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203. 特に何もおこらない針井探偵事務所 20161017

 安い事務机に向かって机の傷を数えているとノックの音がした。
時間を確認しようと壁の時計を目で探す。窓が見える。昼間でも薄暗いのは窓の外がすぐに隣のビルだからだ、窓ガラスには水滴が流れている。このまま何万年も降り続ければガラスは少しずつ雨に溶けていき何百年後かにはスリガラスになり何万年後かには穴が開いてしまうのだろうか。考えあぐねているうちにドアが開いた。
「針井探偵事務所はここかしら」
「そうですが、あいにく」
 手のひらと視線で私の言葉を遮って彼女は喋り続ける。
「針井探偵がいろいろ立て込んでいることは承知しております。とにかく話だけでも聞いていただけませんでしょうか」
 そう言うと勧められたわけでもないのに勝手に来客用の椅子に座り込む。言葉とは裏腹に自分の要求が通らない事など想定していない人種だ。服は高級品に見えないが着崩れてないことからみて、ここにくる直前に古着屋で購入したものだろう。何より靴が高級品のままだ。貧乏人の振りをして探偵に仕事を依頼しにくる上流階級のご婦人とはなあ。何を依頼するつもりなのか判らないが、これから喋ることのほとんどは信用できないと考えるべきだろう。嘘をつく人と話をするのは面倒くさいなあ。頭の中に正直村の住民と嘘つき村の住民と嘘と本当のどちらを言うか決まっていない村の住民のクイズがよぎり、思わず呟く。
「この道が正しい道ですかと聞かれたらあなたはハイと答えますか?」
「え?今なんとおっしゃいましたか?」
 婦人は青ざめている。
「いや、すいません。ただの独り言です」
「……さすが針井探偵、見事な洞察力です。私がここに来たのは、浮気性の夫を亡き者にする殺人計画の第一歩でした。私の決心は堅かった……はずでした。でもあなたの今の一言を聞いて自分の心に問うてみました。正しい道……ではありません。わかりました。もういちど夫と正面から向き合って話し合ってみます。ありがとうございました」
 そう言うと私の返事を待たずに婦人は部屋から出ていってしまった。残された私は、あいかわらずやることもないので机の傷を数える作業に戻ることにした。
 針井探偵が戻ってきた。
「おや?来てたんだね。珈琲でも飲むか?」
「いただこうか」
「君が来たということは、なにか事件に関する依頼だね」
「結論から言うとまあそういうことだ。資料を準備してあるから読んでもらえないか」
針井探偵が資料に目を通している間、珈琲を飲む。
 先ほどの訪問者について針井探偵に話すかどうか迷う。あの婦人は来たと思ったらあっという間に帰って行ってしまったので、別れの挨拶もなかったことだけはよかった。さよならを言うことは、すこしずつ死ぬことだからだ。


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