都会では、自殺する、若者が増えていると、テレビのニュースで言っていました。ああ、傘が無い。若者が七輪を使って集団自殺を図る事件が相次いでいる。練炭と七輪。何処に売っているんだろう。行かなくちゃ、七輪買いに行かなくちゃ。だけども僕には傘が無い。古い道具がインターネットの自殺サイトという現代的なガジェットと結びつくポストモダンな状況こそが我々の生きる現在というものであろうか。でも傘が無い。
七輪は、内部に七つの穴が空いているから七輪であるとか、木炭の代金7厘分で煮炊きできることから七輪と名づけられたとか言われています。七つ穴が空いているから七輪であるならば、普通、人の頭には七つの穴が空いていますから、全ての人は頭七輪と言えよう。ケンシロウは胸に七つの穴が空いているから胸七輪。おまえはもう死んでいる。珪藻土だし。
歴史的には七輪は江戸時代には既に使用されていたらしい。江戸城を建てたことで知られる大田道灌が、ある日 鷹狩にでかけた時のことである。雨に降られ、1軒の粗末な家を訪ね、蓑(みの=傘)を借りようとする。
すると家からは一人の少女が現れ、無言で七輪と鍋敷きを差し出した。
「食を求めるにあらず。」と道灌は怒って帰った。しかし、その七輪には意味があった。
当時、有名だった短歌「花は咲けども 七輪の みのひとつだに なきぞ鍋敷き」
「私の家には七輪と鍋敷きがありますが 貧しくて蓑(みの)一つさえもないのが悲しい」
あとで、これを知った道灌が、その後わが身を恥じ、和歌に傾倒していったことは有名である。和歌に疎いことが知れ渡った大田道灌は、この後乙女心を察することが出来ない大田鈍感と呼ばれるようになる。
現代においては自殺の道具という不幸な状況で注目を浴びている七輪ですが、以前はその利便性とルックスの素朴さから、庶民に愛され、そしていろんな映画に登場したものでした。
「掠奪された七輪の花嫁」(54)七輪を中心にウエディングドレス姿の娘たちが歌い踊るミュージカルの傑作。
「死霊の七輪」(71)死んだはずの七輪がゾンビとなって蘇る。もともと無生物である七輪がゾンビになるはずもないが、その馬鹿馬鹿しさ(特にゾンビとなった七輪がカンフーで暴れまわるシーンは抱腹絶倒)からカルト的人気を誇る。
「ドラゴンvs七輪の吸血鬼」(74)ある夜、何者かに襲われた七輪が夜な夜な血を求めてさまよい歩いたり龍になったりする馬鹿馬鹿しさからカルト的人気を誇る。
「暁の七輪」(76)ベトナム戦争末期、米軍将校がジャングルの奥地で早朝、煮炊きする映画。炭を入手するためだけにワルキューレの機甲が鳴り響く中、ジャンブルをナパーム弾で焼き払うシーンが有名でカルト的人気を誇る。
「宇宙の七輪」(80)宇宙空間では酸素が無いので七輪で煮炊き出来ませんでした。カルト的人気を誇る。
「地獄の七輪」(83)悪いことをしたので地獄に落ちて、火炎地獄の七輪の中で焼かれました。カルト的人気を誇る。
あと、紙面の都合でというか面倒くさくなってきたのでカルト的説明は省くが「黄金の七輪」(65)「続 黄金の七輪 レインボー作戦」(66)「新・黄金の七輪 7×7」(68)「黄金の七輪 6+1 エロチカ大作戦」(71)「男女七輪夏物語」(86)「七輪のおたく」(92)については各自で内容を想像し、その上でカルト的人気を誇ること。
七輪が登場する映画と言えばこれを忘れてはならない。「七輪の侍」(54)ご存知日本映画界の金字塔。ラストシーンの有名な台詞…(練炭を)買ったのは我々ではない、百姓たちだ…の台詞が心に響きます。
「荒野の七輪」(60)「七輪の侍」を西部劇に翻案した本作も傑作の呼び声が高い。窮地に追い込まれた主人公が七輪を掴んで投げ、火がついたまま飛び散る練炭のスローモーションシーンは映画史に残るとの評価。本作の大ヒットを受けて続編が多数製作されました。
「続・荒野の七輪」(66)西部の荒野でひたすら煮炊きする親父を描いた心温まる暑苦しい映画。
「荒野の七輪 真昼の決闘」(72)究極のメニュー(昼食編)昼ご飯として七輪の炭火で秋刀魚を焼くために、新聞記者が奔走する。
「新・荒野の七輪/馬上の決闘」(69)馬上でひたすら煮炊きする親父を描いた本作。熱さで馬が暴れまくり大変なことに。俳人の服部嵐雪は、この映画に感銘を受け、次の句を詠んだと言われています。
馬七輪 七輪ほどの暖かさ (嵐雪)
ああ、行かなくちゃ。七輪買いに行かなくちゃ。だけど…
かったのは我々ではない、百姓たちだ…