我輩は黒猫である      

-10. 我輩は黒猫である 000803


吾輩は黒猫である。名前はもう無い。どこで死んだかとんと見當がつかぬ。何でも薄暗いぢめじめした所でニヤーニヤー泣ひて居た事だけは記憶してゐる。吾輩はここで最後に人間と云ふものを見た。しかもあとで考へるとそれは主人といふ人間中で一番獰惡な種族であつた。

主人は胃弱で始終不機嫌ではあつたが元元は穩やかなる性格であつた。何時頃からであらう神經を病み鬱沒たる幻影に執り憑かれ、その解決を飮酒に求めるやうになつた。自知の明あるにも關せずその惡癖はなかなか拔けない。しまひにはぶつぶつと意味不明の言葉を呟き、その細君を愛してゐるにも拘はらず亂暴を働くやうになつてしまつた。「考げえるとつまらねえ。實際竒警な語ぢゃないか、ダ・ヴィンチでもいいさうな事だあね」彼は喟然として大息して云う。細君はその樣子に大いに嘆き悲しんだがそれでも獻身的に盡くした。しかしかへつてその樣子が更に主人の精神の弱い部分をいたく刺激し更に酒におぼれるばかりの結果となつた。

思ひ出した。

ある日、神經を病んでゐる主人は瑕疵たるたことで激昂し、怒りのあまり斧を振り上げ、細君の腦天にまつすぐに打ち込んだ。彼女は呻き聲もたてずに、その場で倒れて死んでしまつた。
不運にもその場に居合はせた我輩は、この慘劇の遠因は我輩にあるといふ根據の無い狂人の理屈を持つて…

「ビイルでも飮んでちと景氣をつけてやらう。」

はつと云ううち、――やられた。どうやられたのか考へる間がない。ただやられたなと氣がつくか、つかないのにあとは滅茶苦茶になつてしまつた。

我に歸つたときは繩で首を吊るされてゐる。苦しいから爪でもつて矢鱈に掻いたが、掻けるものは宙ばかりで、空しゐばかりである。眼に前には主人の血走つた目とニヤニヤ笑ひが貼りつゐてゐる血まみれの顏が見えるばかりである。仕方がないから思ひつきり前足で掻いたら、がりりと音がしてわづかに手應があつた。主人はニタリと笑ふと腕を伸ばして繩を自分の體から遠いところに引き離した。

その時苦しいながら、かう考へた。こんな呵責に逢ふのはつまり息をしたゐばかりの願である。呼吸したいのは山々であるがさうはいかないのは知れ切つてゐる。氣の違つた主人に爪のかかりやうがなければいくらも掻いても、あせつても、百年の間身を粉にしても繩から拔けられつこない。無理と分り切つてゐるものを拔けやうとするのは無理だ。無理を通さうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹つてゐるのは馬鹿氣てゐる。

「もうよさう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。

次第に樂になつてくる。苦しいのだかありがたいのだか見當がつかない。水の中にゐるのだか、地下室にゐるのだか、判然しない。どこにどうしてゐても差支へはない。ただ樂である。

氣がつくと暗黒の固體の中に居る自分に氣が付く。體を動かさうとするがちいとも動かぬ。體が動かないのか動かせないのも判然としない。ただ、暗黒の固體の中に響く主人のうつろな聲だけが辛うじて切れ切れに聞こえてくるのみである。

コツコツ。主人が壁をたたく音が聞こへる。コツコツ。我輩を呼んでゐるに違ひない。コツコツ。我輩は壁の中から主人に鳴き聲を以て答へた。

主人と同行してゐた一行が我輩を壁から掘り起こした。と、同時にもうひどく腐爛して血魂が固まりつゐてゐる死骸すなはち主人の細君も、掘り出された。その頭の上に、赤い口を大きくあけ、爛々たる片眼を光らせて、我輩は坐つてゐた。我輩は腐亂して崩れ落ちかけた口を僅かに開き、愕然と立ちすくむ主人にだけ聞こへるやうに微かに

「にやあ」

と鳴いた。

このパスティーシュは、インターネットの図書館、青空文庫の「我輩は猫である」夏目漱石 および「黒猫」エドガー・アラン・ポー 佐々木直次郎訳を参考に致しました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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