T−5 貧困と学力の再検討
〜とらえ直しから再生への一考察



 『貧困と学力』(岩川直樹、伊田広行編、明石書店、2007)より

                                 拓殖大学国際開発教育センター
                                   小貫  仁

1 貧困概念をとらえ直す

経済的欠乏としての貧困の現実

 貧困とは何だろうか。誰もがイメージするのは経済的欠乏だろう。それが貧困の一般的概念である。本稿は、さまざまな現実のなかで、貧困を再検討し、その関連において、子どもの教育・学力をとらえようとするものである。

 よく知られている貧困の定義に「貧困ライン」がある。世界銀行は、1人当たり年収270ドル(1日1ドル)の収入しか得ていない状態を貧困ラインとしている。それによれば、世界の貧困人口は10億人以上である。世銀の調査範囲においては、この数は5人に1人に相当する。こうした経済的欠乏は「絶対的貧困」と言われる。さらに、貧困ラインを1日2ドルに広げれば、貧困人口は25億人を超え、この数は世界人口のおよそ半分に近づく。また、世界には貧困が広く存在するばかりではない。近年は格差が拡大している。1日2ドル以下で生活する人びとの所得は世界全体の所得の5%に過ぎないのに対して、最富裕層10%が全体の半分以上を占めている。[1]
 日本ではどうか。「貧困率」の調査がある。貧困率とは、可処分所得の中央値の50%以下の所得しかない人口の割合である。2003年度の経済開発協力機構(OECD)調査で、日本の貧困率は15.3%であり、メキシコ、アメリカ、トルコ、アイルランドに次いでワースト5位である。6.5人に1人が貧困層ということになる。1980年代半ばまでの日本の貧困率は北欧並みの低さであった。日本の貧困層はこの10年で2倍近くに膨らんでいる。[2]
 「ジニ係数」という指標もよく知られている。ジニ係数は、世帯数と所得額の累積比率曲線と均等分布線との差を描くことで分配の不平等を表示する。0から1までの値をとり、1に近いほど不均等である。例えば、上位20%の世帯が所得全体の80%を占めている社会を想定すると、そのジニ係数は0.6となる。通常、所得再分配の機能する先進諸国では0.3前後である。格差の少なさを誇ってきた日本だが、近年のジニ係数は0.4に近い。[3]

 図1 年間所得金額の世帯分布のローレンツ曲線     < 略 >
   (厚生労働省「平成17年 国民生活基礎調査」)

 図2 所得金額階級別世帯数の相対度数分布       < 略 >
   (厚生労働省「平成17年 国民生活基礎調査」)

 かつて日本は、「たとえ家が貧しくても、本人が努力すれば、いい教育を受けることができ、いい仕事について幸せになれる」社会と素朴に信じられていた。現在はどういう状況なのだろうか。社会が二極化し、格差が固定化する事態が憂慮される。そして、今日の状況を考察するためには、まず、貧困そのものの捉え直しが必要であるように思われる。


貧困概念を多元的にとらえ直す

 南の貧しい人たちの声から見えてくるものがある。世界銀行の報告書『私たちの声が聞こえますか?』を読んでみよう。世界50カ国の4万人以上の貧困者自身の見方を調査したものである。ここでは、貧困の特徴として、(1)多面的であること、(2)国家のサービスが行き渡っていないこと、(3)慣習的なネットワークが頼りであること、(4)家庭は貧困による重圧で崩壊しつつあること、(5)社会の連帯も崩壊寸前であること、を挙げている。そして、依存度や力、発言力の欠如が貧しい人びとによる貧困の定義の本質的要素であることに着目している。無力で発言力がないということは自分自身を危機的状況から守ることができないということである。報告書は、経済的欠乏を第一としながらも、貧困は単に収入の問題だけでなく、安心できる自他の関係性や自立のためのアクセスの欠如であるとし、社会の制度やしくみ、ジェンダーのあり方などに関心を向けている。[4]
 こうして、貧困と闘う代表的国際機関である世界銀行は、従来のままの「経済成長」だけでは多面的な貧困を克服できないことに気づいていると言えよう。貧困は制度やしくみによって形成される従属的関係性の問題であり、社会構造に発して人間が人間らしさ(人権)を奪われている状態と考えることができる。
 貧困の多元化は、いわゆる先進国において一層はっきりする。経済的欠乏は根源的な現象であるが、その因果関係からとらえ直さねばならない。資本主義社会において、それは自己責任の問題であった。その救済は弱者への恩恵に過ぎなかった。しかし、景気循環など個人ではどうしようもない現実から国民を守るものとして社会保障が生まれ、金銭の支給が行われる制度が成立した。けれども、この因果関係では制度やしくみは所与のものである。
 実は貧困は、グローバルな競争の中で労働力としてしかみなされない人間が経済のメカニズムに振り回される現象でもある。教育も関連して、市民の自立のための要求がくみ上げられ、社会的包摂が進むことが求められるのであって、それは既存の制度やしくみのあり方そのものの問い直しを要する問題なのである。今日、先進国の貧困は二重の困難に直面しているといえるだろう。ひとつは、社会的格差が拡がっているにもかかわらず再分配機能が機能不全に陥っていることであり、もうひとつは、金銭だけでは解決できない問題として社会的排除が起きていることである。
 こうして、貧困概念を多元的にとらえ直すことは、貧困の現実を一層リアルに捉えることになる。多元的な貧困概念は、民主政治の内実を問うものであり、新しい社会の創造を展望するものともなる。そして、突き詰めれば、貧困は自他の関係性や自立のためのアクセスの欠如から生じている。こうした視座がないと、何も見えてこないように思えるのである。「南北に共通する貧困」をとらえるまなざしを持ちたい。


センとフリードマンに学ぶ

 貧困概念のパラダイムを転換する先駆的考察は、経済学者アマルティア・セン(Amartya Sen)とジョン・フリードマン(John Friedmann)の思想に学ぶことができる。
 アジアで初のノーベル経済学賞を受けたインドのA.センはこれまでの開発経済学が開発を「経済開発」の観点からのみとらえてきたことを批判した。彼によれば、貧困とは単に所得が低いというだけでなく、人間の潜在能力すなわち人間として為す諸活動を実現する力の欠如である。人びとが潜在能力を剥奪された状態である。したがって、開発とは人びとが自らの力で自分の選択肢を拡大できることである。剥奪としての貧困は、政治的権利・経済的便宜・社会的機会・情報の透明性・救済保護の諸側面に現れる。このように視点を変えることが重要なのは、南の状況だけでなく北の国々についても、これまでとは違った見方をさせてくれるからである。確かに所得はきわめて重要である。けれども、所得の分析だけで終わらないことが同じように重要なのである。[5]
 センの影響下に貧困の指標として誕生したのが国連開発計画(UNDP)の人間開発指標(HDI)である。人間開発とは、人間の選択の幅を広げ、福利の水準を引き上げるプロセスとされる。この指標は、平均寿命、教育達成度、一人当たり実質国内総生産という三つの基本的側面を測定する。こうした指標は、貧困を計測可能なかたちに集約してしまっていることに疑問が残るものの、貧困を多面的に定義することに大きく貢献している。
 さらに、UNDPは人間貧困指標(HPI)も導入している。人間貧困は人間開発にとって最も基本的な機会と選択肢が与えられないことを意味する。ここには、途上国のための指標(HPI-1)と先進国のための指標(HPI-2)の二種類がある。HPI-1が測定するのは、(1)40歳まで生存できない出生時確率、(2)成人非識字率、(3)改善された水源を継続して利用できない人口および年齢の割に低体重の子どもの割合である。HPI-2が測定するのは、(1)60歳未満の平均余命、(2)識字率、(3)可処分所得が中央値の50%以下の割合、(4)12ヶ月以上の長期失業者の割合である(ちなみに、かつてHDIのトップだった日本は、近年、2005年にHDIで11位、HPI-2で12位と徐々に順位を落とす傾向にある)。[6]
 こうした剥奪の概念を社会的関係性の観点で深めたのがアメリカのJ.フリードマンである。彼によれば、貧困は各世帯がその構成員の生活条件を改善するための社会的な力を欠いている状態である。社会的な力は、その力の基盤に世帯がどの程度アクセスできるかによって測定できるが、それと対照的な国家権力・政治的な力・経済的な力によって制限される。力の基盤とは、生活空間・余剰時間・社会ネットワーク・社会組織・資金・生計手段・情報・教育の8つの基盤である。フリードマンは貧困を構造的なものと捉え、「力の剥奪モデル」を提示した。[7]

 <図3> 力の剥奪モデル             < 略 >
     (『市民・政府・NGO』、115ページ)

 図3において、人間にとっての基本的な力の基盤は、縦軸(社会ネットワークと社会組織)と横軸(生活空間と余剰時間)である。特に前者は、そこでの変容が権力関係の変容に直結する。これらの剥奪が南の国々だけの問題でないことは、例えば横軸において、日本の現状を想像してみるだけでわかるだろう。私たちの生活で生活空間は充足しているだろうか。私たちの余剰時間は充分だろうか。むしろ、近年は、誰もがそれらを奪われる傾向にあるのではないだろうか。本稿が真っ先に問題にしたのは斜め軸の「資金と生計手段」の問題であった。そして、これから考察するのは、もうひとつの斜め軸である「情報と知識」の問題である。[8]


2 日本の子どもの貧困と教育

貧困と子どもたちの現実

 日本の貧困の具体的な様相と子どもたちの現実はどうなっているだろうか。貧困と格差の問題は、子どもたちにどのような影響をもたらしているだろうか。
 貧困率・ジニ係数でみたように、近年の日本は貧困と格差が深刻さを増している。4割の世帯が300万円以下の所得であり、生活保護世帯は2005年に100万世帯を越えた。さらに、生活保護基準(地方の標準世帯年収約150万円)以下の世帯が全世帯(約4700万世帯)のおよそ1割ある。多くの人びとが働きながら生活保護基準以下の生活をしている実態がある。[9]

 図4 所得再分配による所得階級別の世帯分布の変化    < 略 >
   (厚生労働省「平成14年 所得再分配調査報告書」)

 子どもに焦点を当てて、先の貧困率を見るならば、同一の家族構成のもとで中位可処分所得が50%以下世帯に属する18歳未満の子どもの割合は14.3%である。7人に1人の子どもが相対的貧困層に属しており、その割合は1990年代よりも拡大している。[10]

 図5 子どもの相対的な貧困率         < 略 >
   (OECD編『世界の社会政策の動向』)

 教育に関しては、就学援助などの低所得者層向けの制度を受ける人が増加している。就学援助は、経済的理由により就学困難な生徒の保護者に対して学用品や給食費などを支給するものだが、2004年度に受給者数が130万人を超え、受給率の全国平均が12.8%に達した(就学援助は2005年度より財源委譲されて自治体に委ねられているが、受給者数カットや受給額の低下が起こっている)。公立高校の授業料の減免を受ける生徒も増加傾向にあり、授業料の滞納者も多くなっている。これらの理由で増加しているのは保護者の勤める会社の倒産やリストラである。中等教育の出口である高校生の就職状況では、求人数は若干増加傾向だが、求人倍率は依然として厳しい。事務や販売の求人に正規雇用はほとんどない状態で男女格差がある。大都市部と地方の格差も広がっている。そして、たとえ大学に進学したとしても、新卒で正規雇用に失敗すると、再挑戦での挽回は非常に難しいという現実もある。[11]
 学校の統廃合は教育におけるリストラである。競争の名の下に学校間の格差も進んでいる。フリードマンの力の剥奪の一形態である「情報・知識」の剥奪は、日本においては、まず貧困層の就学困難、さらに教育格差として出現しているといえるだろう。教育費用の負担が大きく、本人が努力しようにも格差が立ちはだかる。そして、教育格差は貧富格差の再生産につながりうる。

 経済の競争はグローバルな規模である。企業は人件費を減らすためにリストラし、正規雇用を減少させている。そしてそのことは、社会的孤立や社会的排除にまで結びついている。
 近年は「精神的貧困」も問題とされることが多くなった。物質主義の近代社会が人間的関係性を奪う貧しさの側面である。家庭でも地域でも、一人ひとりがバラバラで居場所がないと感じる子ども・若者が増えている。学校においても、子どもたちの心の病が問題になっている。自傷行為への対応などを内容とするカウンセリング研究が今日の学校では研修の不可欠な項目になっている。子どもたちは互いの無関心がこわくて仲間や拠り所を求めるのだが、助け合いや協力ということはなかなか成立しない。そのため、人間関係がむしろ「ウザイ」ものになっている場合もある。つながりを求めながらも心は閉じている。真の関係性から疎外されている。こうして、ゆたかな関係性の喪失は、貧困層とされる人たちだけの問題ではありえない。また、今日、若者は安定が保障されずリスクが増大する社会の中で将来も見失いがちである。日本社会は、将来に希望をもてる人と希望をもてない人に分裂していくプロセスにあるともいわれる。[12]


教育の貧困と学びの喪失

 貧困は教育の内実にどのような影響をもたらしているだろうか。あるいは、貧困と子どもたちの生きる場である学校はどう関係しているだろうか。
 そもそも、今日の日本では、学校で何のために勉強するのかが見えにくくなっている。それは、多くの子どもたちにとって、勉強しても先が見えないという社会の現実の反映であるだろう。また、旧態依然とした勉強への素朴な反発でもあるだろう。ここに、貧困と教育の二重の困難性、あるいはその相乗作用が見えるのである。そして、こうした問題にきちんと答えを見いだせていないとすれば、それは「教育の貧困」である。
 ここでは、教育の問題を解明するために、近代の学校システムの検討から考え始めたい。近代の学校教育それ自体の問題が根底にあるからである。本来、学校制度は、それまで生産と教育を担ってきた家庭や地域から子どもを切り離し、資本主義経済システムの担い手を育成するための制度という宿命をもっている。それは、教師が多数の子どもたちに必要な知識を教え込むシステムであり、子どもは学びの主体ではなく客体である。そこでの価値は、時間厳守・一斉・画一・静粛・集中などである。[13] 
 けれども、今日では、その学校システムに機能不全が表れているように見える。たとえば、一斉・画一性などの価値は、近代のもう片方の価値である個性・多様性と矛盾している。この矛盾を克服できず混乱していると、一方でむやみな強制のあつれきが生じ、もう一方で勝手気ままが横行する可能性もある。子どもたちのさまざまな問題は、きわめて多様かつ奥が深いものと見なければならない。今日気になるのは、結局、学校本来の画一的な価値でしか解決が図れない傾向である。そうなると悪循環で、子どもたちは心身ともにますます疲れきってしまうだろう。画一的な価値観に従順であることを強いられた子どもたちは、そうした強制の中で自分を見失う。不登校、中退、あるいは、いじめ、暴力などの原因は単一ではないだろうが、関係性を失っていること、真の公共性を学びえていない現実に留意しなければならない。そして今日、近代の学校の抱える問題は、結局、学校内部のみでは解決できない。学校教育のシステムがそのあり方を問われ、学校と地域の連携、卒業後の生涯学習などが強調されるようになったのは必然である。

 さらに、学校教育では学びのあり方そのものが問われている。一斉授業で画一的な知識を教え込む授業には限界があることに対して、それを乗りこえる地道な実践も数多いが、まだまだ教え込む技術の方に力点が置かれている現実がある。学びのあり方を模索する現場の感覚で書くならば、本来の知とは生徒自らが生活や暮らしとの関連で学びたいと思う基礎知識であり、そこから発して、自分たちの未来を切り拓く課題を追求する知恵ではないだろうか。実際、教室で学びが深まるのは、教師の意図する通り一遍の知識体系より、生徒の素朴な質問を軸に展開する授業の方である。生徒の目線で必要な知識を体系から切り取り、そこから知識体系を再構成していくことになる。教師は、生徒を主体に、授業の全体像を臨機応変に組み直していく。その上で、そうした授業が一層深まるのは、生徒の学ぶ意欲に学びのリアリティが組み合わされるときである。こうして、現場の教師の現実的課題は基礎知識の確認と総合的なテーマ探求のバランスであり、重要なのは自然や世界や地域のさまざまなリアリティである。学びはプロセスにこそある。学びの喪失を超える学びの模索には、生徒と教師が共に学ぶ「共育」の意識を出発点として、主体である生徒が他者やものとリアルに関わり合うプロセスがあるように思う。


3 南と北の教育再生の試み

欧米の市民性教育

 ここでは、近代の教育の貧しさを超えるための二つの取り組みを検討しよう。それらは、地球上の南と北それぞれの動きである。

 まず、北のヨーロッパの市民性教育の展開である。さまざまな困難を抱えている先進諸国は、それらを解決していくための教育のあり方が問われている。ヨーロッパでは、市民社会の危機に際して、福祉による再分配のみを課題とするのではなく、市民社会そのものの活性化をめざす動きである。その背景には、グローバル化の進行に伴う失業増大、格差拡大、移民問題などで社会的連帯が根本から揺らいでいる事実がある。
 特に、イギリスでは「市民教育」が必修化された。その背景には、青少年の公的生活に対する無関心、さらに、薬物使用、破壊行為、乱暴ひいては殺人など顕著に発生する少年犯罪などへの危機感があった。こうした現実は日本においても他人事とは思えない。そこで、政治的リテラシーを学び、規律や責任感など市民の自覚を高めること、そしてコミュニティの再生が求められた。市民性教育は欧州評議会も推進しており、人権と民主主義を大原則として、権利や多様性を尊重し、暴力・不寛容・排他的なナショナリズムなどを排し、社会的公正を実現するための教育をめざしている。[14] 
 こうした教育改革は、近代市民社会の再構築が重要なのであって、単に、道徳的に公共精神・しつけ・徳目を教え込むものではない。時代的限界性を内包する学校教育における学びの再生にも意を用いているように見える。グローバルな市民への対応などを含めてその内実が問われるが、注目したい動きである。


内発的発展のための教育

 もうひとつの試みは南の途上国にある。国際的な教育開発は、単に「読み書き計算」の教育の充実だけを意味しない。それは、言わば「内発的発展のための教育」である。その先駆的取り組みはブラジルのパウロ・フレイレ(Paulo Freire)の実践に見られる。フレイレは識字教育で、状況を理解できる言葉の獲得をめざした。そこでは、知識を詰め込む「銀行型教育」ではなく、状況を認識する「課題提起型教育」が実践された。状況を批判的に読み解き、自分を取り巻く課題を自ら把握する力が重要なのである。フレイレの実践は教育における主体の回復であった。それは、学習者一人ひとりが大切にされ、自分たちの社会に誇りをもって、より良い社会にしていく主体者となる教育である。人間が本来もっている力をエンパワーしていくものである。[15]

 ここに挙げた二つの試みは、教育のあるべき姿を模索するものである。これら南と北での取り組みには共通のものがあるのではないだろうか。それは、貧困がそうであったように、失われているものの回復への取り組みである。つまり、社会的な関係性や公共性の再構築に関係しているように思われるのである。


4 日本の貧困と学力

学力の二極分化

 貧困との関連で学力をとらえ直すと、それは真の学びへのアクセスが欠落していることの結果である。貧困は、教育を通して「学力の貧困」につながる。
 一般の学力テストで計測できる学力は知識としての学力である。幾つかの学力調査によれば、学力は所得格差と相関することがすでに検証されている。「東大関西調査」によれば、その相関は、子どもたちの基礎学力は確実に低下していること、その低下は家庭生活の変化特に家庭学習離れと関連していること、「できる子」と「できない子」との分極化傾向が見られること、二極分化は家庭環境と密接に結びついていることなどが指摘されている。[16]

 近年、経済協力開発機構(OECD)の生徒の学習到達度調査(PISA)で日本の子どもたちの成績が低下したことが話題となっている。この検査が計測するのは、単なる知識でなく、知識や技能を実生活のさまざまな場面の課題に活用する力である。第2回目(2003年)の結果で、日本は「読解力」が8位から14位に、「数学」が1位から6位に低下した。しかも、低いレベルの生徒が増えていることが示された。これは、所得格差の拡大と連動している可能性がある。
 この結果、日本は「確かな学力」を合言葉に学力向上を強調するようになった。けれども、そこでの学力とは何だろうか。学力の総体は、揺るぎない基礎・基本、思考力・表現力・問題解決能力、生涯にわたって学び続ける意欲、得意分野の伸長、旺盛な知的好奇心・探究心などさまざまに表現されているが、例えば、基礎・基本とは何かは不確かである。「読み書き計算」は土台だが、勿論それだけではないだろう。
 PISAの計測しようとする力が重要なものであるならば、それを「基礎・基本」として、誰もがその力を身につける教育のあり方が問われるのではないか。その意味では、学力の二極分化は基礎学力の二極分化でもある。そして、こうした基礎学力は、近代が宿命とした教え込み教育では身につけにくいものである。求められているのは課題解決のためのリテラシーであって、旧来の知識としての学力ではない。さまざまな変化に対応できるエンパワーされた知識・技能・態度をどう獲得するかが問われるのである。

 このことに関して、もう一度、視野を世界に転じて、南北のとりくみ例を挙げて見よう。
 南のタイは、中学校の完全義務教育化に向けて国をあげてとりくんでいるが、注目したいのは、タイの農村地域で、現地NGOが小学校に出向いて学校側と協同で行っている授業実践である。それらは図書普及事業あるいは移動寺小屋教室などと銘打たれているが、次ぎの三つを教育目標としている。(1)発表する力の育成、(2)自由な発想・独創性の養成、(3)聞き、話し、読み、書く力の養成。そのために、本の読み聞かせから始まって、さまざまな学習活動を実施している。子どもたち一人ひとりの「生きる力」を引き出すカリキュラムの展開である。このような教育の質の向上につながる学習機会は、「読み書き計算」にとどまらない基礎学力を自然なかたちで育んでいるように見えるのである。
 北の例はフィンランドである。すでに十分すぎるほど注目されているこの国の教育であるが、ここでは先のタイとの関連で基礎・基本に関する事例を書き記しておかねばならない。フィンランドのPISAでの好成績が格差の少なさを要因としていることは論を待たないが、ここで重要なのは、子どもの知的発達における技能の習得である。たとえば、日本では「フィンランド・メソッド」として紹介されている国語教育がある。ここでは、次ぎの五つの技能の育成が意識されている。(1)発想力、(2)論理力、(3)表現力、(4)批判的思考力、(5)コミュニケーション力。これらは協同学習をゆたかな学びにするための基礎・基本でもある。特別なものではなく、あたりまえの学習なのだが、そうした技能習得のためにさまざまな教育方法を工夫している。[17]

こうした「読み書き計算」にとどまらない基本的技能の獲得は知識の量の問題ではない。そもそも、教育の質的向上とは何だろうか。誰もが基礎学力を身につけるとはどういうことだろうか。筆者は途上国の教育の質的向上に関わるなかで、このことは北の問題でもあると痛感している。こうした教育課題は南だけでなく北にも根強く存在するのである。日本においても、「学力の貧困」がPISAの要求する知識と技能を統合する力の低下として現れているのであれば、教師のファシリテーションを伴う、ていねいな手立てこそが問われるのではないだろうか。


ゆたかな関係性とエンパワーメント

 近代社会が揺らいでいる。近代化はグローバルに進展する中でかえって不安定さを増し、さまざまな価値観も揺らいでいる。貧困はそうした時代を背景に、経済的欠乏だけでなく、人間らしさの剥奪、社会的関係性の剥奪の様相を呈している。そうした中で、教育のあり方も揺らいでいる。ほんとうのゆたかな学びとは何かを問い続けたいと思う。
 本稿で問題にしてきた関係性の剥奪は「私的個人(private)」と「剥奪(deprivation)」という言葉の本質に関わっている。剥奪とは人間から公共性を奪うのである。これまで考察してきた貧困と教育の根本命題は、関係性と公共性の剥奪に関係している。剥奪としての貧困を克服することは、人間としての関係性と公共性の回復ということである。[18]
 関連して、「自己実現」ということについても再考が必要である。真の自己実現とは、社会の公共性との関わりと自分自身の完成ということなのである。近代社会はこの二つの利害がバラバラにされている。これが人間の生き方に関わる公共性の剥奪である。近代の人間は本来の自己実現から疎外されている。
 今日の教育は、一人ひとりが兼ね備えている可能性を十全に発揮できない状態であるともいえる。だとしたら、そこには個人のエンパワーメントも、より良き社会の創造も期待しにくい。教育は足元からグローバルな観点までのものの見方の拡大と深化が必要である。自己中心主義に陥らないグローバルな自己形成が教育上の重要な課題である。こうした人間的成長としての自己形成の過程は、自己撞着を超えて自己を他者に解き放ち、世界との関係性を築く営みとなる。[19] 
 そして、剥奪としての貧困を克服するためのキーワードは、「関係性」と「エンパワーメント」であるに違いない。公正で持続可能な未来を築く教育では、ゆたかな関係性を横糸に、エンパワーメントを縦糸にして、リアリティある学びを構想したいと思う。


■注
1 UNDP『人間開発報告書2005−岐路に立つ国際協力:不平等な世界での援助、貿易、安全保障』、横田洋三・秋月弘子・二宮正人監修、国際協力出版会、2006年
2 OECD「ワーキングペーパー:OECD諸国における所得分配と貧困」、2005年
(http://www.oecd.org/dataoecd/48/9/34483698.pdf)
3 労働厚生省「平成17年度 国民生活基礎調査」、2006年
4 ディーパ・ナラヤン 他『貧しい人々の声 私たちの声が聞こえますか?』、
“Voice of the Poor” 翻訳グループ訳、世界銀行東京事務所、2000年
5 アマルティア・セン『自由と経済開発』、石塚雅彦訳、日本経済新聞社、2000年
6 UNDP『人間開発報告書1997−貧困と人間開発』、
広野良吉・北谷勝英・恒川恵市・椿秀洋監修、国際協力出版会、1997年
7 ジョン・フリードマン『市民・政府・NGO−「力の剥奪」からエンパワーメントへ』、
斉藤千宏・雨森孝悦監訳、新評論、1995年
8 小貫仁 他『貧困と開発 豊かさへのエンパワーメント』、開発教育協会、2005年
9 厚生労働省「所得再分配調査」(世帯単位でみた所得再分配調査結果)、2004年
10 文部科学省「平成16年度要保護及び準要保護児童生徒数について」、
  厚生労働省「平成18年3月高校・中学新卒者の求人・求職状況について」、2005年
11 文部科学省「平成16年度 要保護及び準要保護児童生徒数について」、
  厚生労働省「平成18年3月 高校・中学新卒者の求人・求職状況について」、2005年
12 山田昌弘『希望格差社会−「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』、
筑摩書房、2004年
13 今枝法之『溶解する近代−社会理論とポストモダニゼーション』、世界思想社、2000年
14 山口二郎・宮本太郎・小川有美『市民社会民主主義への挑戦−ポスト「第三の道」のヨーロッパ政治』、日本経済評論社、2005年
15 江原裕美編『内発的発展と教育−人間主体の社会改革とNGOの地平』、
新評論、2003年
16 志水宏吉『学力を育てる』、岩波新書、2005年
17 北川達夫・フィンランド・メソッド普及会『図解 フィンランド・メソッド入門』、
経済界、2005年
18 佐藤学『カリキュラムの批評−公共性の再構築へ』、世織書房、1996年
19 山西優二 他『つながれ開発教育−学校と地域のパートナーシップ事例集』、
開発教育協会、2000年

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