兎と亀と私      

2. 兎と亀と私 010822


「うさぎとかめ」
作詞 石原和三郎
作曲 納所弁次郎

もしもし亀よ亀さんよ
世界のうちにお前ほど
あゆみののろい
ものはない
そうしてそんなに
のろい のか

なんとおっしゃる うさぎさん
そんなら おまえと かけくらべ
むこうの こやまの ふもとまで
どちらが さきに かけつくか

御存じ童謡「うさぎとかめ」の一節である。この歌は「才能に溺れるものは、努力する者に負ける(こともある)」と解釈されている。しかし、調査の結果、この歌にはおそるべき物語が隠蔽されていることが判明した。

冒頭の「もしもし」は一般には電話で会話をする場合の呼びかけでない場合は、見知らぬ人に対する呼びかけとして用いられる。即ち、うさぎとかめは初対面であることを強く示唆している。しかしその直後にいきなり「おまえ」よばわりである。すなわち、うさぎは実はかめのことを知っていたと思われる。この微妙な関係については、後程明らかになる。

その直後、「あゆみの のろいものはない」と発言しているが、これではカタツムリの立場が無いというものである。明白な事実(かめよりも歩みの鈍いものはある)に反してまでかめを挑発するうさぎの真意は何処のあたりにあるのであろうか。

さて、ここで呼びかけられているかめであるが、これは実は動物の亀を擬人化して呼びかけているのでは無い。それを指し示す単語がある。のろい=呪いである。すなわち、亀の甲羅を焼いてひび割れにより占う祈祷師のことを指しているのである。そしてこの祈祷師の名前こそ「亜由美」なのである。

決して歩みが鈍いわけではない、「亜由美」の「呪い」で市場がデフレスパイラルに陥り、日本経済が冷え込み、「物が無い」状況に陥ったとうさぎは告発しているのである。「歩み」でない証拠に、けんかをうられた亀は「かけくらべ」をしようと言い出す。歩きが遅いと言われたなら当然「競歩」で競争するはずである。すなわち、「駆け競べ」ではなく、そこまで私の「呪い」のせいとおっしゃるなら「呪いの掛け比べ」をしましょうと言っているのである。

さて、日本古来から伝わる亀甲占いを操る祈祷師に挑戦する「うさぎ」とは何者なのであろうか。うさぎとかめの逸話は原典をイソップ物語に求められる。紀元前6世紀前半のギリシャの奴隷「アイソポス」の作とされている。(イソップは英語読み)。1593年、室町時代末期にポルトガルから渡来したイエズス会宣教師用に製作された日本語学習用の読本「伊曾保物語」により、日本にうさぎとかめの物語はもたらされた。

日本古来から伝わる亀甲占いを駆使する祈祷師と対決するうさぎ。当然これはイエズス会宣教師であろう。日本古来から伝わる亀甲占いを駆使する祈祷師の存在を知った宣教師は、キリスト教の伝導に障害となると考え、彼をうちまかそうと決意する。冒頭の「もしもし」に象徴されている、二人の間の微妙な距離感=初対面を思わせるのに最初から敵意をむきだしにしているのは、こういう背景があったからなのだ。

宣教師の努力空しく、彼は呪いの掛けあいに破れ、呪いのため眠り込んでしまい、勝負に破れてしまう。この敗北をきっかけに、日本におけるキリスト教の勢力拡大に失敗することになろうとは、お釈迦様でも気がつくまい。いや、仏教は関係ないけれども。


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