「貧困」 と 「学力」 をめぐって (随想)



                      出典:『東洋通信 5月号』
                       (Vol.48 no.2、東洋大学、2011)より
                        文学部非常勤講師  小貫 仁


 貧困と学力は各々どのように考察でき、どのような関連があるだろうか?
 私は、2007年、『貧困と学力』(明石書店)の刊行に「貧困と学力の再検討」を書いて
参加した。このテーマは、4年後の今日、ますます重要な課題を提起しているように思う。
 当時、私は東北タイの教育NGOと連携した「途上国の教育の質的向上の可能性」に関する調査研究事業に加わっていた。主な関心は、一方的な教え込みでないファシリテーションの有効性にあったが、日本の教育との関連では、(1)貧困に関して 「剥奪としての貧困」概念をどうとらえるか、(2)貧困と学力は相関傾向があるが、そこにおける学力をどうとらえるか、(3)貧困と学力に関してどんな授業が展開できるか、ということを考えていた。

(1)
 一般に、貧困とは1日1ドル以下の収入しかない絶対的貧困をさし、世界では5人に1人が該当するとされている。対して、日本の貧困問題は相対的である。とはいえ、貧困率はOECD諸国中ワースト2なのであり、年収200万円以下とされる「ワーキングプア」の実態等、抜き差しならない現実がある。ここで重要なのは、世界においても日本においても貧困は単に経済的欠乏だけではないことである。制度やしくみによって形成される従属的な関係性を見据える必要がある。貧困とは「経済的欠乏」+「社会的排除」の構造的な問題なのである。この内実では、日本と世界の貧困の本質は実は類似している。社会が二極化し、格差が固定化されることが憂慮される。果たして、日本は「ゆたかな社会」と言えるだろうか? あるいは、「ゆたかな社会」とはどのような社会なのだろうか?

(2)
 次に、こうした状況の反映として、日本の子どもは、現在7人に1人が貧困とされている。学校現場が直面する子どもたちの現実は、就学困難、授業料滞納、(高校生の)無保険問題など深刻さを増している。こうした実態は貧困ゆえの教育へのアクセス不足が危機的であることを示している。ここから推測するまでもなく、貧困と学力は相関する傾向がある。教育を仲立ちとして、日本社会の格差が再生産されていくことになる。
 ここではさらに、学力とは何か、が問われねばならない。近年の「学びの問い直し」にもかかわらず、たとえば今なお"社会科は暗記科目"ととらえられる実態がある。知識量優先のこうした実態は「学びの貧困」とも言えるだろう。加えて、今日、他者への関心の希薄化、いじめ、少年犯罪の増加等の現実が顕在化しており、ここでは、教育においても貧困で見た「関係性の欠如」が大きな課題となっていることがわかる。こうしてみるとき、日本の教育は「ゆたかな学び」と言えるだろうか? あるいは、「ゆたかな学び」とはどのような学びなのだろうか?

(3)
 授業で貧困をテーマにする場合には、貧困と学力の現状と課題に関して以上のような観点が問われることになるだろう。そして、世界とのつながりを十分に認識しつつも、問題は実は足元にある。足元での取り組みが世界とつながり、望ましい未来の創造にもつながることを考えたい。地域から世界につながる「オルタナティブな課題解決学習」である。

 ・・・ グローバリゼーションの時代だからこそ、世界の貧困問題に対応するに際して、
日本の現状を知り、考え、行動することが重要なのである。貧困・格差の固定化を断ち切るための学びが問われている。足元から問題を解決する学習を、確たる知識とその活用、さらに、課題解決のためのコミュニケーションやつながりを重視する学びとして展開することが求められると考えている。


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