(前ページより)
一つには、『アン』に限らず十九世紀の欧米小説においては、聖書、シェイクスピア劇、有名な詩の一節を盛りこむことが至極普通に行われていた背景があります。
かつての日本でもそうでしたが、昔の国語教育は古典の暗誦が主たるものでした。よって多くの読者、とくに文学好きの読者は、小説に引用された句について、たとえ出典の記載がなくとも元歌に気づき、意味の重ね合わせを楽しむことができたのです。
アメリカの作家マーク・トウェインは『赤毛のアン』を絶賛して書評を書いていますが、それは彼がユーモア文学としての『アン』を評価しただけでなく、『アン』に引用される無数の詩の出典を理解し、その掛詞(かけことば)の面白さにニヤリとしつつ堪能したからでしょう。
こうした引用技法は、欧米作品だけではなく、かつては日本文学にも見られました。
古くは『源氏物語』『枕草子』などの平安文学から明治初期までの小説には、唐代の漢詩や論語の一節などが文中に用いられました。
古典の素養のある読者は、たちどころに「ああ、これは李白の詩だ」「あれは白楽天だ」などと出典元がわかったのです。
もちろんわからない人もいます。そのため日本にも昔は引用句辞典があり、頻繁に引用される名句や格言の由来と出自が解説してありました。
しかし現代では、洋の東西を問わず古典の暗記をしなくなったため、欧米のキリスト教徒なら誰でも知っている聖書の語句をのぞいて、名詩の一節が小説に引用されることは少なくなっています。つまり引用技法は古典的な文学技法の一つだったのです。
二つめには、モンゴメリ自身が英米文学の愛好家であり、美しい言葉や印象的な一節を暗誦するのを好んでいたことがあげられます。そのためにアンシリーズは、当時の小説としても特に引用が多用されています。(つづく)
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