界によせて(あとがきより)

こんにちは。『界』をお届けします。

2002年8月19日夕刻。
夏の暑い熱に浮かされていた私でしたが、またしてもあの感覚を味わうことになりました。 違っていたのは「わかってしまった」が「かえってきた」に変化していたことでした。 まるで海外旅行から帰ってきた気分、と言ったらわかりやすいでしょうか。
無空は確かに異質でした。精神だけが透明な宇宙空間に放り込まれて常に浮遊しているような状態。 かたちのない、もしくはかたちを全く必要としないその場所で、それでも私は自分の道標のひとつが そこにあり、守るべきものがしっかりと示されたと感じています。

さて、私がこの4月にはじめてきいて感動した元ちとせさんのうたごえには、奄美のしまうたがそこに息づいていました。 そして池上永一氏作『風車祭(カジヤマー)』にも、みえるものとみえないものとが共に存在していました。 私は以前、音楽のような詩、というただ漠然とした目標のもとに詩を書き始めましたが、 無空を知ったことで、いま少しその輪郭がはっきりとしてきたように思えます。 つまり、音楽というかたちに頼ることのない、音楽を必要としない、音楽を越えた詩。 あるいは音楽の入る余地がなく、詩そのものが既に音楽である詩。 それが私が求めている詩のあるべき姿ではないかと考えるようになりました。 (それでもまだ漠然としているかもしれないのですが…)
かたちのある音楽と、かたちのない詩(うた)・ポエジーとの融合。 そして、いかに現実の中に自分をとどめ、自分の中に広大な無空を住まわせておくか(逆も然り)が、 まだしばらくの課題になりそうです。

道程は未だに遠く
この世に
名という呪がある限り
空間は永遠に
その支配者に
囚われる
界の淋しき
<『旅人かへらず』西脇順三郎氏の詩想に>
<2002.11.16 vol.35>

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