詩の在り方、生き方
新年あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
昨年暮れ頃には、思いがけないことがありました。
第11回詩と思想新人賞(受賞は渡辺めぐみさん。おめでとうございます)の候補作品に「シンプル生活」を挙げていただいたことです。
ちいさな出来事かもしれませんが、私にとっては自分の行くべき方向が認められたようで、とても嬉しく思いました。
2003年は、どんな年になるのでしょう。
さて、このお正月休みには詩の独立性について考えていました。
というのも、昨年秋に世田谷文学館で催されていた「西脇順三郎展」に出掛けた折、展示を見終えた私は、
実はこの詩人の人となりについて何も知らなかったという自分に、ただ驚いていたということがありました。
彼がどんな家に生まれ、何を考え、好んでいたかという少し調べればすぐにわかりそうなことさえ、です。
「旅人かへらず」を生み出した彼を私はその詩を知ってもう何年も素晴らしいと思っている。
それなのに、なぜ何も知らないでいたのか、というよりなぜ、この詩人について何も知ろうとしなかったのか。
例えば、立原道造の詩を初めて読んだときは、彼について知りたくて仕方がなかった。
その名の付く本は手当たり次第、頁をめくっていました。
けれど、この詩人の場合、私の手元にあったのは講談社文芸文庫と岩波文庫の詩集ぐらい。
(今では少し増えましたが)しかも後者の表紙に詩人が描いた絵がプリントされていたにも関わらず、
私は彼が絵を描いていたことも知らなかったし、あんなにも美しい青(何とかことばにするなら、
ガラスの青、くすんだ緑のような青、ヨーロッパ的なギリシャ的な青、でしょうか)を生み出す人とは全く知りませんでした。
では私にとって西脇順三郎とは何か。
そう、考えてみれば私にとってこの詩人は「旅人かへらず」の作者にすぎなかったのです。
と書いてしまうと誤解を招くかもしれませんが、私にとって「旅人かへらず」は最高の詩に位置します。
何度読んでもどこを読んでも涙がこぼれそうになる。言ってしまえば完璧な詩です。
それがそこにあるだけで充分な詩。
まるでその詩がひとりでに生まれてきたかのように思わせ、それを書いたなどという人間が本当にいたのかと思うぐらい独立した詩。
作者である詩人の人間像を必要としないほどに自立し、確立した詩。
だからこそだったのです。立原道造の中に詩人の真理を求めていた私は、西脇順三郎ではなく、
「旅人かへらず」の中に詩の真理を求めていたのです…。結局違いはそこにありました。
おかげで人間の内部での詩の在り方(生き方)も様々と納得するに至りました。
けれど果たしてこれから先、私が送り出す詩のひとつでも私から独立し、詩の真理に近づけるのであれば、
それこそがやはり、詩人の本望というものでしょう。
<2003.1.15 vol.37>