いろは坂入り口に到着。四十八のカーブがあるから いろは坂。四十八手と関係あるのだろうか。神聖な男体山だからそんなことはないっすか。すでにシャツは汗びっしょりの状態。普段の軽装でこの坂を徒歩で登るのは無謀かな。ヒッチハイクしようか、意を決して登ろうか、ペットボトルのお茶を飲んで考えていると、後ろから声をかけられた。
「おねえさん、これを落としませんでしたか?」
振り向くと男が指輪を差し出している。やたら手が長いなと思ってよくみると指輪がはまった手を持ってこちらに差し出している。
目が覚めると車の後部座席に寝ている。やたらと車が右に左に曲がって進んでいる。坂道を登っているようだ。
「あ、寝てていいですよ。ずいぶん疲れていたみたいだし」運転している男が振り返らずに言う。さっきの指輪男と同じ人なのかよくわからない。
「私、なんで車に乗っているんですか」
「あれ? 寝ているうちに忘れちゃったんですか? 滝まで乗せてって言われたんですけど。タクシーじゃないから料金はとらないので安心して」
「あれ、指輪はどうしました?」
「指輪?あなたの指輪ですか? 落としました? 車止めて探しますか?」
「いや、あなたが持っていた指輪だったと思うんですけど」
「私は指輪してないですよ。独身だし」
どうやら私が寝ぼけているものと思っているようだ。いや、寝ぼけているのかもしれない。それとも熱中症で幻を見たのか。シートに寝転んだまま指輪がはまった手のことを考えてみる。何故指輪がつきまとうのだ。第一、あの指輪には見覚えがないし、そもそも手にも見覚えがない。あまり人の手は区別がつくほど覚えていないが。だいたい何故家に放置されていたのだ。そして、何故私を追っかけてくるのだ。
あの指輪と手は、家を出るあわただしさのなかで何かの見間違えではなく、本当にあったものだったらどうしよう。バラバラ殺人? なんでバラバラにした手だけ私の部屋に隠しておくのよ。いや、ひょっとしたらあのゴミ部屋にうずたかく積まれたゴミの奥にその他の人体が埋まっているのかもしれない。いや、それだったらひどく嫌な臭いがするはずである。ゴミ部屋とはいえ、腐って悪臭を放つようなものだけはこまめに捨てていたし、第一部屋になるべく生ゴミだけは小まめに捨てるようにしていたはず。だから普段からへんな臭いはしないし、出発した日も大丈夫だったはず。
そもそも、バラバラ殺人の手を見ず知らずの女性の部屋に放り込む人がいるものか。いや、放り込むんじゃなくて、部屋に忍び込んでゴミを掘り返し埋めてしまうのは常軌を逸している。そもそもバラバラ殺人自体が常軌を逸しているというべきなのだが。私に殺人の罪をかぶせようと考えるにしては手間がかかっている。見ず知らずの人の部屋に忍び込むのはリスクが高すぎるし、知り合いは私がどこに住んでいるのか知らない。教えるとゴミ部屋に招待するはめになってしまうから教えないのだ。
やっぱりバラバラ殺人の罪を私に擦り付けるというのは無理がある。じゃあ、あの手はどこかの殺人鬼が持ち込んだものではなくて、ひょっとして私自身が……。
急カーブを曲がったとたんに身体がドアにぶつかる。
「大丈夫でしたか? 気分は悪くないですか?」運転席から声がかかる。
「あ、寝たままですいません。起きます」
あいかわらず山道をぐるんぐるんカーブが続いている。
「いろは坂。長いですね」
「まだ季節が早いですね。秋ごろになれば紅葉がきれいなんだけど」
会話がかみ合わない。ところで今何を考えていたのだろうか。あ、あの手は私が例えば酔っ払って前後不覚になったときに、もしくは私は二重人格で、今は覚えていないけどなんか人を殺してしまって解体したものだったりして。やだなあ。心神喪失時の犯行ということで減刑されないかなあ。いやいや、そうではなくて多分やってないんじゃないかな。大量の流血があったら部屋のゴミはまっ赤っかのはずだし、私の服は昨日の仕事着のまま寝て、朝もそのままだったが血のあとなんかついてなかったし。それとも二重人格の中の人が巧妙に隠蔽作業したかな。
「つきましたよ」男が車を止める。「裏見の滝だけど、降りる?」「あ、ありがとうございます」「よかったら案内しようか?」なんか断るのも悪いような気がしたので一緒に滝を眺めることにした。彼が言うにはいろは坂の下で、私がヒッチハイクして後部座席に乗り込むなり「滝」と言って後部座席に倒れこんで寝始めたそうだ。
なんか妙に私の挙動に反応する。どうやら身投げするのではないか心配しているらしい。別にこの世に未練はないけれど、積極的に滝つぼに落ちる動機もない。展望台から見下ろす滝はでかい。上から落ちたら助からん。ホームズが死んだと思われたわけである。
「ソフトクリーム食べますか?車に乗せてくれたお礼といってはなんですけど」
返事を待たずに店のあんちゃんに二つ注文する。カバンの中を財布を捜してかき回すと出てきた。指輪が。今度は手はついてきていなかった。
顔色が変わったのを悟られないように指輪をこっそりポケットに入れる。ひょっとしてさっきまで死体の指にはまっていたかもしれないと思うと気持ち悪いが、なんだかカバンに仕舞ってしまうと消えてしまうような気がしたのだ。
滝の水しぶきと音で、はしゃいだ子供のテンションが上がって踊り始める。あまりにも首をふったせいか気分が悪くなって戻している。親は子供の世話をしながら馬鹿だねえと言っている。
しばらくは 滝に踊るや ゲロ始め
(暫時(しばらく)は滝(たき)に籠(こも)るや夏(げ)の初(はじ)め 芭蕉)
隣の男が何か言っている。
「え? 何ですか?」
聞き取れないので耳を近づけると、男は私の手を引きバランスが崩れたところで軽々と私の腰を持ち上げフェンスの向こうに私を放り投げた。私は滝つぼに向かって斜面を転がり落ちていく。一瞬、フェンスの向こうの男と目が合う。
俺知らね 今を死とする 瀑布だもの
(蚤虱(のみしらみ)馬(うま)の尿(しと)する枕(まくら)もと 芭蕉)
というところで目が覚めた。まだ車の中だ。
「あ、目が覚めましたが、気分はどうですか?」
当然ながら気分はよくない。「ここは?」「ここは湯滝ですよ。あなたが滝を見たいというから」
湯滝は山の巨大な岩肌の斜面を流れ落ちるような滝である。斜めに滝の水が滑り落ちている。へんな夢を見て気分がよくないが、やっぱり滝の音は気分が落ち着く。
自分のゴミ部屋で見かけた指輪は手がついていた。あれが本当に人の手だったら周りと手そのものに血のあとがついて悲惨な光景になっていたはず。でも手は白かったし、へんなにおいもしなかった。するとあれは手の形をした作り物のはず。一番可能性があるのはマネキンの手。あの夜、解雇を通知された私は上司とお別れ会を行い痛飲し、いわんこっちゃない泥酔。いつもの悪い癖でどこぞのマネキン人形を部屋につれていこうとしたところを倒してしまい、もげた手だけを握り締めて夜の街を徘徊。
隣に立っている男が喋っている。頭の中で考えていた推理を私は呟きはじめ、男の喋りとユニゾンになる。
「元上司はこんなことになるとは思わず、前から考えていたんだと指輪を渡す。自由恋愛のつもりでいた私は笑い飛ばして指輪をマネキンの指にはめる。まじめにとってくれない私に怒った元上司と口論になり、顔に平手打ちをもらった私は、衝動的にマネキンの手で上司の頭を張り飛ばす。倒れて動かなくなった上司を放置して帰宅した私は、部屋の隅に手を放り投げて熟睡。酔いのため記憶があやふやなまま、無意識に元上司がそのまま死んでしまったという可能性を考えたくないために指輪と手を思い出ださないようにした結果、不自然な行動に出た」
「こんなところかな」ユニゾンの推理が終了し、男はこちらを向いて話しかける。「これが本当だとしたら殺人だ」そんなはずはない。あなたの勝手な言い分。確かめるには元上司に今から電話してみればいい。ここで携帯電話を持っていないことに気がつく。
「携帯電話を忘れるなんてよっぽどのことだね。やはり何かから逃げ回っているんじゃないのかな?」
無言で男と睨み合う。右手に突然、滝が現れる。竜頭の滝は、湯川が岩肌を滑り落ちるように流れる美しい滝。途中から二枝に分かれ滝壺に落ちる様子を正面から見ると、竜の頭に見える。茶店から二本の滝を眺めることができる。
でも、貴方はなぜ自分の事のように私の行動がわかるのかしら。おかしいじゃない。私が滝に連れてってというのは、私が滝に身投げして自殺しようとする願望があるからだ、と言おうとしているのかしら。
正面と右手に滝が流れている景色を連れたまま、華厳の滝に向かう展望台に出た。
展望台から眺める滝は綺麗だが、どうも遠い。滝ノ下までの100mを降りる有料エレベーターがあるらしい。一緒に行きます? 観光地はぼったくりだな。エレベーターをおりると岩盤をくりぬいたトンネル。真夏なのに寒い。濡れたままのシャツでは風邪をひいてしまいそうだ。トンネルの中は壁と天井から水がしたたる。トンネルを抜けると滝の下。滝からの細かい水しぶきが雨のように霧のように降り注いでいる。水の音がうるさい。
それはおかしいわ。なぜなら私は別に死にたいと思っていない。よくわからないけどい、あの指輪が私に付きまとうのは、私がその指輪の持ち主を殺したから? でも誰を? 特に恨みをもっている人もいないし。いったい誰を殺したというのかしら? さっきから貴方はどうして黙っているのかな?
さあ誰を 殺めて 話す のも駄目かな
(五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉)
それとも忘れてしまったのだけれども、あれは私の指輪なのかしら。指輪が私のものだったとしたら、指輪についている手は、私自身の手。私は自分が死んだことに気がつかないで、指輪と化した自分がそれを知らせについて来ている。自分が死んだことに気がつかないなんて、ずいぶんと粗忽者だわね。でもちょっと引っかかるのは手よね。なぜ追っかけてくる私は手だけなのかしら?あれが私なら、私はバラバラになっているはずね。自然死でバラバラになるのは難しそうだから、誰かがバラバラにしたのかしら? さっきのお話に出てきた元上司? 元上司の嫉妬に狂った妻?それとも旅行に乗り気じゃなかった彼氏?彼氏の恋人?それとも……貴方かしら?
それにしてもどうして私たち、滝巡りしているのかしら。私は滝マニアではないし、貴方に滝につれてってと私は言った記憶がない。あなたがそう主張しているだけ。
滝を巡るたびに新たに滝に囲まれて、もう四方が滝。滝をめぐっているのは、あなた自身が滝に行きたいのではないの? 滝の白い水壁は、なにかを思い起こさない? 白い壁? この裏見の滝は、滝の裏側に回ることができることで知られていたけれど、がけ崩れの影響で通路がくずれてしまい、今は滝の裏側に回り込むことができない。そうね、今のあなたの状況にぴったりじゃないのかな? 白い滝の水の壁によく似た白い壁に囲まれて、その向こう、部屋の向こうに出ることができないあなたに。
あなたの推理は面白いが、それではこういうことになるんじゃないかな? 貴女は実在しない私の想像の産物であり、私の現実逃避のために生み出された妄想的人格だと。
それはそれで面白いんじゃないかしら。私があなたの妄想だった場合、私に付きまとう指輪は何かしら。指輪が象徴しているものは何? 男性からすると指輪は女性のものであり、自分を縛り付けるもの、契約の象徴。あなたからすると指輪は女性そのもの。部屋に埋もれている手は貴方が殺した女性の暗喩。暗喩に閉じ込めておけなくて、手がついてきたのじゃないかしら。そして指輪と手を連れてきた私は、貴方に殺された女性
それを確かめる方法はあるわ。貴方がこの滝に飛び込んで、私が消えれば、私は貴方の妄想。
それはフェアじゃないね。私たちが実在する場合には私が死に損だ。
部屋においてあったはずなのに、突然現れた指輪を探しながら言う。ポケットの底には指輪と、さっきはなかったはずの手が入っていた。
「この指輪が妄想かどうか。滝に投げ入れてみましょう。指輪は現実との契約の象徴。この世界が妄想なら、この指輪が象徴する契約は破棄され、それにより貴方の妄想は強制的に終了し、現実に戻るはず。指輪は、そのためのキーとなっているはずよ」
私の提案に男はなぜか顔が青ざめてきたように見える。
「これをあげるわ。妄想ではないというなら自分で指輪を滝に投げ込みなさい」
そう言って男に手ごと指輪を渡し、滝に背を向けてエレベーターに向かう洞窟へ歩き始めた。上で待ってるわ。私が消えてなければね。洞窟内の照明はいつの間にか消え、奥のエレベーターの明かりが小さく見える。暗がりのなか、冷えた洞窟の奥を目指して歩く。振り返らず。
振り向けば 帰らず 飛び込む 水の音
(古池やかわず飛び込む水の音 芭蕉)
<終わり>