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D&G(ドゥルーズ&ガタリ)研究会は,早稲田近辺で開催する読書会を活動の中心とした,てんでんばらばらの参加者による,自由気ままな集まりです。

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G. ドゥルーズ&F. ガタリ『千のプラトー』読書会

『千のプラトー』解題へ

13. BC7000年――捕獲装置: pp.514~

報告: 2005/11/10

どうも、大久保です。鍋物が食べたくなる季節になりましたね。

国家の形態の歴史を簡単に振り返ったあと,現在の政治が,公理系による資本主義の制御として分析されます。きわめてアクチュアルな範囲でもあると思います。というのも,興味深いことにD&Gによれば,社会民主主義の反対は,ネオ・リベラリズムではなく,全体主義であるらしいので(!),小泉政権の下,ネオ・リベ路線を一直線に進む日本に住む人間としては,関心をもたずにはいられないでしょう。

林さんの範囲では、国家の諸類型がもう一度概観されました(D&Gのいうところの「普遍史」)。さまざま議論が出ましたが、印象に残ったのは、まず、「主体化」のはじまりが歴史的にどこに位置付けられるのか、という問題です。よく知られているように、フーコーはカント的な主体の確立を近代の始まりと見なしました(『言葉と物――人文科学の考古学』)。D&Gは「服従するものであり主権者でもある<私=私>」の確立として「主体化」を捉えていますが、これはフーコーのいうカント的主体と明らかに対応しています。しかし、この「主体化」をD&Gはフーコーほどはっきりとは近代と結びつけていないようです(そもそも「近代」という言葉がほとんど出てこない)。今テクストを見直してみますと、まず、ローマのような普遍的な法の体制に「主体化」の萌芽を見出しながら(邦訳507頁)、最終的には資本主義の発生とともに「主体化」が完成すると見なしているようです(508頁)。資本主義と「主体化」のあいだにつながりを見るというのは、フーコーもリカードの経済的分析に近代の始まりを見ているので、この意味でフーコーとD&Gの影響関係を見ることは可能だと思います(このあたりについては『アンチ・オイディブス』読書会のときに詳しくレジュメや報告にまとめましたので、興味のある方はどうぞ。)。

また、現代の体制が、「主体化」によって服従するというかたちから、「機械的隷属」へと再び移っているという指摘については、後にドゥルーズがいう「管理社会」の概念とあわせて、議論がされました。このあたりはまさにアクチュアルな問題なので、もっと掘り下げると面白いでしょうね。

また、僕が担当した範囲では、資本主義を制御する一種のシステムとしての公理系が検討されました(「システム」という言葉は妥当ではないかもしれませんが)。しかし、多くの時間をマルクスの理論の紹介で費やしてしまい、あまり進むことができませんでした。ただ、読書会の席上で指摘したように、D&Gの解釈するマルクスにおいて、「利潤率の傾向的低下の法則」は非常に重要ですので、このあともぜひみなさん頭に留めておいてもらいたいと思います。

個人的に一番印象深かったのは、やはり、「社会民主主義」と「全体主義」の二極が対立するという指摘です。今の常識では「社会民主主義」の対立項は「ネオ・リベラリズム」なわけで、D&Gの理論を信頼するならば、「ネオ・リベラリズム」の行き着く先は「全体主義」だ、ということにもなります。「無政府-資本主義の最小国家」が「全体主義」であるならば、それはそのまま「ネオ・リベラリズム」の究極形であるといってもよいかもしれません。

人口がもはや「与件」ではなく「結果」となる「全体主義」国家とは(北朝鮮!)、ネオ・リベラリズムの方針の下を突き進むアメリカを思い起こさせます(カトリーナによる被害の人為的側面。保険の削減)。 ――大久保

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