2024/8/30

なぜ人類には宗教が必要なのか?
人類と宗教について考察したいと思います。
といっても仮説に基づく論考なので、ある種の問題提起とお考えください。
これを語るには「自己矛盾の法則」(仮説)が必要なので、この法則に
ついて述べます。
この法則の発見は00年代初期ですが、先ずはその経緯を説明します。
(中盤までは、過去におまりすノートに書いた事の要約となります。)

00年代の日本はまだバブル崩壊の後処理にあえいでいて、バブルの発端と
なった社会主義的なモデルに変わる、新たな社会モデルを考えてみよう
ということで、将来も持続可能な、要は大きく発展することはできませんが
と同時にバブル崩壊のような大きく破綻することのない、時流の変化に
適応できる社会モデルを作ってみようということで、進化し続ける生物の
生態系をそのモデルに組み込もうとしました。

その観点に立つと、大きな破綻のないアメリカ資本主義経済モデルは、
その生態系モデルに近いのではないかということで、資本主義を自己保存の
法則に対する思想、民主主義を種の保存の法則に対する思想といった具合に、
それぞれの法則を近似的に概念化することで、社会モデル(市場原理モデル)を
構築しようとしたわけです。

しかし、アメリカ社会を俯瞰してみたときに、これだけでは足りない
となったわけです。アメリカは移民社会なので多宗教国家と言えますが、
根本的な社会の枠組みとしての宗教的価値観を考えたときに、
キリスト教的な博愛主義や「自由と正義」といった理念が、幅広く
強固な形で社会の基盤にあります。

その結果、時として社会の表層に「天使(神)対悪魔」といった形で現れたり、
反する主義思想の国を敵国として見なすことで対立構造を体現させます。
アメリカの一大イベントとも言える、民主党対共和党の対立もそうです。
要は、XX vs XXという対立構造が社会に表出しやすいようになっています。
おそらく「自由と正義」という理念は、人々の活動や国家を維持するための
原動力につながっていますが、と同時に対立の喚起も起きてしまうのです。

なぜそうなるのか?はアメリカ国民ではないのでわかりませんが、おそらく
自由や正義といったものは定義が曖昧で、立場によってはズレが生じやすい
からなのだろうとは考えられます。

何れにせよ、この事象によってアメリカが経済大国であることはゆるぎない
事実です。なのでこれをどう思想化するべきなのか?となったわけです。
そこから考えられる思想というのは他の思想と同様に生態系に近いものに
違いないだろうということで、「自己矛盾」という概念を用いて生態系の
法則の一部として、モデルに組み込んでみたということになります。

なので当時、「自己矛盾」って何?ってなったときに、おぼろげな説明は
できましたが明瞭な解釈は出ませんでした。2010年代の半ばになって、
ようやくその概念を理解できるようになりましたが、量子コンピューターの
場合がそうであるように、「量子もつれ」の原理そのものはわからなくても、
事象としてコンピューターに応用可能なわけで(多分)、事象自体をモデルに
組み込むこと(応用する)はありかとは思います。(少し言い訳っぽい? 反省。)

このように、モデル構築中に突然現れた「自己矛盾」という概念ですが、
進化論を語る場合には、必要不可欠な要素であると今も思っています。
では、「自己矛盾の法則」とは何か?となるわけですが、自己保存や種の保存の
法則を否定するような性質が、生物の個体には存在するという法則です。

ざっくりとはですが、草木が地上では逆三角形であるとか、動物が長距離
移動をするといった、その生態系にリスクを生じさせるような性質を
生物の個体がもともと内包しているということです。
人間でいえば、負の感情(不安や不満など)が生じるといったことです。

確かに、個々の事例はそれぞれ別の解釈ができます。草木が逆三角形なのは
種子をより遠く飛ばすためだとか、動物が長距離移動するのは新たな食料の
獲得や気候の変化に適応するためといった具合に、自己保存や種の保存の
法則によっても説明できます。

しかし、人間の「死にたい」という感情を理解しようとした場合、自己保存や
種の保存の法則では説明できません。なので、この法則は人間の負の感情を
理解するために、より重要な法則なのだと言えます。
逆に、他の動植物において生命を脅かすリスクは自己内に存在しないのか?
という観点に立った場合に、前述したようにこの法則に沿った解釈(リスクを
生じさせている)もできるということです。

そして、この法則の最も重要な点は、リスクを内包させることで環境の変化を
捉えるアンテナの役割を果たすということです。
同じ植物でも、その形状が安定しているのか不安定なのかでは、例えば、
風が強くなるという環境変化では、明らかに不安定な形状の方が影響を
受けやすいからです。と同時に倒れやすいというリスクを生じさせています。
人間であれば、環境の変化によって不安や不満といった感情が生じます。
その感情を、新たな発想や技術革新によって変えていこういったことが
起きると考えられます。

進化論は自己保存の法則と種の保存の法則と自己矛盾の法則(仮説)の
三つの法則が、相互作用することで成り立つと考えています。
自己矛盾の法則が全ての生物に適用されるとするならば、生物は常に
寿命以外に生死のリスクを内包しているわけで、一方でそのリスクを軽減
するためのセーフティネットを築いているとも考えられます。
つまり、他の二つの法則との相互作用が生じるはずだということです。

逆三角形の草木であれば、倒れにくくするために根をより多く広げるとか、
長距離移動する動物であれば、群れをより大きくするとか隊形を最適化する
といったことになります。

では人間の場合はどうなのか?といったときに、新たな発想や技術革新などに
よってリスクを軽減しようとするわけですが、負の感情といっても多岐に
渡っていて、それらと他の様々な情動や思想も加わることで学問、芸術、音楽
などを生じさせる多様性にもつながっているのだろうと考えられます。

しかし、前述のように「死にたい」というような強烈な負の感情は
理屈を超えているので、当然、それを打ち消すためには、理屈を超えた
存在(概念)が必要ということなります。
その存在や概念が「宗教」だと考えています。未知の存在(概念)を想起する
ことで、人々は理解のできない負の感情を打ち消そうとするわけです。

逆に、宗教は「理解のできない負の感情が生まれなければ必要ない」と
言えますが、そもそも負の感情の深度(深い悩みや浅い悩みといった度合い)は、
多様性を必要とする進化論からすれば、全く無意味なのは明らかです。
ここでの「負の感情」という言葉も便宜的に使っているにすぎません。
あらゆる感情とその度合いは進化においては全く平等なはずです。
要は、幅があるのは当たり前ということです。

なので、人類の進化において「宗教」は大切な要素の一部ということになります。
宗教の必要性は、このように自己矛盾の法則を用いて論理的に求めることが
可能です。宗教の信者が進化論を否定することがあるようですが、全くの
誤りなのではないかと思います。
(当然ですが、この仮説が体系化される必要はあります。実証が難しいので
期待は薄いのかもとは思います。)



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追記としてですが、社会モデル(市場原理モデル)の変更をします。

2024年改訂版(基本はほぼ変わりません)

1,競争思想 競争を肯定する思想(競争は必要であるといった考え)
2,大衆(市民)思想 最大公約数的な人々のあり方を肯定する思想
        (普通が重要といった考え)
3,自然思想 自然は恵みと同時に脅威の対象であるといった思想

これまでこの3つの思想の中心は「歴史」としていましたが、
「宗教(宗教観)」に変更します。

(汎用性の高さから言えばこちらなんですが、これはこれで
グローバルという点では、対立が起きそうではあります。
「宗教(宗教観)」(仮)にしておいたほうがいいのかもしれません。
要は、強固な結びつきというよりは緩やかな結びつきですかね。)

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では、このモデルから読み取れることは何か?ということですが、
日本の神道由来の宗教観を考えると、自然主義や大衆主義とは
親和性が強く、相対的に競争主義が弱いということがわかります。
文化面では優勢であっても、経済面がイマイチということです。
確かに、実際の日本の現状を見れば明らかです。

進化のためにはバランスが必要です。
社会を持続可能なものにするためには、アメリカの対立煽りほど
ではないですが、緩やかに競争を肯定していくことは必要です。
市場主義社会ですから、競争をどのようにバランスよく社会に
取り入れていくのかは、様々な人々が、各々の立場から議論して
いくことが重要です。

また、学歴主義者と普通の人ではどちらが発想が豊かでしょうか?
モデルから考察すると、学歴主義の方は競争主義には近しいですが
大衆主義とは合いません(むしろマイナス)。
つまり、普通の人の方がバランスが良い分、相対的には発想力が
豊かであるという結論になります。

意外と思われるかもしれませんが、実際、文化面においては普通の人
の方がユニークな発想をします。それは高いレベルの学術系に
おいても専門知識は必要ですが、同じことが言えると思っています。
(なお、IQの高さはどうでしょうか。競争主義に近い感じはしますが。
やはりバランスでしょうか。)

様々な職種の方は必要ですから、学歴主義者を否定するつもりは
ありません。普通の人は、間違いや勘違いが多いということもあります。
このモデルからは、先述のようなことが推測されるという話です。
ですが、それこそがこのモデルの最も重要な点ではあるとは言えます。

何れにせよ、個々人が時間をかけてでもまた緩やかであっても
変革していくという意識を持ち続けることは必要だと思います。

(個人的には、例えば、権威主義の象徴とも言える「東京一極集中」の
問題に関しては、天皇には京都あたりにお戻りいただいて、その方面を
「上り」にすることが重要なのかもしれないと思ったりします。
なお、これは三つの主義をみたします。)








2024/8/8

なぜ日本人は英語が苦手なのか?
近年、様々な理由が言われて、それらは概ね納得ができる説明が
なされてますが、後述のような意見をなぜか見かけないので、
提言したいと思います。これは、あくまで日本社会全体のもっとも
基礎的な部分に対する意見であり、また私自身は言語学者というわけでは
ないので、個人的に実生活で感じたことだとご理解ください。

結論から言えば、幼児期の日本語教育によるものだと思っています。
例えば、私たちが幼児期に教わる「お父さん」「お母さん」に対する
英単語は「father」や「mother」ではありません。
「父」 「母」なら「father」「mother」です。

同様に「お日さま」「お月さま」「お星さま」と言った時に、
それは「sun」でも「moon」でも「star」でもありません。
「太陽」「月」「星」と言った時は、「sun」「moon」「star」と言えます。

つまり、私たちが幼児期に教わる言葉は、単なる単語ではなく
日本独自の言葉だという事です。
私たちは幼少期から「水」を「お水」、「茶」を「お茶」、「昼寝」を「お昼寝」、
「魚」を「お魚」、「客」を「お客さん」とか「お客さま」と教わります。

私の子供が幼児のときに買った、「四歳児のための図鑑」(講談社)には
すでに「お客さま」という言葉がありました。もうこの時点で、
「お客さま」という概念の刷り込みが子供にできてしまっているのです。

なので日本人の幼児期はとても大変です。あらゆるものに「お」や
「さん、さま」が、くっついてくるわけです。
おじいさん おばあさん お肉屋さん お巡りさん お兄さん お姉さん
お手々 お目々 おなか おへそ 雷様 お医者様 お寺様 等々
きりがありませんが、とにかくとても面倒です。このように単語に
宗教的な概念が付随した言葉を、物心がつく前後に教えられるわけです。

三つ子の魂百までというように、これらの宗教的な概念を纏った言葉は
そのまま心に残り続けます。なぜなら大人になっても、これらの言葉を
日常生活で、なんの違和感もなく使っているからです。
また、子供に物事を教える際は、このような言葉で語りかけることで、
その言葉の循環(伝承と反復)が起こります。

つまり世代を超えて日本の社会全体に、これらの言葉が浸透しているわけです。
文語ではほぼありませんが、口語による普段の日常会話においては、
この傾向が顕著です。
本来、会話というのは意思や事象の伝達が主目的なので、余計な概念を纏わない
英会話のようなものこそが合理的な伝達手段なのです。

しかし、私たちは幼児期から宗教的な概念を纏った非合理的な言葉を用いて
会話を行なっているために、英会話などは逆にどこか味気なく感じてしまいます。
これはSNSのメッセージに、わざわざ絵文字を加えてしまうことにも通じるの
ではないかと思います。

おそらくこれらのことから苦手意識というより、無意識に拒絶してしまっている
のかもしれないとさえ思ってしまいます。
なので、「英語が苦手」というのは実は日本人にとっては、とても根が深い問題
なのだと感じます。

では、なぜこのような幼児期の日本語教育が何世代にもわたって
行なわれてきたのか?ということでしょう。

江戸時代以前の庶民の幼児教育や、江戸時代以降の例えば寺子屋などで
どのような道徳教育や情操教育が行われていたかはわかりませんが、
近年でいえば開国以降、広く一般市民にも画一的な教育が必要とされたときに、
幼児教育の指針も求められたはずです。
その結果、このような言葉による幼児期からの教育という形で体系化された
のだと思いますが、それが受け入れられて今日まで継承されたいうことは、
社会においてそれなりの有用性があったからだということでしょう。

では、どのような有用性があったのか?となります。
日本の宗教は、ざっくりとですが長い歴史の中で、八百万の神を信奉する
神道が社会の土台にあり、その後に仏教が広く根付き、のちに儒教が
取り込まれたという経緯があります。

一例として、今はあまり使われませんが「お天道さま」という言葉があります。
「お ~ さま」は儒教の教義で、「天道」は仏教の概念です。
この複合体である「お天道さま」という言葉は、太陽を「畏怖した存在」として
表すことで、神道の概念に基づくものになっています。
つまり、これは三つの異なる宗教的価値観が織り込まれた言葉なのだと
個人的には思っています。
そして「お天道さま」の幼児語が「お日さま」です。

また、よく使う言葉に「お茶」があります。「お茶」を「茶」という
日本人はほとんどいません。人は常に水分を補給しなければならないし、
食事の際には有用であり、かつ効用もあります。
つまりこれらの感謝の意を込めて、日本人にとっては「お茶」なんです。
「お米」、「ご飯」、「お風呂」も同様だと思います。
(コメ、メシ、フロは、たまに使いますが。)

重要なのは、これらの言葉を幼児教育として学び、大人になっても日頃から
会話で発しているということです。
単語に「お」をつけたり、人と接する際や場合によっては「さん」や「様」を
つけたり、 敬語の使い分け等、日本の日常会話というのは本当に面倒な事
この上ないわけですが、このような日常生活を俯瞰してみると、極端な話、
日本人は毎日お経をあげながら生活しているようなものなのです。

なので日本人の多くは無宗教などというのはとんでもない誤りです。
この非合理にみえる日常会話のおかげで、決まった時間にお経を読む
必要もないし、あるいはわざわざミサに出かける必要もないのです。
身軽な方法(口語)で、日本人は宗教的価値観を携帯しているわけです。

震災後に、被災者が我先にと配給物資に群がることなく整然と並ぶのも、
結局は「お互いさま」という宗教的な価値観に集約されているからであって、
日頃の会話を通して、そのような意識が醸成されているのだろうと考えます。
あるいはゴミを散らかしたままにしない、身の回りを小綺麗にする、
落とし物をちゃんと届ける等、常に宗教的な価値観のなかで生活しているからです。

このような言葉による日本語教育は、近代化以降の専制的政治下における
「洗脳」に基づくものか?という思いが生じるかもしれません。
本人の意思に関係なく教え込まれるわけですから当然です。

どのような経緯を経て幼児教育として体系化されたのかはわかりませんが、
そもそも、国にであれ民族であれ、幼児になんら教育を施さずそのまま
育てるなんてところはないはずです。道徳心や公共心がなければ、
共同体を維持することはできません。

もう少し深掘りすると、江戸期に人々の識字率が高かったことを考えると、
その頃には、現在につながる幼児教育の土台のようなものはすでに
庶民の間で出来上がっていて、近代化以降の政府はそれに儒教の教義を
加味(敬語等)して体系化したに過ぎないのかもしれません。
(個人的な想像です。)

つまり、古来日本社会に浸透していた宗教の歴史的背景をうまく利用し
幼児教育として体系化することで、人々に違和感なく受け入れられ、
その社会的な有用性が認められることによって、今日まで継承されてきた
のだろうと言えます。

日本人の話し言葉は非合理的にも関わらず、社会全体にはとても合理的かつ
有用に機能しているということです。
和を重視する日本らしいシステムだとは言えます。

一方で、社会のグローバル化やインバウンドによって、英語の重要性というのは
ますます重要であるのも事実です。
では、仮にこのような幼児語教育を廃止したらどうなるのか?ということです。
英語は普通に浸透すると思いますが、これまでの経緯からすると当然
なんらかの新たな明文化された宗教が必要となってくるはずです。
その場合、神社仏閣からお地蔵さんまで邪教としての対象となるかもしれません。

あるいは、これまで浸透してきた宗教的な価値観を基にした新興宗教が
あちこちに乱立することも考えられます。というのも神道、仏教、儒教、土着信仰、
キリスト教等、と言った具合に古来、日本の宗教観はとても混濁しているからです。
ともあれ、色々な宗教的な確執が起きそうです。

つまり、あまりにも長い歴史によって根付いてきた、これらのもの全てを
無かったことにするのは不可能ということです。
結局、この問い自体は無意味ということになります。
しかし、それこそが日本の国際化における、日本独特のジレンマということです。
これまで述べてきたように英語が苦手という問題は、日本人が思う以上に
深刻だと思います。(個人的にはAIに期待したいところです。)

余談ですが、企業や自治体等で、組織内では英会話のみにするような活動が
あるようです。
グローバル化ということでそういう取り組みを否定するつもりはありませんが、
日本語による日常会話に、このような宗教的価値観が紐づいている事を
十分理解しているのなら問題ないとは思いますが、そうではないのなら、
これまでのような道徳的、宗教的な価値観が失われることは明らかですし、
組織内や個人内に、周囲との矛盾による軋轢が発生することは十分考えられます。

どのような教義の信者であっても、四六時中教義のことを考えて生活している
わけではないので、日本人であっても多少の生活での英会話でのやり取りは
全く問題ないとは思います。

また、インバウンドによる外国人観光客の方々には、なぜ日本人が英語が
苦手なのかを、理解していただきたいとは思っています。
むしろ、日本語の日常会話における歴史的な宗教的価値観という伝統文化を、
体感してもらえたらとさえ思います。
日本の伝統文化は、神社仏閣だけではないということです。






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