死刑制度に関する議論の是非を問う      

27. 死刑制度に関する議論の是非を問う 020316


死刑制度は冤罪の可能性があるかぎり、無謬の裁判が求められる。死刑について語る場合に問題となるのは、自らが被害者および加害者の立場でなく、傍観者の立場にあることである。真剣なる感情移入と死刑に関する知識が足りない状態で死刑についての論争に関わるということは、明らかに無駄な労を費やすことになりかねない。それを回避するために、まず当事者の立場に立ってじっくりと考える必要があろう。即ち、死刑に関する発言をする資格を得るためには、まず自分が試しに死刑に処せられてみるという制度はどうであろう。そういう人物の発言なら傾聴に値するのではないか。

この場合、死んだら発言できないではないかという、この論の些細な欠陥を指摘される可能性もある。完全無欠の論説というものはなかなか難しいとはいえ、ご指摘の点は、まことに正論である。そこで代替の説を提唱する。即ち、発想を逆転してスペインの異端宗教裁判官制度を導入すれば万事解決。「告白せよ!」「告白せよ!」「我々の武器は3つだ!」「恐怖!」「驚愕!」「残酷!」「狂信!」あ、4つだ。「殺人は死刑!」「強盗は死刑!」「放火は死刑!」「万引きは死刑!」「覚醒剤は死刑!」「駐車違反と公務執行妨害と婦人警官ひき逃げは死刑!」「駅の階段での盗撮は死刑!」「駅のホームで列に並ばない奴死刑!」「冤罪の判決を下した裁判官は死刑!」「タバコのポイ捨て死刑!」こうすれば人口爆発に対する様々な問題も一挙解決。万事丸く収まるというものではないか。「くだらない雑文サイト管理者は死刑!」あ、何をする。私を何処へ連れていくのだ。なんですかその薪の山と十字架は。どうして私を縛り付けるんですか。どうして薪に火をつけるんですか。あの、熱いんですけど。


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