W−2 学校における教育方法をめぐる一考察
〜参加型学習の変遷とその課題



『開発教育2007(No54)』(開発教育協会編、明石書店、2007)より

                                 拓殖大学国際開発教育センター
                                  小貫  仁

1 はじめに

 学校教育における教育方法のテーマは多岐にわたるが、特に学習方法に関しては学習指導要領の改訂ごとにさまざまに問題が提起されてきた。参加型学習に関連しては、平成10(1998)年改訂の指導要領で「総合的な学習の時間」が新設されて以来、今日の学校現場で新しい広がりを見せている。けれども、これまでの一斉授業の改革として登場したはずの総合的な学習に対して、教科内容の削減とあいまって「低学力化」を助長するものとの批判も根強い。こうした対立する現実を私たちはどのようにとらえるべきだろうか。あるいは、教育本来のあり方からして、参加型学習はどのような意義をもつのだろうか。そんな課題を念頭におきながら、学校における教育方法をできるだけ一般化して考えてみたい。学校教育での学びのあり方の現状と課題を問い直すことで、開発教育の学習形態である参加型学習の現状と課題も見えてくるはずである。

 ところで、参加型学習とは、学習者が主体的に学ぶプロセスで深い気づきを得ることで、学習者の主体的な社会参加をねらいとする学習である。あえて単純化すれば、参加型学習の究極はワークショップ型の授業である。参加型教材としては参加型の手法を駆使したアクティビティが用意される。ただし、本稿では参加型ということをもう少し広義にとらえる。たとえば、旧来からある、教師と生徒の関係性のなかでの対話に満ちた授業や生徒たちの主体的な協同学習なども参加型である。こうしたとらえ方は、国際開発現場における参加型開発の実際に対応している。つまり、住民とファシリテーターの関係性のなかでの対話と、住民自身によるPLA(主体的参加による学習と行動)活動のイメージである。こうしたより広い意味での参加型学習を「参加型の学び」と表現しよう。参加型の学びの現状と課題を検討することで、より良い参加型学習のあり方を考察することが本稿のテーマである。

 教育には「教える」と「学ぶ」という2分された側面がある。授業論において、この2側面は系統学習と問題解決学習として対をなしている。参加型学習は、系統的知識を教え込もうとすることを回避しようとするものであるから、大枠では問題解決学習に分類できる。したがって、参加型学習のあり方を検討する本稿では、この問題解決学習での参加型の学びを検討することになる。そこから、参加型学習をどう実践するかを展望できたらと願う。
 授業の2つの概念で分類するならば、日本の授業は、学習者の思考態度や探求方法の形成を第一義におく欧米型(変容的様式)でなく、知識や技能の伝達と習得を第一義とするアジア型(模倣的様式)である。今日の日本は、途上国型でもある模倣的様式の伝統を基盤としながらも、変容的様式を志向している。このような過渡期にある日本の教育を実りあるものにするには、参加型学習がキーワードのひとつになるであろう。どのようにして、参加型学習は日本の授業の変革に寄与しうるだろうか。


2 学校における参加型の学びの現実と課題

(1)戦後の学校教育における参加型の系譜
  〜戦後教育改革の原点から


 本稿は、学校における参加型の学びのあり方を考えるに当たって、その原点を戦後の教育改革に求める。そのために歴史的な検討から始めるが、起点としての戦後教育を検討するには、その改革に大きな影響のあったジョン・デューイ(John Dewey)の教育論にふれなければならない。デューイは教師による一方的伝達から子どもの興味・関心を出発点とする「コペルニクス的転回」を唱えた。学校は、直接的な経験の可能性を追求する場であり、観察やフィールドワークを基礎として探求する「学びの共同体」である。こうしたデューイの教育論は、問題解決学習に関して20世紀における到達点を形成している。注目すべきは、次のようなプロセスをもつ「熟慮的経験」である。(注1)
(1) 不完全な状況の中での「困惑」
(2) いろいろな要素に対する「推測的予想」
(3) 注意深い「調査と分析」
(4) 結果としての「仮説の精密化」
(5) 行動による「仮説の検証」
 この探求のプロセスは、問題解決に際して「困惑〜知的整理〜仮説〜吟味〜検証」という5段階の「反省的思考」の系列として示される。学習対象の中に自分との関係性を見いだすことで、それは自分にとって意味あるものとなり、興味ある課題として成立する。探求するプロセスは単なる衝動的な取り組みではなく、対象を緻密に検討し、解決への見通しを熟慮して活動する知的プロセスである。そして、教科と経験の相互作用が「経験の再構成」となる。デューイは、教材を子どもの経験に取り込む工夫の必要性を繰り返し強調していた。(注2)

 戦後まもなくの日本に導入されたのは、このデューイの教育思想の影響が強いものであった。児童中心主義が唱えられ、経験主義が強調された。日本においては、すでに生活綴方運動という生活を探求する教育の基盤があったから、戦後の初期社会科はこの生活綴方と連携して普及していった。無着成恭の『やまびこ学校』(1950)などの成果がそれである。そうした実践は、戦後の参加型の学びの原点として十分な意味をもっていた。(注3)
 けれども、当時の教育事情を少し詳細に吟味するならば、戦後教育は「はいまわる経験主義」に陥る可能性も内包していた。一般に、日本に導入された新教育はデューイの児童中心カリキュラムと同一視されることが多いが、実際に影響があったのはコア・カリキュラムであった。しかも、現実には、日本のカリキュラムにコアはなく、初期の「社会」は週当たり5単位の一教科として設置された。こうした制度上の問題を伴って、参加型のプロジェクト・メソッドは反省的思考の探求よりもいわゆる行動主義に偏る傾向があった。(注4)
 戦後教育改革は、民主的社会の一員として生きていくために必要な市民性の育成をめざすものとして大きな意義があった。けれども、次第に学問の体系を軽視する「はいまわる経験主義」と批判され、約10年後の昭和33(1958)年改訂によって経験主義から系統主義へと明確に流れを変える。こうした論調は、今日の「総合的な学習の時間」に関する論議と通ずるものがあるだろう。戦後教育は「学力低下」の批判を受けて衰退したが、今日の問題解決学習は当時と比較して何が克服され何が克服しきれていないのか考察することは非常に重要である。デューイの学びの共同体の構想、および熟慮的経験〜反省的思考による探求プロセスの実践は、戦後どのように発展してきただろうか。

(2)学習指導要領と参加型の学び
  〜系統学習と問題解決学習の狭間で


 日本の学校教育特に公教育に大きな影響を与えるのは教育行政の考え方である。日本の教育の現実を語るには、学習指導要領との関連を抜きには語れない。ここでは、参加型の学びの内実を概観するために戦後教育の歴史を3期に分けて整理しよう。(表1)

 <表1> 戦後の学習指導要領の変遷
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   第1期 戦後教育改革と参加型学習                         
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  1)昭和22(1947)年「学習指導要領一般編(試案)」                 
     戦後の教育改革の一環、児童中心主義、経験主義              
  2)昭和26(1951)年 第1次改訂(試案)                        
     自由研究の位置づけの変更                            
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   第2期 教育の系統性と参加型学習                         
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  3)昭和33(1958)年 第2次改訂(公示)                       
     昭和30(1955)年の社会科改訂が「曲がり角」                 
     教科内容の系統性を重視するあり方に方向転換                
  4)昭和43(1968)年 第3次改訂(公示)                       
     教育の現代化                                    
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   第3期 ゆとり教育と参加型学習                           
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  5)昭和52(1977)年 第4次改訂(公示)                       
     “ゆとりと充実”を志向                               
  6)平成元(1989)年 第5次改訂(公示)                       
     教育の弾力化、生活科新設、社会科改編                   
  7)平成10(1998)年 第6次改訂(公示)                      
     教育内容の精選、「総合的な学習の時間」新設                 
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 戦後60年の教育を参加型の学びの視点で概観するならば、大枠は、戦後の問題解決学習の時期、その揺り戻しの時期、さらにその揺り戻しとしての現在へと変遷してきた。系統学習と受験教育が支配的でありながらも、それは決して一元的なものではない。
 戦後教育の揺り戻しとしての第2期は、全科目必修の系統性に「教育の現代化」が続いたが、この時期とて単に教え込み教育の復活ではなかった。特に「教育の現代化」では、科学的な原理を生徒たちが自ら探求し発見していくことで系統学習と問題解決学習を統合しようとした。そうしたかたちで参加型の学びが展開していたと言える。こうして、「教育の現代化」は膨大に増え続ける知識の詰め込みの限界を超えて教育の高度化をめざすものであった。しかし、次第に「落ちこぼれ」が教育問題となり、結果として、この「学問中心カリキュラム」は次の「人間中心カリキュラム」へと移行する。
 第3期は第2期の揺り戻しである。「ゆとり教育」が唱えられて現代につながる。ここで、ゆとり教育と教育の弾力化および現行指導要領を同じ枠にすることには次の留意が必要である。平成元(1989)年の教育の弾力化は臨教審の提言を受けたもので、生活科の新設や「開かれた学校」を推進する一方で、個性尊重の建て前の下、学力重視の個別指導が導入された。平成10(2002)年改訂の現行指導要領は、これまでの画一主義に対して根底からの脱却をめざし、画一的な部分は最低限の基礎・基本にとどめて、個別化を一層徹底したものである。

 さて、本稿がつかみ取るべき戦後教育の潮流は、学習指導要領の大綱化、地方分権化、開かれた学校と地域の連携強化、「教わるから学ぶへ」の学びの転換などである。今後もさまざまな紆余曲折がありうるが、これらは時代の流れと言えるだろう。
 一方で、ここに見えてくる現実は「ゆとり教育」を批判して出てくる教育路線である。それは新しい「学問中心カリキュラム」であり、教育の弾力化を内に含みながら、学力の低下と道徳の欠如の克服を強調するものとなるだろう。こうした動きは、下手をすると参加型の学びの逆行となる可能性もある。本稿は、こうした危機感を持ちつつ、今こそ参加型学習の確たる学びが求められていると考えている。今日、「近代」の時代的限界性にも対応する市民性教育の展望も含めて、新しい「知」のあり方が問われているのも、けだし当然と言わねばならない。

(3)参加型の学びの事例から
  〜「ゆさぶりから探求へ」そして「探求から提案へ」


 現実には、「教わる」ことと「学ぶ」ことは単なる二律背反ではない。学校教育における参加型の学びは多様である。たとえば、導入段階では、クイズやパズルが工夫され、実物や写真などで直観への働きかけが配慮される。展開段階では、対話に満ちた授業、自ら学ぶプロセスの重視、資料・新聞の活用、調査と探求の協同学習などが組み込まれる。
 参加型の学びの実践事例は、戦後60年間に数多く蓄積されてきた。ここでは、第1期の継承として、参加型の探求活動に関連する代表的な事例に注目したい。それらは、第3期の「ゆとりと充実」をめざした第4次改訂以後に登場している。有田和正の実践と小西正雄の提言である。
 有田の小学校での教え込み批判は『子どもの生きる社会科授業の創造』(1982)に意気高らかに表現された。氏はこの書のまえがきで「これまでの日本の教育は、多少の起伏はあったが教えることが主流で、子どもを育てるという面が欠けていた」と宣言している。ここでは、氏が大きな影響を受けたとされる長岡実践(「ポストとゆうびんやさん」)に着目しよう。探求活動における発問の重要性に関する記述である。グループごとにつくった郵便ポストを発表する場面で、まだ屋根がついていないことに対して先生が「屋根がつけにくいなら無理につけなくていいじゃないか。屋根なんかいらないよ」と発言した。この突飛な発言から生徒の説明と教師の切り崩しの問答が始まったという。教師が「屋根はどうして必要ですか」と当たり前に発問するのでないゆさぶりがここには読み取れる。たくさん教えることで子どもが育つと考えていた若き日の氏の考え方をひっくり返す授業であり、主体的探求のない授業からの脱皮であった。
 この例のように、有田実践はゆさぶりを大切にした「探求する学び」である。発問で子どもの思考をゆさぶり、探求を本物にしていく。氏は「問題も、問題を解くカギも、すべて子どもの中にある」という言葉を座右の銘にしていると述べているが、これは児童中心主義の象徴的な言葉と言えるだろう。(注5)

 それから10年。平成元(1989)年の第5次改訂を経て、教育現場は、子どもが探求し、そこから意思決定していく授業が出てくるようになる。小西の『提案する社会科』(1992)はこうした時代の先駆となるものである。それまでの調べ学習が調べてまとめるだけで探求に継続性がないことや、子どもの思考が是非論で画一化されるきらいがあったのに対して、子どもの提案場面を組み込むことで子どもたちの活動がいきいきとしたものに変わったのだった。代表的事例は小学校における西川実践(「火事をふせぐ」)である。ここでは、校区内の消防施設に関して「あと一つだけ消火栓をつけるとすると、どの地区につけるといいでしょうか」という問いを発し、子どもたちの探求と提案の活動がなされるのである。(注6)

 有田の実践が「探求する学び」であったのに対して、小西の提言では「提案する学び」が確立された。ここでは、注入を排す、他人事でない、合理的に意思決定できる、身近な問題から取りくみ個の確立をめざすことなどが意図されている。こうした実践から学ぶべき重要な方法論は、参加型の内実が「ゆさぶりから探求へ」さらに「探求から提案へ」と発展してきたことではないだろうか。さらに、小西の「提案する学び」が日本のみならず世界の諸問題との関わりのなかで未来志向の創造型人間を志向していることに注目したい。だからこそ、自分と切り離された知識を理解しただけではわかったことにはならないのである。主体的な意思決定を伴って、自分との関わりで社会を見るという「主体的社会認識」が重要なのである。


3 学校教育における参加型の学びの課題と開発教育

 平成14(2002)年から実施の学習指導要領では、教科外に位置づけられた「総合的な学習の時間」の新設が特徴的である。今日の参加型の学びは、総合的な学習での新しい展開がみられるようになっている。
 総合的な学習の「ねらい」は、次のように定められている。
(1) 自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる。
(2) 学び方やものの考え方を身につけ、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにする。
 学びの内容は、今日の国際化、情報化、科学技術の進展、環境問題への関心の高まり、少子高齢化など時代の変化に対応するものとされている。こうした一連の考え方自体は、本稿の参加型学習の方向性と合致するものである。
 ただし、こうした観点は、例えば昭和52(1977)年改訂での高校「現代社会」のように、既に教科に内包していたのも事実である。そのため、特に中等教育の現場では、教科内容を削ってまでして設けたことに対して懸念と反発が生まれた。学力低下を助長するに過ぎないという声である。けれども、教科には教え込みがちな実態がある。学力低下論をのり越える参加型のゆたかな学びの積み上げが求められるゆえんである。

 これまでは、戦後の学校教育における参加型の学びの現状を、開発教育の学習形態である参加型学習の視点で検討してきた。次に、参加型の学びの課題について3つの観点で整理しておこう。
 第一に、総合的な学習の時間の「ねらい」そのものが、現実の学校における参加型の学びの実態を説明していることである。自ら学び、自ら考える授業が充分に機能しているならば、このような時間を特設する必要はない。
 第二に、参加型の学びが「学力」低下を助長するものと批判されていることである。「学力」をどうとらえるかの問題は別途設定できるが、知識目標が充分でなく、戦後教育改革と同じ事態に陥ってしまうのはなぜなのか。本稿は、デューイの「経験の再構成」(教科と経験の相互作用)、反省的思考(探求)の具体化を問うかたちで「ゆさぶり〜探求〜提案」を見通す実践をみてきたのだが、知識・技能・態度がバランスよく機能する参加型の学びはいまだ課題である。
 第三に、総合的な学習は勉強が自分と無関係であり意味がないと感じる「学びからの逃走」に対応して出てきたものでもある。学習者と対象をつなぐリアリティが欠如している問題が充分に克服されないまま、批判されていることには課題が残るだろう。このことはデューイの教育論を再構築する視点に通じる。人と人とがゆたかに対話しあう学びと、一人一人の学びをていねいに看取る観点が重要である。さらに、適応でなく新たな社会創造への市民参加につながる学習者のエンパワーを期待したい。

 ここで、これまでの検討を踏まえて、開発教育の学びについて整理したい。日本の開発教育は、人間が抱える諸課題を直視し、そこでの対立解消をめざして望ましいあり方を模索する未来志向の教育として展開されてきた。参加型学習が不可避なのは、開発教育の学びが「気づき」のプロセスに他ならないからである。主体的に「現実を認識する」ことが開発教育のねらいのひとつである社会参加につながるのである。そうした主体的な学びの方法として、開発教育は欧米の事例や教材などから学んだ参加型の手法と“アクティビティ”の有効性を強調してきた。
 今日では、ロジャー・ハート(Roger Hart)の提起した『子どもの参画』(2000)の方法論も重要である。ハートは参加を測るものさしとして「参画のはしご」を、探求のプロセスとして「アクション・リサーチ」を提起した。(注7)
 ここでは特に、探求の方法であるアクション・リサーチに着目しよう。新しい探求のプロセスは次の5段階である。(1) 問題の特定、(2) 調査・分析・解釈、(3) 活動計画、(4) 状況改善の行動、(5) 評価と反省(→サイクルの繰り返し)。この探求には、マッピング、インタビューなどの調査手法に将来のデザイン構想や状況改善プロジェクトなどが組み合わされている。こうなると、この行動は参加型開発におけるPLAにきわめて近い。本稿においては、授業の見通しとして、「ゆさぶり〜探求〜提案」に「行動」の要素が加わったものととらえることができる。

 日本で開発教育の実践が本格化した1980年代以降、開発教育の参加型の学びの提案は、日本の総合学習の動きを常に先取りしてきた。今回の総合的な学習の時間におけるねらいも開発教育にとってはすでに自明な事柄であった。
 ところで、開発教育の参加型学習にも課題がある。
 開発教育にとって重要なのは、偏りのない世界認識を参加型で獲得する学びである。ここでの「気づき」は感性的な共感であったり、理性的な認識であったりする。そのために、開発教育には多様な参加型の手法がある。それらは深い学びためのさまざまな方法である。ところが、往々にして手法が一人歩きし、カタチだけの参加、あるいは、楽しいだけの参加に終わってしまうことがある。また、参加型の手法やアクティビティに頼りすぎて、導入段階で直観とのつながりを配慮するなどの教育方法の基礎が疎かになっている実践事例も少なくない。これは授業者としては致命的である。さらに、参加型学習の展開には学習者が参加型で学ぶためのリテラシーが必要である。少なくとも、学力の基礎・基本にはそうした応用的な学ぶ力が含まれると考えられる。そうしたリテラシー獲得のための配慮が不足しがちな実践事例もある。

 こうした課題を克服することで、開発教育の参加型学習は、学習者が学びのプロセスで真に深い「気づき」を得、学習者の主体的な社会参加につながる学習となるであろう。そこにおいて、教師は教える人というよりも、学びのプロセスを促進するファシリテーターである。ファシリテーターとして共に学ぶことによってゆたかな学びをどうめざすかについては、このあと吟味することができればと思う。


4 まとめに代えて
 〜学習者がエンパワーするゆたかな学びを求めて


 本稿は、学校教育での参加型の学びのあり方を探るために、それが戦後からどのように発展してきたかを検討してきた。見えてきたのは戦後教育の流れで、学習指導要領の大綱化、地方分権化、開かれた学校と地域の連携強化、「教わるから学ぶへ」の学びの転換であった。また、デューイの教育論を原点とする戦後教育改革の発展として、「ゆさぶり〜探求〜提案〜行動」を見通す参加型の学びのプロセスを抽出した。
 幾つかの課題も検討したが、ここでは、それらを念頭に、ゆたかな参加型学習を模索するために考慮したい事柄を書き添えておきたい。それらは、参加型の学びの意義、学力と基礎・基本、学びのリアリティ、ファシリテーションに関する事柄である。

A 参加型の学びの意義をどう捉えるか
 参加型の学びの意義を語るとき、次の言葉がよく引き合いに出される。
 「聞いたことは忘れる。
  見たことは覚える。
  体験したことは理解できる。
  見つけたことは自分のものになる」
 参加型の学びでは、何をして、何を感じたか(何に共感したか)が非常に大切な要素である。優先されるのは、できるだけたくさん覚え込む知識量ではなく、実体験や基礎的な知識を駆使して感じ取るイメージであり、探求によって獲得する問題解決への力である。知識は関心と共感を伴ってはじめて生きた知識となる。
 先に引用した言葉においては「見つけたこと」が主体的な学びでの「気づき」である。この「気づき」が学習者の生き方の選択につながる。すなわち、学習者の関心分野への主体的な社会参加につながる。ここにおいて、学習者主体の参加型学習は社会の主体形成の学びとなる。自ら課題について学ぶ主体を育むことと、自ら生活とのつながりの中で課題について考え行動する主体を育むことは結びつくのである。
 参加する社会はそのあり方が模索されなければならない。「より良い」と認識する社会創造への参加である。参加型学習が「参加者(学習の主体者)による参加者のための学び」であるならば、参加型開発は「参加者(民主的主体者)による参加者のための社会形成」となる。もちろん、参加型開発が必要な現実は、南の国々ばかりでなく、北の私たちの足元にもある。

B 21世紀に求められる学力と基礎・基本をどう築くか
 「学力」とは何だろうか。系統学習と問題解決学習とをどのように結びつけ、バランスをとるかは世界共通の課題である。ほんとうの学力は、これらの相互作用の上に構築されるはずである。参加型の学びにとってその基礎・基本は、参加型で学ぶ力(リテラシー)を含むものとなるだろう。そうだとすれば、そうした基礎・基本は誰もが身につけるべき基礎学力として学びの目標になる必要があるだろう。こうした基礎・基本は、教え込みだけでは身につけにくいものであるが、通常の学習での創意工夫で修得可能である。
 たとえば、最近盛んに取り上げられることの多いフィンランドの教育で目をひくのは、この基礎・基本が通常の教科のなかで当たり前に留意されていることである。その内容と方法は明瞭であり、国語教育における学びでは次の5つのメソッドが紹介されている。(注8)
1. 発想力:アイディアを生み出す力をウェビングなどを通して身につける
2. 論理力:「意見−理由」の論理を「なぜ?」と聞く対話の積み重ねで身につける
3. 表現力:言葉を自在に使いこなす表現力をさまざまな作文練習で身につける
4. 思考力:批判的な思考力を「本当にそうか?」の発想の積み重ねで身につける
5. コミュニケーション力:伝え〜聞く力を班長経験や相手を考えた言動で身につける
 また、イギリスの市民教育は、知識を学ぶ場面で、学ぶ技能として、情報分析、意見交換、グループ討議などのプロセスを組み込み、さらに、行動にいたる態度形成として、学校・地域での活動や、その記録・報告を重視している。こうしたプロセスを通して、知識・技能・態度がバランスよく身につく学びに着目したい。(注9)
 こうした基本的な技能は公教育で誰もが身につけるべきものとなっている。格差なく、平等に身につけるのである。ひるがえって日本では、こうした「学ぶ力」に対する取りくみはどうであろうか。現に、グループ活動がうまく機能しない現実もある。本年4月に実施された全国学力テストはこうした基礎・基本に関する設問を含んでいたが、進学校などでは平常の学習で対応するのでなく業者の模擬テストでカバーしようとする傾向もある。21世紀の「知」の創造に向けて、子どもの発達の基礎・基本に十分配慮したいものである。

C 関係性とリアリティある学びをどう築くか
 参加型の学びは、学問体系と連続性を模索しながらも、学習者の対象への関係性とそこでのリアリティを軸に展開する学びでありたい。リアリティとは、自分の直観が働くことで、考え方や価値観がゆさぶられる現実に他ならない。その意味で、学びの場としてふさわしいのは、自分の身の回りであり、自分の住む地域である。そこでは、身の回り(地域)の実物や実感を感じ取ることができる。そこにおいて、さまざまな<声>がリアルに反映し、当事者としての自己の認識や価値観が再構築されていくならば、その学びはゆたかな探究となるに違いない。(注10)
 こうした学びは相当な広がりをもちうる。たとえば、環境問題などの生活に関わる問題は地域の特殊性だけの問題ではない。地域の経済再生を問うならば、それは世界の諸地域と重なる問題である。在住外国人問題は、本音で語り合えるばかりでなく、人の移動がなぜ起こるのかの視点で探求を深めることができる。参加型学習を展開するカリキュラムのあり方はDEAR内の研究会でもさまざまに模索されているが、「足元を掘り下げることからゆたかな学びを創造する」という方向性の重要さが確認されている。学校と地域との連携では、地域の人びとの幅広い知見の参加、共に学ぶ協同学習への参加、新しい地域づくりへの生徒の参加などの可能性が大きな教育力となる。新しい学びのあり方を、学校と地域の連携のなかから創りたいと思う。

D ファシリテーターとしてどう実践するか
最後に、参加型の学びを促進するファシリテーションを吟味しよう。筆者が関わっている「ファシリテーション講座」の現段階の集約である。
 ファシリテーションは知的活動を支援し促進するものだが、ビジネスその他で応用される幅広い概念である。けれども、ファシリテーションの基本は共通である。まず、ワークショップなどでのグランドデザインとしては「つかみ〜本体〜まとめ」の構成を考慮する。構成の各段階では次の項目に留意して進めることが基本となる。(1) 場を作り、場を読む、(2) 対話を生み出し、意見を引き出す、(3) プロセスをデザインし、課題追求する、(4) 議論を構造化し、整理する、(5) 対立を解消し、意思決定する。
 本体の段階では、「共有〜拡散〜混沌〜収束〜共有」というプロセスが想定できる。そこで大切なのは、参加者の経験を尊重し、その声に耳を傾けることであり(傾聴)、次いで思考を促進する問いかけである。結果として、学習者主体のプロセスを展開する。こうした基本はきちんと押さえなければならない。

 その上で、「開発教育ファシリテーター」の力量が求められる。開発教育の展開の場はさまざまであるが、教室での授業は、当然に知識詰め込み型ではなく問題提起型の授業である。授業の流れは、「導入〜展開〜まとめ」ではなく、生徒主体の「つかみ〜本体〜ふりかえり」と構想したい。ところで、ビジネスのファシリテーションならば問題解決の結論が第一に求められるが、開発教育での解はオープンエンドであることも多い。大切なのは、そこでのプロセス自体であり、掘り下げる学びである。ファシリテーターたる教師の創意工夫は、問題意識の共有と気づきの共有、発問(つなぎとゆさぶり)と反省的思考、引き出した意見をもどすプロセス、討論を構造化するファシリテーション・グラフィックとKJ法、行き詰まりと対立の解消、多様な<声>をしくむことなどに関連する一連のスキルの総体である。問題を発見し、それに共感し、熟慮し、深い「気づき」を得ることを共に求める・・・こうした学びは、学習者に新たな社会創造に参加できる力をエンパワーする。
 ファシリテーターのあり方については次のリストが知られている。
「ファシリテーターは、敬意を表し、よい人間関係を構築し、先入観を捨て、見て聞いて学び、失敗から学び、自らに批判的で自分自身を見つめ、柔軟性をもち、助け分かち合い、そして正直であるべきである」(注11)
 参加型の授業をファシリテートすることで、学習者が「参加者同士で心の奥底の声を聞くことができた」そして「ゆたかな学びを楽しめた」とふりかえることのできる実践を求め続けたいと思う。


[注]
1 J.デューイ『民主主義と教育(上)』(岩波書店、松野安男訳1975)
2 J.デューイ『学校と社会・子どもとカリキュラム』(講談社、市村尚久訳1998)
3 無着成恭 『山びこ学校』岩波書店、1995年
 (初版『山びこ学校・山形県山元村中学校生徒の生活記録』青銅社、1951年)
4 佐藤学『教育方法学』(岩波書店、1996)
5 有田和正『子どもの生きる社会科授業の創造』(明治図書、1982)
6 小西正雄『提案する社会科』(明治図書、1992)
7 R.ハート『子どもの参画』(萌文社、木下勇・田中治彦・南博文監修2000)
8 北川達夫『図解 フィンランド・メソッド入門』(経済界、2005)
9 藤原孝章「イギリスのCitizenship教育」(開発教育協会内部資料、2007)
10 岩川直樹『総合学習を学びの広場に』(大月書店、2000)
11 R.チェンバース『参加型ワークショップ入門』(明石書店、野田直人監訳2004)

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