無空のこと 〜あとがきより
私がそれを感じたのは、昨年の八月のことでした。
何か、突然ひらめきのように「わかってしまった」という感覚。それは何もないという感覚、けれども全く何もないのではなく、満たされているものの、無であり、無であるのに全てがあるという不思議な感覚です。
また、いざそうなってみると全てのものが非常にあっけらかんとしてみえました。それは、何かがくだらないとか、おもしろくないとか、そういう次元のことではなく、かといってとてつもなく素晴らしいとか、そういうわけでもない。とにかく、あっけらかんとしていました。その言葉がとてもすんなりあてはまるかもしれません。
しかも、そんな感覚ですから、これが一体どういうことかと思い、ようやく無という言葉を辞書で引いたのは、十一月に入ってからのことでした。そうして老子の思想を知るに至ったわけですが、老子の説いた「道」や、「無為自然」の教えはやはり、どこかその感覚に通じるものがありましたし、その時間的、空間的なものが山へ行ったときに味わう感覚にも、よく似ていることにも気がつきました。そしてこのことは今にはじまったことではなく、純粋旋律や、目にみえないなにか、うたのなかにもずっとあったのだということにも。
さて、この二十八編ある詩のなかに、無空と題するものが六つあります。そのどれもが、同じであるようで違い、違っているようで同じ無空です。あえて無としなかったは、私自身、人為である言葉を信じられなくなりつつあったものの、やはりまだ、こうして言葉を扱うより他ない人間であるからでしょう。自分の言葉として。
それにしても、あの感覚を言葉に置き換えたという事実に、今は老子という人を改めて尊敬しています…。
<2002.02.17 vol.28>