無から
無空をまとめてから一ヶ月が経ちました。
この間、日を追うごとにあの体験ははたして本当だったのか、無というものは誰もが経験し得るものなのか、そして私の体験したものはまさしく無であったのか、という疑問が生じていました。(以下はその経過報告です)
西脇順三郎氏に「詩学」という著作があります。二年程前、古本屋で購入して以来、私にとって大切な一冊となっています。
時々気が向いたときにこの本を開くのですが、たまたま、あとがきから読み始めた今回、その最後の一行を読んで、私は思わず、まさにその通り!と叫んでしまいました。そこにはこう書かれていました。
『詩学は「無の壮麗」を学ぶことである。すぐれた詩は「無の栄華」であると思う。』と。
以前の私であったら、無はつまり空虚という程度の知識だけでしたから、きれいな言葉でむづかしいことを言っている、というぐらいの解釈しかできなかったかもしれません。
そしてその「無の栄華」を知るために、この本の最初から丹念に読み尽くさなければ理解できなかったかもしれません。
(もしくは読んでもわからなかったかもしれません)けれど、今の私には無はすべてを含む大いなるもの、ですからその文章それだけで、この人も無を知っている、詩が何であるかということも知っている、そんな感動でいっぱいでした。
さて、そこから始まって最近までしばらくは無についての本を読んでいました。西洋の哲学者たち、そして日本においては西田幾多郎氏が絶対無について説いていました。
ということはつまり、無というのは誰が体験していてもおかしくないものだったということです。同じ人間なのですから当然といえば当然でしょうか。
ただし、もしかすると私の感じたものとは多少の違いはあるかもしれません。実際に他の人々も最終的にそれが無だということに結びついてくるものの、はじめは誰もが全く別の言葉で、表していました。
けれどもうそれも無意味なことと思えるようになりました。違いや言葉が何であれ、私が無と感じたことは事実なのですから。
それにしても老子の言う通り、知ろうとすればするほど、ますます無知になっていくようなのでこれ以上、無について言葉を探ることはあきらめました。
それよりも詩であり詩的なるもの、です。自分の表す詩が、詩的なるものと共にどこまで無になり、どこまで無を伝えることができるかという、新しい課題に少しずつ向いあいたいと思います。
<2002.03.15 vol.29>