「反」ということ

反、という一つの文字から何を思うでしょうか。
今年に入って、米国のイラク攻撃に対する反対、反戦という言葉が目立ちましたが、私はもうひとつ、戦争への反省の意味を込めて、ここにあえて一字を挙げました。
二月に初めて長崎を訪れ、山王神社では片足鳥居と二本の大きな被爆くすの木に出会いました。原爆資料館、そして旧香港上海銀行では久保田馨氏の頓珍漢人形をみてその数の多さに思わず手塚治虫氏と同じ気迫を感じないではいられませんでした。
四月にはほぼ二十年ぶりの広島に出掛けました。原爆の子の像の周りが様変わりしていましたが、資料館のジオラマは記憶通りでした。その後企画展「原爆の絵」をみて、袋井町小学校平和資料館を訪れ、より深い苦しみとかなしみに触れました。そして旧日本銀行では、日本各地、世界各地から寄せられた折鶴に圧倒されました。

原爆はなぜ投下されたのでしょうか。
戦争はなぜ今もなお起きるのでしょうか。
人は記憶の風化と共に一度は反省したことも忘れてしまうのでしょうか。
今回、これをきっかけに、太平洋戦争、原爆投下の理由、戦後の米国占領期と歴史教育、そして天皇制について多少の知識を得ることができましたが、私にとってそれは天と地が逆転するかと思うほどの驚きでした。この一見平穏にみえる日本の社会が、いまだに五十年前の米国の占領政策の尾を引いているのです。何という恐ろしい状態でしょう。もし一生このまま知る機会もなく、通り過ぎていたら(これはまるで何も知らない北朝鮮の人々と同じ)と思うとゾッとします。一般にどの程度までの知識が当り前なのかはわかりませんが。
さて、同じ頃、浦沢直樹氏の「20世紀少年」のケンジのうたをききました。あまりにも普通であまりにも平和な風景をうたっているこのうたに、私はとても感動しました。
これが反戦のうたでなくて何でしょう?

戦争と平和。一方なくしてはもう一方もありえないと、言うかもしれません。それならば、平和が少しでも長く続くことを私は詩への想いに託します。 <2003.5.15 vol.41>

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