81. 「知人のI」(20051113)


腕相撲のコツといえば、GO!と同時に手首を内側に曲げる。てのひらを自分の体に引きつける。体ごと体重をかけて倒す。この三点がコツと言えばコツ。中学の時入っていたバレー部は、周りからはボディビル部と呼ばれるくらい筋肉トレーニングをさせられたせいで、大抵の人には腕相撲では負けなかった。いまではもう見る影も無いが。

大学の学部祭の時間つぶしのアトラクションで、腕相撲大会が急遽開催されたことがあった。決勝戦で同級生の(ここでは仮にIとする。これは、単に”知人のI”という駄洒落で、特に意味はない。)Iと当ったのだが、全く歯がたたなくて私としては、これがまた結構ショックだった。

Iは、まあ腕相撲が強いからといって偉いというわけではないから、と変な慰め方をした。

Iとは同じ運動部に入っていたのだが、特にパワープレイを得意とするわけでもなく意外だった。聞くところによれば、高校時代の弓道部で鍛えられたそうでーなんでも、逆立ちして腕立て伏せとかやらされたそうだーそれではかなわないよなあと思ったものだった。

Iは私よりも身長が15cm高く、私は下を向いてボソボソと喋る癖があるので学生時代は妙なコンビだったのではないかと思う。いつも周りを盛り上げようと気をつかうIの周りには笑顔が絶えなかった。その中心で笑いながらも、なぜかIはいつも悲しい目をしていた。

同じクラブに所属していたので、飲み会ではよく一緒になった。そいつは学年で一二を争うほど顔立ちが整っていたのだが、武闘派だったためかその目からか、なぜか異性がよってこず、同性には人気があったものだった。

久しぶりに見た夢にIが出てきた。

夢の中でIは、仰向けに寝ている私の上に、総合格闘技の試合の勝者のように跨っていた。なにがどうなって状況になったのか皆目わからない。ここで体重の乗ったパンチをくらうと一発でK.O.だな。Iはどうしようかといった感じで私の目を見ていた。

「夢にIがでてきたよ。」目がさめてから、妻(妻とIと私は大学の同級生である)に話してみる。 「そう…。そういえば、そろそろIの命日だわね。」

当時の私の酒癖はたちが悪くて、といっても自分では何処が悪いのかいまだにわからないのだが、嫌いではない人の近くに座ると、とにかく誉めるということをしていた。嘘とかお世辞とかおべっかではなく本気で誉める。裏心はなく、下心もない。純粋にいいなあと思うところを挙げて誉めまくる。何故だかよくわからないのだが、異性に対してこれを行うと、言われた方および第三者は、口説いている行為であると受け取るらしい。私は、好きな人に対しては欠点をあげつらうことしかしないので、これはもう完全に誤解なのである。これで何回も失敗した。

先輩の彼女を誉めていたら、あとで暗い路地でどつかれたり。なんといっても困るのが、誉められて勘違いした女性の友達からお断りの伝言があったり、更に困るのがOKの返事が伝えられたりすることがあることだ。こちらは人間的に好意をもっていることの表明でしかないつもりであるから、そういう心構えをしていないので困る。東奔西走して事の収拾をはかるのに何度も苦労した。

そのままつきあってやっちまえばよかったのにと今では思うのだが、なにしろ物心がまだついていない頃だったから何を考えていたのやら自分でもわからない。Iには、何度かそういうゴタゴタのときに助けてもらったり、あろうことか巻き込んで迷惑かけたりしたこともあった。本当に申し訳ない。

悪気がないのはわかるけどさあ。もうちょっと考えたほうがいいんじゃない。

軽音楽部の練習の合間にこういう忠告をうけた。そういえばこのクラブもIに誘われて入部したのだった。でも話は、なぜこのバンドにはギターがいないのかという方向に流れてしまう。やってみればお分かりになると思うが、ギター抜きのロックバンドというものは結構つらいものがある。ワサビが入っていない寿司のようなものである。

Iは、相手を気遣うあまり相手を気疲れさせてしまうたぐいの人だった。聞くところによると結構大きな古い旧家の一粒種で、早い時期に父をなくしたため、母親の期待を一心に集めていたらしい。母親は子のためによかれと期待し、子は母親の期待に過度に答えようとして、そして子の目はどんどんと悲しみを帯びることになる。だが、それはIと母親との間の問題であって、他人が口出しできることではなかった。

その知人は、大学院に進学し悲しい目のまま笑顔を周りにふりまき続け、大学院を修了したあと、母の期待に応えて、旧家の家の若旦那の後妻として嫁ぎ、三ヵ月後に死んだ。心臓らしいという噂であった。

あの騒ぎのときに、うんと言ってくれた彼女とそのままつきあっていたらどうなっていただろうかと思うこともある。あの、子の事を真剣にしかしある意味エゴイスティックな目をした母親からIを奪い取ることができただろうか。それともやっぱりいつものように逃げ出していただろうか。きっと私は、あの雨にぬれた犬を思い起こさせるIの悲しい目に耐えられなかったのではないか。きっとそんなところだ。

夢の中で私は、なにか白々しい嘘をついていて、彼女はそれが嘘だとわかっているはずなのに私の言葉を信じようとしていた。

もし、あのとき付き合いはじめていたら。そんな仮定の話をしても仕方が無いし、もう彼女は死んで身体は灰と塵となり、魂というものがあったとしてもどこか遠いところに行ってしまっている。彼女がこの世にいたという痕跡は残らず消え去っても、彼女を知る人たちの心に彼女の思い出が残る。しかし、その思い出もあと数十年すれば、みな死んでしまって彼女が、そしてわたしたちが、この世に確かにいたという痕跡は何もかもなくなる。

「ところでさ。」妻が問いかける。「夢の中でIと何していたの?」

ばかもの。聞くなよ。そんなこと言える訳ないじゃないか。


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