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D&G(ドゥルーズ&ガタリ)研究会は,早稲田近辺で開催する読書会を活動の中心とした,てんでんばらばらの参加者による,自由気ままな集まりです。

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△ 総目次

G. ドゥルーズ&F. ガタリ『千のプラトー』読書会

1. 序 ―― リゾーム

『千のプラトー』解題へ

pp.28~:報告: 2003/02/27

参加者は,大久保,牲川,大田,四十宮,真鍋,蛭田,細木,太田でした。細木さんは新しい参加者の方で,昼間はサラリーマンをなさっているそうです。

私の担当箇所は,日本語訳で,p.28からp.39でした。議論はすべて下のレジュメの中に入れ込んでしまったので,そちらをご覧ください。

大田さんの不正確さ,非正確さの報告,読んで納得しまくりました。非正確さが,彼らの造語だったとは。 ――牲川

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議論――書誌情報

以前予告しましたように,読書会で話題にのぼった論文の書誌情報をお伝えします。参考になさってください。まず,ドゥルーズの論文を2本。

最初に,ドゥルーズの俗に最後の論文といわれるもの。

残念ながら僕もまだこの論文は読んでいません。ドゥルーズの哲学の核心が現れた論文として多くの人が言及するので,これを機会にそのうち手に入れておきたいと思います。

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次に,以前,少しだけ触れた,いわゆる「構造主義」論文。

フランス語の原文は,最近出たドゥルーズの論文集に入ったので手に入れやすくなったのですが,日本語訳は図書館にしかないと思います。さらに訳があまりよくありません。内容は『意味の論理学』の第8セリーから第11セリー辺りと重なるので,手っ取り早く理論を知りたい方はそちらを参照したほうがよいかもしれません。

原文は1967年という構造主義真っ盛りの頃に書かれていて,レヴィ=ストロースやラカン,アルチュセールを参照しながら構造主義における「構造」とはなにかということをコンパクトに分析しています。構造主義入門としてもすぐれてます(以前「重層決定」が話題になったとき,僕がドゥルーズの「重層決定」解釈として主に念頭においていたのはこの論文です)。

続いて,日本語で書かれたおそらく最も優れたドゥルーズ批判。

タイトルが刺激的ですが,内容はもっと刺激的です。精神分析の視点からドゥルーズの理論の問題点を抉り出しています。僕は樫村の批判は概ね妥当していると思っています。ドゥルーズをやっつけたい人は是非とも読むべきなのですが,いかんせんこの批判自体が難解で,読むのに結構てこずります。ほとんど病者のエクリチュールです。樫村は最近では『批評空間』に9.11に関連してエッセイを寄せていました(「ストア派とアリストテレス・連続性の時代」,『批評空間』,III-2,2002,批評空間)。このエッセイもかなりおもしろく,ネグり批判とも読めるものなので,興味のある方はご一読を。

あと,『千のプラトー』の提示する世界観をわかりやすく描いているエッセイがあるので,紹介します。

美術家岡崎乾二郎のエッセイです。もちろん「デモ」と「でも」を引っ掛けた題名なのですが,そんなダジャレはさておき,そこで提示されている哲学はドゥルーズ&ガタリの哲学と重なる部分が多いと思います(というよりはおそらく直接的に影響を受けている)。「器官なき身体」が,絵空事ではなく,つねにすでに私たちの生きる現実なのだというのが実感できます。ぜひご一読を。ちなみに僕もイラク攻撃には反対です(当たり前ですね)。

余談ですが,最近ドゥルーズの『フーコー』の中の一章「地層あるいは歴史的形成」を読んで,ようやくドゥルーズ&ガタリが言う「表現」と「内容」の具体的なイメージがつかめた気がします。『フーコー』のこの章については真鍋さんが前回発表のときに導入してくださったので,詳しくはそのうち配布されるであろうそのレジュメを参照していただきたいのですが,個人的には,たんに今回のプラトーを読むためにこの章が有益なだけでなく,自分にとってのフーコーとドゥルーズの「可能性の中心」までそこでは明瞭に示されていて,久々に読んでいて興奮してしまいました。真鍋さんと四十宮さんがお二人そろってこの『フーコー』を二冊持っていらっしゃるというのも,納得できました。

こんなところでしょうか。こんなもの書いてないでレジュメを作れ,という声が聞こえてきそうですが,現実逃避も,精神衛生上必要ですので。 ――大久保

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