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122「ビッチ・ハイク」(前編) (20120911)

盗んだ俳句で走り出す 行く先もわからぬまま

猫の恋やむとき閨の朧月  芭蕉

 「ねえ、派遣さん、派遣さん」

 この女、いつまで経っても名前覚えてくれないなあ。短期で居なくなる派遣社員とはいえ、女子会とかに呼んで正規社員と割り勘で払わせるくせに差別じゃないのこれ。え、区別? 報告書が溜まっているんだからむやみに話しかけないで欲しいんだけど、そうとは言え職場の人間関係を円滑に動かすためには、生産的ではないコミュニケーションの重要性もまた見逃すことができないのだと研修で教わったような気もするし。自分に話しかけられた事に気がつかなかった振りをしてもいいんだけど、この事務所、みんな外に出払っていて二人っきりなのでむげに知らん振りもできない。この間、0.1秒。

「はい、なんでしょう?」

 出来上がった報告書の印刷ボタンを押しながら答える。電子化遅れてるオフィスだよなあ。まあいいけど。

「派遣さん、なんか猫の鳴き声が聞こえませんか?」

「そういえば、さっきから仔猫が鳴いているような声が聞こえているような聞こえていないような。耳がいいなあ」

「どこかに猫が紛れ込んでいるんですかなあ? 一緒に探してもらえませんかぁ」

 それって仕事からの逃避行動ではないか。正規社員は仕事に余裕があっていいわね。派遣契約内容には猫の探索は入っていませんけど、なにか。

「いいっすよ。ちょっと書類が印刷されたら」

「ふわーぃ」

この女子高生気分の抜けない正規社員は、いつも好奇心に満ちた目をきょろきょろさせててどことなくリスを思いうかばせる。

「ねこちゃん、ねこちゃん」

 と言いながら机の下を見て回っている。猫がこのオフィスに迷い込んできたというのは考えにくいが、鳴き声が聞こえるというのはそういうことかも。印刷された報告書をざっと確認して捺印し、部長の机の上に置く。またどうせ何か言われるんだけど、何書いても文句言われるんだからしょうがない。二人して猫の声を求めてオフィスを彷徨う。

「派遣さん、なんか、金庫の中から聞こえてきてるような気がするんですけど」

「うーん、よくわからないなあ。部長が帰ってきたら金庫を開けてもらう事にしたら?」

「えー、猫ちゃん死んじゃいますよ。悠長に部長の帰りを待ってたら、水もないし、空気もなくなるんじゃないですか」

「じゃあ、金庫を開けたら? 鍵の場所とか知ってるんでしょ?」

「でも、勝手に開けたら怒られるしー」

 なら、どうしようもないなー。

「金庫に入った猫は存在するか」

「あ、シュレーディンガーの猫ですか? でも金庫の中にはガイガーカウンターも青酸ガス発生装置もないから、ちょっと違いますね」

 しまった、このリス女が理系オタクということを忘れていた。なんで一般事務のOLなんかやってるんだ。

「まあ、そうなんだけど、猫が入っているのを誰も見ていないんだから、金庫を開けて観測されるまで、金庫の中では猫が存在する状態と、猫が存在しない状態が重ね合わさった状態にあるんじゃないかな」

「そうですかねぇ? でも声がきこえますよ。ほら」

「私には聞こえないんだけど」

「年取ると高い音が聞こえにくくなるというじゃありませんか」

 悪かったな年で。金庫の中の猫が存在/非存在の重ね合わせ状態にあるとしたら、猫から見たら逆に金庫の外の宇宙の方が存在/非存在の重ね合わせ状態にあるのかな。金庫の扉が開いて猫により外の世界が観測された結果、金庫の外が非存在の状態に量子状態が収束した場合、この宇宙には猫のみが存在することになる。従って、猫を基点としたビックバンが開始される。猫宇宙か。

「エヴェレットの多世界解釈の援用ですかね? でもコペンハーゲン解釈と一部ごっちゃになっていませんか」

 わ、独り言を聞かれてたみたい。

「猫はやっぱり金庫の中かなあ」

「きっとそうですよ。開けたら怒られるかなあ」

「でも、ほら、中で猫が暴れて書類が破られたりしたらもっと大変なんじゃない?」

「そうですよね、じゃあ金庫の鍵を持ってきます」

 リス女が鍵を探している間に自分の机の上の不要な書類の整理。シュレッダーにかける紙が一抱え。

 鳴き声がひどくなったり、やんだりしたら中に入っているのが判るかなと思い金庫を足で蹴ってみる。

 「わ、派遣さん、ひどーい。イジメですよ、イジメ。猫虐待フリスキーじゃないですか。山寺の和尚さんかと思いましたよ。可哀想だからやめてください」

♪山寺の和尚さんは、マネーが尽きたし マリファナ ハッシッシ

「なんですかその歌。麻薬中毒ですか」

「『猫をかんぶくろに押し込んで』の『かんぶくろ』って棺桶を入れる袋という説があるんだよね」

「へえ、紙袋じゃないんですかぁ」

「棺桶を入れる袋には当然、棺桶が入っているじゃない? すると猫は棺桶に入っていて、外から蹴られるわけよ。今の状況に似てるわね」

「派遣さん、おもしろーい」

 その顔には「つまらなーい」と買いてあるぞ。

「えーと番号は右に12……」

 リス女はぶつぶつ言いながら金庫をあけようとしている。シュレッダーにかける紙の束を抱えて後ろから私が見ている。

「開いた」

「あ、なにか飛び出した」

 と私が声を上げた拍子に、その方向を向こうとしてバランスを崩し、紙の束を落としてしまう。

「どこどこ、猫ちゃんはどこへ行きましたか?」

 リス女は猫を探してオフィスをうろうろする。その隙に金庫の陰に設置したボイスレコーダーを回収して猫の鳴き声の再生を停止。紙を拾うふりをして中の書類を物色。なんか裏帳簿っぽいものを発見、ゲット。金庫の鍵の場所と番号が判ったから、今夜にでも返却すればばれないだろう。

「猫ちゃんいませんよー」

 リス女が困った顔でこちらに戻ってくる。

「やっぱり、金庫の中には居なかったんじゃないの?」

「そうかなあ、でもなにか飛び出してきたような気がするんだけど」

「金庫、早く閉めたほうがいいんじゃないの」

「あ、そうですね。開けっ放しだと部長さんにおこられちゃいますぅー」

 リス女は金庫を閉め、鍵を元の場所に戻しに行った。私は裏帳簿をカバンに隠し、不要な紙をシュレッダーにかけ始める。

「たくさん処分するんですね」

 わ、このリス女、いつの間に後ろに。

「うーん、猫ちゃんが見つからなかったのは、量子的重ね合わせ状態の偏移に由来する現象なのかどうかについては、私、よくわかないんですね。でもー、猫ちゃんはみつからなかったけど」

 後ろを振り向くと、リス女が手に裏帳簿をもって微笑を浮かべている。

「泥棒猫は見つかったみたいですぅー。これの取扱いについて二人で女子会ひらきませんか?おいしいパスタ屋さんがあるんですよ」

 私とリス女はお互い、微笑を浮かべ目が笑っていない状態でにらみ合う。日が暮れ始め、オフィスの中はどんどん暗くなっていく。どちらが先に声を出すか。すでに駆け引きが始まっている。

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声


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