ピアノ・リッスン      

12. ピアノ・リッスン 020403


 「弱くも強くも弾けるチェンバロ」という意味で命名されたピアノフォルテ(弱・強)は、いつの間にかフォルテが抜け落ち、弱いを意味するピアノという名前で定着した。名前に従い弱々しく演奏するべきではないかと主張する人がいないのがピアノ七不思議の一つである。残りの六つの不思議についてお知りになりたい方は「もしもピアノがイゲタなら?」や、「タワシはピアノ?」を参照されたい。

ピアノの音は、今でこそ心和む自然な音として認められているが、良く考えると鋼鉄の針金を何トンもの強さで引っ張って巨大な箱にセットし、複雑なカラクリ仕掛けを駆使してハンマーで叩くという自然界にはあり得ない不自然な音である。これはひとえに我々の耳がピアノの音に慣れてしまったためである。(もちろんピアノの数々の名曲のおかげでもある。)アナログシンセの音も、当初は人工的な血の通わない音とか言われたものであるが、10年もたつとアナログだから暖かいとか言い出すやからが出てくるようになったのと同じであろう。

残念なことに私は楽器が弾けないので、(かろうじてディジャリドゥは吹けるが、この話は長くなるので割愛する)楽器を弾ける人を無条件に尊敬する。真偽のほどは不明だが、家内は高校卒業するまでピアノをやっていたそうだ。卒業する時にピアノで生計をたてる道を選ぶか、医者になる道を選ぶかずいぶん悩んだとか抜かしている。どの口がそういうことを言うか。この口か。結局のところ彼女は薬剤師になる道を選んだのであるが(どういう選択なのだ)、その結果私と知り合う運命となり、大恋愛の末二人は結婚して彼女は専業主婦となりました。めでたしめでたし。家内は一生の不覚だったとか抜かしている。どの口がそういうことを言うか。この口か。

それはさておき、何故か私の前では決してピアノを弾いてくれないのでどのくらい上手いのか下手なのか全く不明なのが不満なのである。私の前では恥ずかしいとかいって決して弾こうとはしない。別にピアニストと結婚したつもりはないのでそれはそれで仕方ないのであるが。

家内は子供にピアノを習わせたいらしく、というか習わせているのであるが、子供の練習用に電子ピアノを買うことになった。いわゆる電子ピアノをいろいろ触ってみたのだがどれもこれも家内の気に入らない。家内に言わせるとどれもこれもキータッチが軽すぎて、ピアノの練習にならないということだそうである。贅沢を言うな。前線の学徒兵士は戦闘の合間に紙鍵盤で練習したのだぞ。贅沢は敵だ。どの口がそういうことを言うか。この口か。この口か。

という説得も空しく、鍵盤を押すとピアノと同じ仕組みでハンマーが振られるが、ピアノ線は無いという機構の電子ピアノを買わされてしまった。なるほどこれならキータッチはピアノと同様である。ボリュームを絞れば強く弾いても御近所様の迷惑にならないし、ヘッドフォンを接続すれば無音である。

ある日、私が昼寝しているとマンションのどこかから民族音楽が聞こえてきた。がっこんぐぐがこんがこがこ。リズムだけで構成された曲が延々と続いている。がっこんぐぐがこんがこがこぐぐぐぐ。あんまり長く続くので起きだしてみると、家内がヘッドフォンをつけてピアノを弾いているではないか。ぐごぐごぐごがこがこぐぐぐぐ。ヘッドフォンをつけているのでピアノの音は聞こえないが、ハンマーが動く音が響いて民族音楽のように聞こえていたのだ。がごごごぐごごががががごごご。結構大きな音がするものである。がぐがぐがぐぐぐぐががががぐ。しばらく彼女の後ろ姿を眺めながらハンマーの音を聞いていた。私の知らない彼女の後ろ姿。家内は弾き終ると、あ〜さっぱりした、あら見てたの、と言ってピアノの蓋をしめた。いいから音を出して弾いてみせてよとお願いしたが、やっぱり恥ずかしいからダメだそうだ。知り合ってからもう20年と言うのに、未だに彼女のピアノの音を聞いていない。あと20年くらいたったらもう一度お願いしてみるか。


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