伊豆横道33観音霊場巡り

第3回 宝蔵院・帰一寺

2014/09/17

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写真のスライドショー  https://www.youtube.com/watch?v=PU0epL9bX1M&feature=player_detailpage

 

 

アプローチ(バス・徒歩)

松崎バスターミナルから宮原行に乗り、「一色橋」で下車

一色橋から宝蔵院まで徒歩7.5キロ、宝蔵院から帰一寺まで7.5キロ、合計15キロ

帰りはバス停船田から下田駅へ

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伊豆横道33観音霊場巡り第3弾は第7番富貴野山・宝蔵院と第2番の帰一寺の二か所だけで終わりました。富貴野山が山深い中にあって、往きと帰りで6時間もかかったからでした。

 

スタートは一色橋で帰りは船田に下り、帰一寺に寄って今回の札所巡りは打ち止め。三聖苑の温泉に入浴して帰宅しました。帰宅は今までで最も遅い6時半でした。一昨日、右足を痛めて、今日の歩行が心配でしたが、特に問題なく歩けたことは大収穫です。 

 

それから、富貴野山・宝蔵院は奥深い山中にあり、一色橋からのルートは途中から山道になるのではないかと考えていたのが、全線、コンクリート舗装で、山靴は必要なく、少し拍子抜けの感じでした。舗道を歩くのなら、やはりウオーキング・シューズがずっと楽です。軽登山靴とはいえ、山靴を履いた分、疲れました。

 

 

松崎からバスを乗り換えて、一色橋バス停で降りる。この界隈の巡礼の順序としては、仁科川の河口から順番に、先ず第5番札所長光寺、次いで1番滝見観音堂、そして第6番慈眼寺から、今回の富貴野山・宝蔵院にすべきだったかも知れない。

しかし、それは車で巡礼する場合で、バス&徒歩ではやはり一色か白川からにすべきだろう。長い車道歩きに耐えるには、のんびりと気持ちに余裕を持たせなければならない。焦っては決して良い結果は得られない。

 

一色橋でバスを降りたら、バス通り59号線の前方に荒々しく削られた山が見えた。秩父の武甲山のように人工的に削られた痕である。武甲山は石灰岩の山として知られる。では、この山は何だろう?

 

バス停から橋を渡って東へ向かう細い道に入ると、立て看板があって「一色枕状溶岩」と書かれたジオの看板があった。この道の300m先である。川端の民家で洗い物をしているオバサンに挨拶。間違いなく富貴野山へゆく道であることを確認した。

 

オバサンは宝蔵院への道を、間違っても白川の道へ下ってはならない、右の上り坂をゆくようにと詳しく教えてくれた。それどころか、この道を歩く人は殆どいないから車で送ると言う。有難い申し出に感激したが、私には歩いて巡礼するという意地とこだわりがあるからと、何とか辞退したのだった。 感謝多々。

一色枕状溶岩

沢沿いの木立がこの上なく雰囲気の良い道をゆくと、間もなくジオサイト「枕状溶岩」に到着。道沿いに10〜20mくらい迫り出した岩壁である。露出した岩の中にツルツルの石がある。この重なりが枕状溶岩だそうで、それは溶岩が海底を流れた証拠であり、熱帯の海に棲む生物の化石も見つかっていることから、この辺りが南の海の海底火山だったと考えられている。

思いがけないジオサイトを見ることが出来て、幸先良いスタートが切れた。気分を良くして、しばらく沢のせせらぎや野鳥の声を耳にしながら緩やかな上り坂を進んでゆく。

 

昭和53年竣工の奥川金橋を渡ると、沢沿いの道はだんだんと深い谷を見下ろすようになる。そして左右にクヌギ林が目に付いてきた。ところどころにシイタケの原木がハザガケ状に組まれている。動物の進入を阻止する垣根が横に伸びていた。突然、人の声がして先を急ぐと、関電工のクレーン車が頭上で枝払いをしているところだった。この辺は高木が多いので、なかなか大変な作業である。上を走る高圧線は実は緊急時に備えたもので、現在は休止中だそうだ。この地域は急勾配の沢が多いため土石流が発生しやすいという。

 

更に高度を上げた道端に背の高い野菊のような植物が群生しているのが見られ、その先の谷が開けた場所で白い綿毛が風に煽られて林道に一斉に飛んで来た。後でネットで調べたら、どうやらヒメムカシヨモギの種のようだ。この先の崩壊地を修工した場所にも群生していた。この辺まで来ると、富貴野山は近いと感じられ、確かに間もなく林道「大昌山線」の入り口に到着。時刻は10時40分。これを左に分けて更に進むこと僅かで、白川からの道を合わせた。ここには宝蔵院への指標である長い角柱が立っていた。ようやく西に視界が開けて仁科の街と海が見えだした。

 

しかし、宝蔵院の入り口までは更に小1時間は必要で、その手前の船田からの道に出たのが11時15分だった。一色のバス停から2時間弱かかっている。ここでも、関電工の枝払い作業が行われていた。

 

さて、このT型の交差点から山の中へ一旦、下りて行く道があった。そこには小さな橋があって「大師橋」の標柱が立っている。そして、宝蔵院へ向かって大師道として女坂、男坂の2コースがあった。ここは文句なく男坂を行く。

 

5体のお地蔵さまの歓迎を受けて男坂を少し行くと、炭焼き窯跡があった。立て看板によると、松崎の炭焼きの歴史は古く、江戸時代以前にまで遡るという。クヌギやシイ、ナラが材料だそうで、なるほど周辺にクヌギなどの木が多いわけがわかった。

 

この

宝蔵院 曹洞宗 聖観世音菩薩

この大師道は約15分ほどで男坂、女坂が合流し、かつ、門野からの林道にも出た。そして21世紀の森への案内標柱を見て道が平坦になると、左に駐車場があり、宝蔵院への入り口に立った。時刻はちょうど12時だった。

 

343af6宝蔵院の入り口は即ち「21世紀の森」の入り口である。森の中は、鍛錬の森、健康の森、きのこの森、歴史の森、野鳥の森、瞑想の森、などの各ゾーンがあり、一部を除いて遊歩道が整備されている。

 

先ずは富貴野山稲荷を覗いて手を併せたあと、その先の石段を上がる。石段を上り詰めてハッとした。写真でお馴染みではあったが、いきなり石仏が中央に2列、左右に1列ずつ並び、その数180体余りという。

3443c1

そして、更に石段を上って観音堂の前に立った。本堂は向って右側に四角くロープが張られ、その礎石が残っているのみ。とにもかくにも手を併せて般若心経を声明する。ここにきて初めて諳んじた誦経ができたのは嬉しい。

 

観音堂の左には開山堂が並んで建っている。開創の弘法大師像が納まっているそうだが、こちらも戸は開かない。やはり、般若心経を声高に声明す。その昔、この寺が栄えた頃は露店が並び、芝居も行われたそうである。そうした盛衰を超えて今はただ幽玄の境地にあるようだ。聞こえてくるのは野鳥のさえずりのみ。 

 

開山堂の左手に立つ弘法杉は根元から2本に分かれて高さ30m、周囲6.5mの大杉。根元に宝篋印塔が2基安置されていた。この左脇から遊歩道が続いていたので、休むことなく、そのままこの道を追ってみた。香の並木、シュロの道、小石の道、落葉の道と続いて、瞑想の館から林間広場を左回りに行くと、道は荒れて通行不能。残念だが、少し戻ってそれでも一回り出来たことで満足。また観音堂まで上り、開山堂の前のベンチで中食休憩とした。

 

開山堂の左脇の径を上ってゆくと歴代和尚の墓があり、そのままこの径を行けば長九郎山へ向かうことが出来る。最近ではこの富貴野山に車を置いて、長九郎を往復する登山客が多いそうである。

 

さて、帰りは門野経由で船田に向う。殆どが下りなのでのんびりとゆく。1時間足らずで門野の集落に着いた。あらかじめ役場に問い合わせて訊いておいた通り、公民館の隣の奥まった家でご朱印をもらう。

 

60歳前後と思えるここのご婦人はこの地の生まれで、長じて都会に仕事を見つけ、結婚して戻ってきた。彼女の子どもの頃は富貴野山への道は山道であった。それでも、富貴野山のお祭りがあると、松崎の小学校から帰ってくるや、そのままお山へ直行したそうである。大きな楽しみだったという。

 

門野地区の林道の法面に、工事が昭和63年12月に竣工した鉄板が埋め込まれていた。多分、その前後に富貴野山に通じる白川富貴野線が完成したのだろう。車が通れるまでは集落の人たちの苦労は相当なものだったに違いない。

門野を過ぎると、船田へはそう遠くない。般若心経を何回か諳んじながら川沿いの道を下る。途中、ちょっとした滝が見物できたが、コンクリートの堰堤が草木の奥に垣間見えた。少し残念な気がしたが治山治水の上での工事なら仕方ない。

 

本日

帰一寺 臨済宗 聖観世音菩薩

本日二つ目の札所、帰一寺に着いたのは15時だった。未だ歩く余力が残っていたのは嬉しい。

 

船田の集落まで下りてくると、色づいた稲穂が秋が深まったことを教えてくれる。人家は山際に位置し、目指す「帰一寺」は更にその奥の小高い所にあった。瓦屋根の山門をくぐり、背の高い針葉樹が立ち並ぶ石段を一歩一歩上がって行く。

 


                  

庫裏の戸を開けて案内を請うと、若いご住職が顔を出した。御朱印をお願いし、本堂での参拝の許しをいただいた。本堂の中は整然と美しく磨き上げられ、お経をあげる主人を待つかのように威厳に満ちていた。ご本尊の聖観世音は扉の中から僅かに覗いている程度。瞑目して般若心経を唱える。2,3か所つかえたが、最後まで暗誦できた。

 

ご住職の話しでは、当寺では春秋の彼岸、お盆に開帳することになっているとのこと。また、来年は観音さまの50年に一度のお祭りがあるとのことだった。

 

なお、山門脇の看板によると、本堂は伊豆の名工、石田半兵衛が棟梁を務めた、とある。それから、帰一寺は伊豆88か所霊場の一つでもある。いずれまた訪ねなければならないが、そのときは伊豆3名園のひとつといわれる裏庭を拝見したいものである。 

 

さて、松崎町の観音霊場巡りはあとひとつ、江月院を残しているが、次回に回すことにして今回は三聖苑で風呂に入って帰ることにした。

 

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