森の奧の沼      

13. 森の奧の沼 020407


 少年の家が全焼したので祖父母の家に引っ越しすることになった。転校しなかったので、小学校5年生だった彼は遠距離通学することになる。遠距離と言ってもバスで1時間程度であったから通学自体はそんなに苦でもなかった。けれども家の近所には学校の友だちがいるわけでもなく、また内向的な性格もあって近所の同じ年頃の友人を新たに作るのもなかなかできなかった。
 ある日曜日、かれは公園で一人で遊ぶのも飽きたので近所を探検することにした。祖父母の家は山の中腹にあり、学校へ行く時には山を降りることになる。だから逆に山奥へ登ることにした。しばらく歩くと住宅地を一望に眺めることができる丘に出た。自分の家と公園を探してみたりした。もっと登るか、帰るか考える。鋪装されていない脇道を見つけてそちらに行ってみる。木のトンネルをくぐって行くと、中は真昼というのに薄暗くひんやりとしていた。途中に神社の石段らしき物があったが、見上げると相当な段数があるので登るのは止めにしておいた。なおも進むといきなり視界が開け、沼が見えた。沼の向こうに道が見えたが、回り込もうにも沼に入らないことには向こうには行けないのでしばらく景色を眺めていた。
 もう帰ろうかと後ろを振り返ると男が立っていた。
 男は少年のことが目に入らない風で沼の方を見ていた。右手に袋を持っている。少年は驚いたままじっと男をみていると、ふいに男が話し掛けてきた。
「坊やは何をしているのかな。」
「散歩。」
「そうか、散歩か。」
「おじさんは?」
「俺か? 俺は。」
 そう言うと、男は右手に持った袋を少し持ち上げた。
「これを沼に投げ入れに来た。」
そう言うと男はざぶざぶと沼に歩いて入り、水面が膝の深さのところまでくると袋を思いっきり遠くへ投げ捨てた。袋が沼に沈むまでしばらく眺め、男はこちらへ戻ってきた。
「じゃあな」
 男はそのまま帰っていった。少年は、あの袋の中身はなんだったのだろうと思いながら家に帰った。
 少年はしばらくしてまた、沼へ行ってみることにした。男がいた。男はやはり袋を右手に持ち、沼を眺めていた。
「何を見ているの?」
「見てわからないか? 沼だ。」
「どうしておじさんは沼を見ているの?」
「沼って何だろうか考えているのさ。」
「おじさん。その袋には何が入っているの?」
「死んだ猫さ。見たいか?」
そう言うと、男は袋の口を開け少年の方へ向けた。袋の中には真っ白な毛並みの猫がはいっていた。猫は眠っているようにも見えたが、男がそういうからには死んでいるのだろう。
「死んでるの?」
「死んでいる猫は死んでいる。」
「病気で死んだの? 寿命?」
「さあ、俺が見つけた時にはもう死んでいた。」
「どうして沼に投げるの? お墓に埋めてやればいいじゃない。」
「森の奧の底なし沼に死んだ猫を投げ入れるのさ。」
 そう言うと男は、以前見たのと同じようにざぶざぶと沼に歩いて入り、水面が膝の深さのところまでくると袋を思いっきり遠くへ投げ捨てた。袋が沼に沈むまでしばらく眺め、男はこちらへ戻ってきた。
「じゃあな。」男はそのまま立ち去ろうとした。
「おじさん、どうして森の奧の底なし沼に死んだ猫を投げ入れるの?」
「何度も何度も森の奧の底なし沼に死んだ猫を投げ入れることになっているからさ。」
 そうして男は歩いて行ってしまった。少年はその男のことはいつの間にか忘れてしまった。
 数十年経ち少年は大人になって、ふとその男のことを思い出す。そして何かを書くと言うことは森の奧の底なし沼に死んだ猫を何度も投げ入れることとよく似ているということに思いあたる。


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