楽しい二人暮らしのABC

三宅菊子
大和書房 1981.6.5

表紙 

それまでの、若い女性向けにあれこれ提案するというスタイルから雰囲気がだいぶ変わって、自伝的な一作。

女が仕事をするということ、仕事を続けて歳をとっていくということ、仕事と家事の関係について、夫との関係について、親との関係について、迷いもそのまま率直に語られています。

いちいち考えないといけないくらい、女性が外で働くのが難しい時代だったんだなと分かります。もしかしたら今もたいして変わってないのかもしれないけれども。

三宅さんは収入が変則的な夫(何年もかけて本を書く作家だから)との家計を支えるため、結婚後に初めて働き始めた人で、お嬢さんとしてのお金持ちの暮らしと自分で稼ぐ貧乏暮らしの両方の感覚があるところが魅力な気がします。仕事のために夫と別居したり、家事も家にいる夫がやったりと、当時の標準スタイルではなかったはずだけれども私は大変共感します。
専業主婦についての考え方にも共感する。これは大事な感覚だと思う。

(以下引用、主婦の果たす役割を金銭に評価せよ、という論について)

 家事労働を評価せよ論は、リブ的で、女の存在価値を高く認める思想のように思われてもいるらしいが−−−ほんとうは、これほど女をばかにする説はないと思う。
 食事を作るのは、大人なら、食べるということと同じに誰でもするし誰でもできる。息をすることのように、自然で、しかも不可欠だ。だんなさんが外で働き、奥さんは家にいるから、だから彼女が食事を作る。そんな当然のことをわざわざ評価してもらっても、嬉しくもなんともない。むしろ失礼だ。
 第一、その人は主婦である前に単なる”人”で、人の存在価値はお金を稼ぐかどうかで決められては困る。人と社会とのつながりも、お金の取引があるかないかできまるのではないと思う。お金をとらない、つまり仕事を持たない人間の、社会とのつき合い方だっていろいろある。お金を沢山稼いでいる人が偉いとは言えないし。
 けれど、お金をとるということは、個人対社会の取引である。妻が夫の食事を作るのは取引でも仕事でもないのだから、主婦の家事労働が社会的な意味を持たなくても当然だしだんなさんが日当をくれなくても当たり前だ。そして、だからといって、主婦は社会的に存在価値のない「かわいそうな存在」だということにはならないと思う。
 主婦業評価説は、何か意味のない評価を無理矢理にして、主婦にごまをすっている感じがする。お金をとらない人間は「かわいそう」とか「ダメ」という思想が根本にあるらしい。それで、お金をとっていない「かわいそう人間」に、ほんとうはお金をとってもいいほどのことをあなたはしているのですよ、などとウソを言っているのだ。
 遺産相続とか、離婚のときの財産分与とか、夫の財産に対して妻がどれくらい共有の権利を持っているかが問題になる場合−−−妻の内助の功だの協力によってそれを得た、という主張がされる。それは私もそう思うけれど、内助とか協力というのが家事労働の意味だとは思わない。
 一人の女の存在を、夫が評価する理由はごく個人的で内面的で、他人には理解も介入もできないことだ。そして一人の女の存在を、他人が評価する場合にも、単に職業だのお金によってではなく、その人の全人格や世の中とのいろいろな関わり方を見てもらいたい。主婦だというそれだけを評価の対象にも理由にもしてしまうのはずいぶんヘンだ。

もくじ
その1・シャツのボタンを2つはずせばキャリアウーマン?
その2・スーパーウーマンになんかなれない
その3・ケーキ作りと家庭作りにおける違いについて
その4・いつかやってくる母子の逆転

(2011/5/22更新)