無感動という感情
今、詩集『沁々』のあとがきを考えながら、これを書いています。
前回からの半年、私にとっても大きな出来事というと、『水の譜』の開設と、それに対するある人のある発言によってもたらされた怒りでしょうか。
ここに多くは記しませんが、自分の手に負えないほどの憤りを覚えたのはこれが初めだったような気がします。
しかもそれだけでは終わらず、次には無気力、無感動、そして非常に憂鬱な気分に陥る始末。
一度は『沁々』の製作に気を向けたものの、ワープロ打ちを終えたところで、突然自分の行為に馬鹿らしさとくだらなさを感じ、全てが白紙になってしまったこともありました。
以前は花を見てもきれいと感じない人がいるということが不思議でなりませんでしたが、今はよくわかります。
ただこのことで、これらの精神状態も決して無視するべきではなく、むしろ向き合うことも必要だということに気づきました。
嫌な気分ではありますが、個人の持つあらゆる感情のひとつとして考えれば、一時的に突出する時期があっても自然といえば、自然なのかもしれません。
さて、そんな状態で『奇跡の人』の舞台公演に出かけたところ、好演であったにも関わらず、私自身の感動度は見事に半減されてしまいました。果たしてこちら側に
やってきたヘレンは言葉を知って、本当に幸せだったのでしょうか。「知る=喜び」という概念は、人間が勝手に作り上げた思い込みに過ぎないのではないでしょうか。
こうして振り返ってみると、自分でも驚きなのですが、こんな疑問が飛び出したのも 良くも悪くもこの感情ならではでしょう。<2000.04.15 vol.6>