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142. 黒カバン 20130414


 ドアが開いて乗客が降りてしまっても、入り口付近までびっしりと人が詰まっている。背中を押されつつ電車の中に押し入る。なるべく女性の近くには寄らないように、近寄ってしまった場合は吊革、手すりにつかまって両手を挙げておく。人の流れに逆らわない。押されたら押されっぱなしでないといけない。

 数駅を過ぎたころには、車両の真ん中付近まで流されている。あいかわらず左右前後には人が一杯で身動きが出来ない。かろうじてカバンを網棚に放り投げ、吊革を掴む。吊革を掴んだ方が安定だというのは、まだまだ混雑に余裕がある証拠。もっと混む路線では、うっかり吊革を掴んでしまうと電車が揺れた時にかえって危ないのだそうだ。

 軽そうだという理由だけで購入したナイロン製の黒いバッグは、ずいぶん長い間使っていてあちこちがくたびれ始めている。肩掛けの紐の金具は両方とも壊れてカラビナで本体と繋いでいるし、本体がゆがんでいるので、歩いているうちにファスナーがいつのまにか少しずつ開いてしまう。網棚の上のカバンを見ると案の定ファスナーが10cmほど開いている。閉めたいのはやまやまだが、なにしろ体を動かすと左右前後の人に迷惑がかかるので見ているだけにする。中からなにかこぼれ落ちると困るので、何が入っていたかなと開いたファスナーをじっと見てみる。

 考えてみると、通勤時に手ぶらだと手持ち無沙汰であるという理由と、書類を運ぶことがあるかもしれないということで購入したカバンだが、情報管理の観点から家に書類を持ち帰らないようにとの会社に指示に従い、ほとんど何も入っていない。はずである。

 財布とペンと手帳と……ほとんど何も入っていないようなものだが、しかしなんだが最近はカバンが重いような気がする。あと、缶コーヒーのおまけのフィギアを放り込んだまま(いくつ入っているんだろう?)、その日の気分で交換するイヤホン。ケータイ。最近腕につけなくなった腕時計がカバンの奥に入っているはずだが、あれが落ちて座っている人の頭にあたったら怪我するかも。電車の揺れで転がり落ちてきませんように。

 開いたファスナーの奥をじっと覗き込む。カバンの奥で何か反射したような気がする。腕時計のガラス……にしてはもっと球形のものの反射のような気がする。ガチャポンの殻?そんなもの入れた記憶はないのだが、なにしろ自分の記憶に自信がない。数年前に放り込んだままかもしれない。でもあの光り方はプラスチックというよりガラスか、それとももっと何か濡れたものの反射のように思われる。予備の眼鏡のレンズに反射したか? 眼鏡ケースに入れていたはずだがあまりに放置している内にケースから飛び出してしまったか? でももう少し小さいもののような気もするし。覗き込んでいると、ふと気がつく。向こうからも私をじっと見ている。カバンの中になにかいる。ような気がしてならない。

 思わず後ろに下がろうとするが人が多くて身動きが出来ない。カバンのファスナーから硬そうな毛がびっしりと生えたペンほどの太さの棒が徐々に見えてくる。電車の振動で中に入っているものが出てきたのか。ファスナーの隙間から徐々に何本も見えてくる。カバンの奥からじっとこちらを見ている。ファスナーが動いて少しずつカバンが開いていく。電車が連結を乗り越えてゴトンと揺れた瞬間にカバンは一気に開き、中から大きな蜘蛛のような塊が飛び出す。黒蜘蛛は私の隣に立っていたOLの顔に取り付く。OLは吊革を握った格好のマネキン人形のように動かない。悲鳴とともに周りの人が後ずさる。

 OLの顔に取り付いた黒蜘蛛からはなにか柔らかい者を噛み千切るような音が聞こえてくる。OLの体が数度痙攣して膝が崩れ落ちる。頭とともに床に落ちた黒蜘蛛の目玉がじっとこちらを見ている。と思った瞬間にこちらに飛び掛って

 眼が覚めた。

 七人掛けの長いすの真ん中に座って熟睡していたらしい。窓の外は暗く、今何処を電車が走っているのかよくわからない。回りを見渡すと車両の中は私一人である。いつもは膝の上に載せているはずの黒いカバンがない。見上げると頭の上の網棚に載っている。カバンを取るために立ち上がり手をのばそうとすると、カバンのファスナーが開いていることに気がつく。カバンの奥で何かが光り、じっとこちらを見ている。伸ばした手を引っ込めようか、カバンをとろうか決めかねている。電車は走り続ける。

 

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