窓の外はビル風にあおられて雨粒が下から吹き上がっている。ビルの天地がひっくり返ってもしばらくは誰も気がつかないだろう。
天井の照明が省電力施策の反映か、日に日に暗くなってきた。暗さを補うためか、天井が日々少しずつ低くなってきているようだ。経費削減が進み、総務部が完全勝利したあかつきには、天井と床の距離はなくなるになるに違いない。
嘉音と共に窓の外で窓拭き部隊が降下する。無断で窓の外に足場を作り、そこで生活しているノマド族との戦闘開始である。オフィス勤務なら頻繁に目にすることになるノマド族であるが、その生態はあまり知られていない。高層ビルの外壁を生活拠点としているが、この高層階のどこからビルの外側に出たか判然としない。壊れた非常口だとか通風口だとか言われることがあるが、気密性を高度に保持する必要があることから、そもそもこのビルにはビル外壁に開いている穴はない。大気圧と湿度と温度と月齢の条件が合えば彼らが持つ特殊能力でガラスを通過できるという、まことしやかな噂話もある。彼らの体重は軽く、外壁のわずかな突起を逃さないよう四肢は長くさらに指も細く長い。ガラス窓に張り付くために掌、腹、足の裏は極端に平面となり、湿度があれば吸盤のように張り付くことが出来る。痩せ型で始終汗をかくことがないので、彼らの腰にはいつでも水が入ったペットボトルをぶらさげ、時々手足を濡らす。
観察する限り、直射日光を避けビルの外壁を水平に横に横に回っている。寝るときは外壁にハーケンを打ち込み、ロープで体を縛り付けて寝る。景観を損ねるという理由で猛抗議を受けビル管理会社から迫害された絶滅寸前まで追い込まれたという歴史的経緯から、常にコンクリート色の毛布をかぶっている。保護色となって地上からは見えなくなったことから抗議の数は減ったが、腹側にはカモフラージュされていないので、オフィスからは丸見えである。
オフィスに人がいる時は決して食事をしないので、食生活は謎が多い。コンクリートの表面を削って食べているという説もある。確かに彼らが通ったあとのコンクリート壁はなめらかになっているが、吸盤が貼りつきやすいように研磨しているだけかもしれない。
移動して生活しているからノマドとか窓を嫌っているからNo窓と言われるようになったとかいくつかの説があるがどの説も信憑性は限りなく低い。
ノマド族がどのようにして情報を入手するのか不明だが、窓拭き部隊の予定を把握しており、二つのグループが衝突することは滅多にない。不測の事態によって、窓拭きの予定が急遽変更になった場合は衝突することがある。不測の事態とは、清掃予定の窓が爆破により存在しなくなったため、別の窓が繰り上げ清掃になったとか、窓ガラスが一夜のうちにゼラチンにすり換えられていたため清掃できなかったとか、窓ガラスが外側に大きく膨らみ、上から吊るされたゴンドラの降下が不可となってしまったとか、コネで就職した新任リーダーが古参から総スカンをくらい、ノマド族との拮抗を教えてもらえなかった場合等を考えたが、この程度の事態は私のような者があらかじめここに書けるわけであるから不測の事態とまで言うことは出来ない。また発生してしまった後では、不測ではなくなるのでこれも適当な事例とは言えない。理論的に不測の事態をあらかじめ描写することはできないことをお詫びする。
窓拭き部隊のゴンドラは、他部族主に他の窓拭き部隊からの襲撃に対抗できるよう武装している。鋼鉄のタンクは迷彩されており、かえって目立つ。コンクリートと窓ガラスを同一平面状にすることが一つの目標のようで、ダイヤの刃がついたカッターでコンクリートの表面をがりがりと削っていく。飛散したコンクリート粉末は磨き砂としてガラスを研磨することに転用される。したがって、ガラス表面はいつも傷だらけとなり曇りガラスの様相を呈する。数時間経過後、不思議なことにガラスの傷は修復し透明となるが、だれがどのように修復しているのか良くわからない。ガラス自体が生きているという、まことしやかな噂もある。時々、理由もなく窓ガラスが膨らんだり、形をかえるのはそのせいであるというのだ。それが本当なら満月の夜、窓ガラス散歩に出かけて素通しとなった穴を通じてノマド族がビルの外に出るという話もあながち嘘ではないかもしれない。
急襲をうけて逃げ遅れたノマド族はゴンドラのカッターで削り取られて地上への長い自由落下の道をたどるか、窓の研磨剤となるかである。轟音と共に秒速3mの速さで落下する窓拭き部隊のゴンドラはあっという間に見えなくなる。
ゴンドラが通過したあとはビルの外壁がきれいになる。ビルの外壁には点滅する照明が設置されている。航空機に対する警告灯であるはずだが、遠くに見えるビルの照明の明滅と呼応し、会話しているという話もある。霧が深くおぼろげに点滅が見えるような夜には、周りから見えないことを良いことにすぐ隣まで近づきデートしているという話である。そのときには照明を使って会話ではなくデュエットしているとのことである。