金木犀の香      

56. 金木犀の香 031004


出先のビルを出ると涼しい風が吹いていた。さて帰って何と報告しようか。こんな返事ではまた上司に怒られるのだろうなあ。私の交渉は全く無駄で、そもそも最初から先方の方針は決まっていたらしい。こんな下っ端に使いをやらせてうまくいくわけないよな。まっすぐ会社に帰るのは気が進まなかったので、とは言え完全にサボるのもまずいのでとりあえず一駅分歩くことにした。

やっぱりこの仕事向いてないんだよなあ。人がいないから仕方なしにやらされているような気がする。なんだかなあ。適材適所とか考えてくれよなあ。ますます足取りが重くなる。公園に入りベンチに座ってみる。冷夏だった夏も夕立の時期を過ぎて終わり、空を見上げると秋の雲が浮かんでいる。底の抜けた高い空を見上げていると、なんだか世界は大きなガラスのコップで自分がその底に沈んでいるように感じられる。

ますます会社に戻ることが嫌になってくる。仕事のこと、考え直した方がいいのかもなあ。と、そのとき不意に甘い匂いが香ってくる。そして同時に記憶がよみがえる。縁側に座って遊んでいる僕。母は部屋の奥でなにか家事をやっている。金木犀の匂いに包まれて僕は夢中で遊んでいる。ふと見上げると空はキリリと透明で密度が高く重さすら感じられるようだ。そう、そのときも僕は、世界はコップのように自分を取り囲み、そして僕は世界の底にいるように感じられたのだ。そしてなにか怖くなってきた僕はおもちゃを放り出し母の方へ走っていったのだ。

それからどうしたのかもう思い出せないが、きっと母のエプロンに抱きついて何か言ったのだろう。そして何事が起こったのかよくわからない母はきっとあらあらどうしたのといいながら僕の頭をなでてくれたのだろう。僕は公園のベンチに座ってその時の空気の硬さを思い出す。母の柔らかさを思い出す。そして自分の娘達を思い、娘の頭をなでている妻の姿を思う。この秋の硬質の空気から逃げるわけにはいかない。

目をあけて金木犀の花を探す。公園の片隅にそのオレンジ色の花が咲いていた。僕は金木犀の小さい花を一つ摘んでみる。匂いをかいでみた。しばらく眺めて、そして、思い出させてくれてありがとう。僕は行かなきゃいけないんだ。公園の池に花を投げ入れ僕は歩き出した。

その時、池が急に泡立ち中から女神が現れた。
「お前が落としたのは、この金の木犀か、それともこの銀の木犀か?」
「いえ、どちらでもありません。」
僕はちょっと考えてこう答えた。
「花ですから、木製 でございます。」


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