の国々にも必要なのであり、その共有と支えあいこそが参加型の真の国際協力につながるだろう。第2に、解決すべき問題で、南の国々と私たちの因果関係は構造的につながっている。世界の人々と共に生きるには、そうしたつながりの関係性を足元から変えていくことが問われる。たとえば、生活者として私たちの意識と生活がどう変わるかが問われている。つながり方を変える試みは、隣に住む在住外国人と助け合うことから始まり、消費者として購入物を見直したり、フェアトレード(公正貿易)にまで発展する例もある。私たちが変わることは、直接的行動だけでなく、世論や言論を形成し、政治や経済のあり方へのアドボカシー(政策提言など)にもつながる。こうして、二重の意味での「構造的同質性」の認識とそれを踏まえた行動がどうあるべきかは私たちの足元の課題である。
 留意点は、こうした足元へのこだわりで世界の貧困の現実を見失わないことだ。それでは世界と共に歩むことはできない。そうではなくて、私たちの問題解決行動の多くは地域に居ながらにして地球の問題解決と連結しているのであり、私たちがあるいは私たちの社会が変わることで世界が変わることにつながることこそが「地球規模で考え、地域で行動する」地球市民性をもった諸活動の根源的な帰結なのである。


【学習を深めるための課題】

1 グローバリゼーションはどうしたら人類全体を幸せにできるだろうか。その課題としてあげられている公正が求められる貿易体制や金融体制とはどういうことか、調べなさい。
2 「貧困とは何か」「豊かさとは何か」そのための「開発とは何か」について自分の考えをまとめなさい。グループの場合は、自分たちの考えを順位づけしたランキング結果を添えなさい。
3 自分たちの地域を調査するチームを作成し、アクション・リサーチ(調査し、分析し、解決への行動を伴う探求活動)を実施し、報告しなさい。


【注】
1 池田香代子、ダグラス・ラミス『世界がもし100人の村だったら』本文ページ、マガジンハウス、2001年
2 The World Bank“NEWS RELEASE No.2007/316/DEC”、2007年
3 UNDP『人間開発報告書1999 グローバリゼーションと人間開発』、北谷勝秀・恒川恵市・椿秀洋監修、国際協力出版会、1999年
4 UNDP『人間開発報告書2005 岐路に立つ国際協力:不平等な世界での援助、貿易、安全保障』、横田洋三・秋月弘子・二宮正人監修、国際協力出版会、2005年
5 UNDP“Human Development Report 1992 Global Dimension of Human Development”、1992年
6 ディーパ・ナラヤン他『貧しい人々の声 私たちの声が聞こえますか?』68-69ページ、”Voice of the Poor” 翻訳グループ訳、世界銀行東京事務所、2000年、68-69頁
7 アマルティア・セン『自由と経済開発』、石塚雅彦訳、日本経済新聞社、2000年、40-43頁
8 ジョン・フリードマン『市民・政府・NGO 「力の剥奪」からエンパワーメントへ』、斉藤千宏・雨森孝悦監訳、新評論、1995年、100-121頁
9 OECD“INCOME INEQALITY , POVERTY AND SOCIAL SPENDING IN JAPAN”、2007年、21頁
10 厚生労働省「平成18年 国民生活基礎調査」参考ページ、2007年


【参考文献】
ジョン・フリードマン『市民・政府・NGO 「力の剥奪」からエンパワーメントへ』、斉藤千宏・
 雨森孝悦監訳、新評論、1995年
UNDP『人間開発報告書1997 貧困と人間開発』広野良吉・北谷勝秀・恒川恵市・椿秀洋監修、
 国際協力出版会、1997年
アマルティア・セン『自由と経済開発』石塚雅彦訳、日本経済新聞社、2000年
ロバート・チェンバース『参加型開発と国際協力 変わるのは私たち』白鳥清志・野田直人訳、
 明石書店、2000年
デービット・コーテン『ポスト大企業の世界 貨幣中心の市場経済から人間中心の社会へ』西川
 潤監訳、松岡由紀子訳、シュプリンガー・フェアラーク東京、2000年
ロジャー・ハート『子どもの参画 コミュニティづくりと身近な環境ケアへの参画のための理論
 と実際』、木下勇・田中治彦・南博文監修、IPA日本支部訳、萌文社、2000年
小貫仁、他『貧困と開発 豊かさへのエンパワーメント』開発教育協会、2005年
ジェフリー・サックス『貧困の終焉 2025年までに世界を変える』鈴木主税・野中邦子訳、早川
 書房、2006年
オックスファム・インターナショナル『貧富・公正貿易・NGO WTOに挑む国際NGOオッ
 クスファムの戦略』渡辺龍也訳、新評論、2006年
ジョセフ・スティグリッツ『スティグリッツ教授の経済教室 グローバル経済のトピックスを読
 み解く』薮下史郎監訳、ダイヤモンド社、2007年


【教材紹介コラム:貧困と開発】

 貧困を扱う教材は幾つかあるが、貧困そのものにスポットを当てた教材は意外に少ない。しかも、その貧困観は「欠乏としての貧困」にとどまる傾向がある。
 ここに紹介する『貧困と開発 豊かさへのエンパワーメント』(開発教育協会、2005)は、貧困を、経済的な欠乏の状態だけでなく、社会関係の問題(「剥奪としての貧困」)ととらえ直す。その上で、貧困を克服するには、人々が奪われた力を取り戻す(エンパワーする)ことのできる社会のあり方が重要であることに気づき、どういう開発が望ましいかを考えていく教材である。そのために、具体的な探求対象としてバングラデシュと日本を設定し、様々な手法を駆使した8種類のアクティビティで構成している。
 この教材の特徴は、学習者が足元の地域社会を掘り下げることを求めている点にある。つまり、「貧困」というキーワードで探求現場である地域を掘り下げることで、開発の現実と本来のあり方を探求する学びが重要である。そのために、この教材ではアクション・リサーチの手法が紹介されている。
 アクション・リサーチとは、学習者が地域に出てその実情を調査し、その結果、地域の課題を発見してその解決策を模索する探求の方法である。図4のように、(1)問題の特定、(2)調査・分析・解釈、(3)活動計画、(4)状況改善の活動、(5)評価と反省、という5段階のプロセスを体験する。問題解決の糸口が見つかったならば、公開の場でその解決策を発表し、地域づくりに民主的に参画するまでを含んでいる。貧困と開発をめぐる探求では、自分たちの地域の歴史に学び、現状を認識し、さらに世界とのつながりのあり方を模索する活動が重要だろう。[11]


   図 アクション・リサーチのプロセス
   (出所:ロジャー・ハート『子どもの参画』、2000年)


 教材は以下のような構成で、世界と日本の貧困について探求している。
 アクティビティ1「いろいろな世界地図」(人間マッピング)では、世界の現状を様々な指標を通して理解する。
 アクティビティ2「貧困とは」(ウェビング)では、「貧困」のイメージを自由に出し合うことで貧困の多面性に気づく。
 アクティビティ3「バングラデシュの生活」(フォトランゲージ)では、何枚かの写真を通して視覚的にバングラデシュの生活を把握する。
 アクティビティ4「力の剥奪」(レーダーチャート)では、フリードマンの「力の剥奪」モデルを用いて、バングラデシュと日本の生活を比較し、各々が抱えている課題について考える。
 アクティビティ5「過去・現在2枚の絵から」(ピクチャーランゲージ)では、開発を歴史的に考えることで、従来の経済開発について検討し、開発のあるべき姿を考える。
 アクティビティ6「命の水」(村芝居)では、バングラデシュの村の生活を疑似体験し、貧困の悪循環を理解するとともに、村人の身になって何ができるかを考える。
 アクティビティ7「自分のまちを歩いてみよう」(アクション・リサーチ)では、自分の足元の地域を探求することで、身近な問題を発見し、行動につながる解決策を模索する。
 アクティビティ8「開発とは何か」(ランキング)では、総まとめとして、多面的な貧困を克服するための開発とはいかなるものか、私たちにとって大切なものは何かを考える。

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