極私的YMO      

53. 極私的YMO 010412 (020612改稿)


(このページは日記を再構成し、図(自作消しゴムハンコ)を追加したものです。)

 

YMO  そのレコードに出会ったのは、まずジャケットであった。髪の毛の代わりに爆発した電気コードで、サングラスをかけた着物姿の女性というコラージュが気に入って、ジャケット買い。というか、金を持っていた友人に無理矢理買わせる。そのころはセカンドアルバムも出ていたから1979年のはずである。数えてみると高校1年である。予備知識無しで聴き始める。TVゲームの音が入っていたりしてA面を面白く聴く。B面の1曲目は「東風」。あの有名な低音のシーケンスの繰り返しに心奪われる。気がつくと涙を流しながら聴いていた。この時以来、YMOの呪いが解けない。今聴きなおすと、繰り返しを強調したリズム、素朴なメロディー、やたらと複雑なコードというYMOの基本コンセプトがすでに確立していることがわかる。
 YMOのファーストアルバム「Yellow Magic Orchestra」はアールデコ調のジャケットの日本版と前述の米国版がある。日本版はコンピューターゲームのバスドラと風船の破裂音の掛け合いが肉体的だったり、東風の女性ボーカルが無かったり、アクロバットがカットされていなかったりする。アールデコの方が細野色が強い。
 このアルバムが気に入って繰り返し聴いているうちに、世間ではセカンドアルバムに収録されているテクノポリスやライディーンが大ヒットになる。なんとなく、流行り物をかうのは気がひけたため、セカンドアルバムを買うのは10年後になってしまう。人民服を着た3人の男のジャケットが気持ち悪かったというのもある。
「YMO(セカンド)」

ソリッドステイトサバイバー  YMOのセカンドアルバム「ソリッド ステート サバイバー」は、売れに売れて社会現象にまでなる。ファーストのコンセプト「バーチャルなエキゾシズム+電子音」から「無国籍な未来+電子音」に変えたのが受けたのだろうか。メンバーの意図を越えて売れ過ぎたため、彼等はそこからの逸脱を常に考えるようになる。これ以降、期待からの逸脱がYMOの基本コンセプトになる。

パブリックプレッシャー ワールドツアーのライブアルバム「公的抑圧」は、渡辺香津美のギターがカットされたため、スタジオでシンセパートを付け足すという、バーチャルなライブアルバムとなる。彼等のライブはコンピューターとの共演というコンセプトであり、テープ等を使わないのが原則であったので、スタジオとライブではアレンジが大幅に変わっている。このアルバムでは「The End of ASIA」が良い。曲の展開に関係無く、淡々と叩くドラムというのがたまらない。

マルチプライズ テクノポップに対する期待から逸脱するためにミニアルバム「増殖」をリリース。ブラックなコントと、R&Bっぽいベースの曲。期待から外れたものを出したにも関わらず、このアルバムも売れてしまう。
 何をやっても売れてしまう(=的確に批評されない)状況を逆手にとって、これ以降彼等はどんどんマニアックな方向へ走ることになる。
「YMO(サード)」
BGM オリジナルアルバムとしては3枚めに当たる「BGM」(1981)は、ポップさを排除したアルバムとなった。最初に聴いた時の感想は「なんだこれ?」というのが正直な気持ち。気がつくと、一日中聴き続ける状態になる。1年ほど。このアルバムの魅力を端的に説明する言葉を持たない。あまりにも私の精神と密着しているから。何回聴いたか分からないのに、聴く度に新しい発見がある不思議なアルバム。
 凝りに凝って作った音色と、初期のデジタルレコーダーを使用したことが合わさって、二度と作れない音となっている。ちなみに、マスターテープを再生できる機械は、もう日本には存在しないそうだ。そういうわけで、このアルバムの曲はリミックスされることがない。

「YMO(フォース)」
テクノデリック ダークなアルバム「BGM」で調子に乗った彼等は続いて「テクノデリック」(1981)を発表する。この当時、細野氏と坂本氏の仲は最悪で、スタジオで顔を会わせば坂本氏が椅子を蹴りまくる状況となる。二枚のアルバムで細野+坂本コンビの組み合わせがないことからも推測される。
 サンプラー(自作!)が導入されたアルバムで、帯には「世界初サンプリングアルバム」と書いてある。フェアライトが高くて買えなかったため、松武氏が作ったらしい。バケツ、一斗缶、工事の杭打音、細野氏のいびき等がリズムとして使用されている。
 「BGM」と「テクノデリック」の時期はYMO中期と呼ばれ、この二枚のアルバムがYMOの最高傑作とされている。この頃は、高橋氏に最もパワーが満ちていた時期である。高橋氏が音楽を破壊し、残った瓦礫を細野氏が組み立てたのが「BGM」、坂本氏が組み立てたのが「テクノデリック」と言えよう。この後、急速に高橋氏はパワーを失い、それとともにYMOは散開への道を進む。

「YMO(フィフス)」
浮気な僕ら 散開(解散)することを決めた彼等は、シリアス路線を捨て、自らをアイドルとして売り出すことにする。「浮気なぼくら」(1983)。日本語の歌詞と(一見)明るい曲調で、ファンは一様に失望する。今聴きなおすと良い曲が揃っているんですけどね。

浮気な僕ら(インストゥルメンタル) 困ったアルファレコードはボーカルトラックをシンセに差し換えた「浮気なぼくら(インストゥルメンタル)」(1983)を発売する。誰も言わないけど、このシンセパートどう聴いてもメンバーが弾いているとは思えない。

「YMO(シックスス)」
サーヴィス 散開記念アルバム「サーヴィス」(1983)は7曲入のミニアルバム。曲間にS.E.Tのコントが入っているが笑えません。曲のレベルは高いがバンドとしての求心力は既に無い。

アフターサーヴィス 散開コンサートのライブアルバム「アフターサーヴィス」(1984)。高橋氏が元気ないので聴くのが辛い。ほとんどドラムを叩かないし、スネアの音がコンサート中1音色というのはYMOでは今まで無かったはずである。(ちなみにスネアはリンドラムとシモンズをミックスしたもの)。

「YMO(セヴンス)」
テクノドン 電通主催で再生したYMOは「テクノドン」(1993)を発表する。10年経っても高橋氏はパワーダウンしたままである。結果的に坂本主導アルバムとなる。徹底的にテンションを上げて上げて、決めるべき時にスッと引くという「引き芸」のアルバム。「テクノドンライブ」(1993)は音以上に画像が素晴らしい。可能ならばビデオを見ることをお勧めする。
 再生したYMOは再散開していない。だから未だにYMOは活動中のはずである。と信じている。


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