コローとフェルメール

夏の休暇に入ってすぐ、国立西洋美術館に出掛け、コロー展をみてきました。 きっかけは少し前に放送された新日曜美術館での特集でした。 果たしてコローの森はどんなものなのか。 改めて対峙したいと思いました。が、その結果の感想は想い出(もしくは追憶)を 描いている、というのが私の印象でした。 『カバフェ邸』や『水門のそばの釣り人』等、気に入った絵はありましたが、 全てというわけではありませんでした。 全体的にぼんやりしているのはわかっていたことでしたが、そこから一歩踏み出すものが 私には見出せませんでした。

さて、残念ながら少し気落ちしたということもあって、その足で同じ公園内の 東京都美術館でのフェルメール展に向かいました。 それこそ、私としてはフェルメールといわれてもピンとくるものがなく、 だまされたと思って挑んだのですが、行ってみるものです。驚きました。 光に。すごいのです。光が。びっくりです。 何か別のところから発しているかのような、絵とは思えない光。 手にしていたちらしをみれば「光の天才画家」。納得です。 これは印刷では絶対わかりません。実物を見ないと。世間が騒ぐわけです。 このすごさは他にたとえがないかもしれません。 中でも『ワイングラスを持つ娘』は特に。奥で顔に手をあてて座る男と 手前の二人との光の加減の違いこそ。あと『マルタとマリアの家のキリスト』も よかったです。ただし、光はすばらしかったけれど モチーフとしては私の好みではない、というのが正直なところです。 その絵を部屋に飾っておきたいと思うかどうかはまた別です。 人の顔もちょっとこわかったりしましたし。

ただ今回、ミレー好きの私としては、この二つの展覧会に出掛けたことで、 ミレーが私の中でより不動のものとなったのは確かです。 おそらくは『羊飼いの少女』を中学生の頃に目にした時、 既にもう捕われていたのでしょう。人と風景との調和というそのモチーフにしても、 光や色、そしてその生き方までもそのまなざしは常にやさしさで 満ちあふれています。 今ここにある、ただそれだけ、の素朴な平穏を表現するのにミレーほど 深く自然に描ける画家はいないのでは、というのが私の再認識です。

画家による視点の違い。
それがまた絵画のおもしろさでもあるのでしょう。 <2008.08.15 vol.100>

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