87. 「アラヂンと魔法のランプ」(20060911)


第壱夜

 えたいの知れない不吉な塊がアラヂンの心を始終壓へつけてゐた。焦燥と云はうか、嫌惡と云はうか――酒を飮んだあとに宿醉があるやうに、酒を毎日飮んでゐると宿醉に相當した時期がやつて來る。それが來たのだ。これはちよつといけなかつた。

 そのランプの冷たさはたとへやうもなくよかつた。その頃アラヂンは肺尖を惡くしてゐていつも身體に熱が出た。事實友達の誰彼にアラヂンの熱を見せびらかす爲に手の握り合ひなどをして見るのだがアラヂンの掌が誰れのよりも熱かつた。その熱い故だつたのだらう、握つてゐる掌から身内に浸み透つてゆくやうなその冷たさは快いものだつた。

 丸善の棚に、やつとそれは出來上つた。そして輕く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐るランプを据ゑつけた。そしてそれは上出來だつた。 ――それをそのままにしておいて、何喰はぬ顏をして外へ出る。―― アラヂンは變にくすぐつたい氣持がした。「出て行かうかなあ。さうだ出て行かう」そしてアラヂンはすたすた出て行つた。

 しかし、丸善から出るか出ないかのうちに、巨大な漆黒の化け物が、鍾乳洞の生え出るが如く床から出て来た。ちやうど、燻される煙りのやうにその体躯を揺らしながら、頭が天井の照明へ届くと、そこからアラヂンを見下した。

「ご用は何でございますか。私はランプのしもべでございます。そして私はランプの正当な所有者の言ひつけ通りになるものでございます。」

 變にくすぐつたい氣持が街の上のアラヂンを微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆彈を仕掛て來た奇怪な惡漢がアラヂンで、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆發をするのだつたらどんなに面白いだらう。

そしてアラヂンは活動寫眞の看板畫が奇體な趣きで街を彩つてゐる京極を下つて行つた。

 このやうな按配で、アラヂンは惡い惡い惡だくみを執行し、そして、もうこの世の中には、だれもアラヂンの仕合せのじやまをする者はなくなった。その國は、その後参千ターラントの永き間栄へたと伝へられる。アラヂンは持病の肺尖で見取る者もなく路傍で死んだそうだ。


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