春の小川      

18. 春の小川 020512


 近くの川の河原に遊びに行ったところメダカの群れを見つけた。子供の頃は九州だったせいかメダカというものを見たことがなかった。それともメダカがいなかったのは地元だけだったのかな。おたまじゃくしはよく見たのだけれど。メダカは群れを作って泳いでいた。メダカの学校は川の中である。群れの先頭は先生であろうか。みんなでお遊戯しているよ。見たところ群れはたくさんあって、群れの先頭の先生は入れ代わり立ち代わりみたいだから。先頭の中で100人の先生と生徒がお遊戯しているような感じであろうか。

メダカの学校は川の中
総統 除いてみてごらん

と歌われているくらいであるから、独裁制を排した民主政治なのであろう。

* メダカはクロメダカであった。ペットショップでよく売られているのは改良したヒメダカである。家で飼おうと思い、メダカをすくって水槽に入れてみた。しばらくして見に行くと一匹もいなくなっていた。どうやら金魚の餌になってしまったらしい。可哀相なことをした。

 春の小川を眺めながら、「春の小川」について考えてみた。冒頭からしてちょっとおかしいのではないか。

春の小川は さらさらいくよ

 川は普通行かないで、ただ水が流れるだけであると思うのだがどうだろう。川そのものがあちこち行ったり来たりしては周囲の住民が水浸しになって危険である。そういうことはありえない。つまりここで歌われている主題である川は、地形の川ではないことが示唆される。
 春は「春を売る」等の慣用句からもわかるように性の隠語である。フロイトによれば川(水で潤っているライン)は女性を象徴すると言われる。単なる川でなく小川であることから、成熟した女性ではなく、未成熟な女性であることを示していることに留意する必要がある。さらさらという単語は、洪水のように溢れているのではないことを示す。
 以上をまとめると、
「ロリータは、それほど盛り上がらないうちにイッタりする。」
という様子を赤裸々に描写していることがわかる。なんということだろう。メディア規制法案とかに抵触するのではないか。よく知らないけど。

* 春の小川の舞台は渋谷区代々木八幡 河骨川(こうぼねがわ/宇田川の支流)と言われている。大正元年(1912年) 『尋常小学唱歌(四)』においては
 春の小川は さらさら流る。となっている。「未成熟な女性は、成熟していないが故に流産しがちである」というさらに赤裸々な歌詞である。「初等料音楽(一)」(昭和17)では、一部修正され現在の歌詞となった。教育的配慮から変更されたのであろうか。あまり配慮が行き届いていないような気もする。


岸のすみれや れんげの花に

 岸(=土手)に自生している植物が描写されている。まだ未成熟であると思われた女性の川(女性性器を象徴する)のそばの土手に毛が生えている様子を描写していると思われる。

* れんげは稲刈りの終った田んぼによく植えられていたものである。れんげの根につく根粒菌が空気中の窒素を固定するため良い肥料となるからである。れんげを摘んで花環をよく作ったものである。だれにあげるというわけでもないのに。

すがたやさしく 色うつくしく

 未成熟な女性を賛美している。特に、色が綺麗であるらしい。どこの部分の色を指しているのかは、これまでの解釈で明らかであろう。とてもここでは書けない。

さけよ さけよと ささやきながら

酒よ! 酒よ! と浴びるように飲む。つまみの笹かまぼこを焼きながら。

 未成年が不純異性交遊の上、酒に溺れている様子を赤裸々に描いた悲痛な歌である。このような歌が文部省唱歌であるのは「いかがなものか!?」(by 鈴木宗男)と言わざるを得ないことに遺憾の意を示さざるを得ない。文部省に猛省を迫るものである。この歌に歌われている少女が更正することを願いつつ筆を置く次第である。

*原歌詞では、さけよさけよと ささやくごとく であった。ここでは七輪の五徳の上で笹かまぼこを焼いていることがわかる。現在では七輪は使われなくなったことから児童には理解しがたいという理由で歌詞が変更されたと思われる。なお、この一節は現在ではさいているねと ささやきながら と再度変更されている。命令形は相応しくないため変更されたとの説があるが、2番の遊べ遊べとささやきながら には依然として命令形が残っていることを考えるとこの理由は眉唾である。


飲めや歌えや雑文祭参加作品
縛り:
* テーマとして「サケ」の登場する歌を選ぶこと。
* タイトルはその歌の題名とすること。
* テキストの内容にその歌を絡めること。
* 頭の中で 100 人の○○が××しているような
* 決め台詞。


    一覧  トップ