コーカサス山脈の南側に位置するジョージア、アルメニア及びアゼルバイジャンの3ヵ国は、モスクワ在勤時代に訪れてみたいと思いながら果たせなかった魅力を感じる国々です。それだけに、2020年9月に起こったアルメニアとアゼルバイジャンとの間の軍事衝突にショックを受けるとともに、戦争勃発の原因(ナゴルノカラバフ問題)について理解したいと思い、それ以来、関連情報をファイルしてきました。本年(2023年)9月19日にアゼルバイジャンがナゴルノカラバフ(以下「NK」)を全面支配する軍事行動を決行したことで大勢が決した感があります。この機会にNK問題の歴史的経緯特に国際的含意について理解を深めてようと思い立ち、溜めてきたファイルを読み返す作業に取りかかったのですが、問題の複雑さに圧倒されました。これだけ複雑な背景・経緯を持つ国際問題はなかなかお目にかかれるものではありません。ソ連邦解体による後遺症は多岐にわたりますが、NK問題はその最たるものの一つと位置づけることができると思います。
 以下ではまず、NK問題の歴史的経緯を整理します。具体的には、①2020年9月のアルメニアとアゼルバイジャンの軍事衝突以前の歴史的経緯、②2020年の軍事衝突及びその終結を導いたロシア・プーチン政権の仲介努力及び3国の合意内容、③その合意内容が実行されないことに業を煮やしたアゼルバイジャンの実力行使(2023年9月)、ということになります。次に、今日、米西側はアルメニアの立場・主張を全面的に支持し、問題の平和的政治的解決に尽力してきたロシアに揺さぶりをかけようとしていますが、米西側がテコ入れする動機は不純であることを検証します。最後に、アルメニア・パシニャン政権はロシア・プーチン政権との対決姿勢を強め、米西側との関係強化の意図を鮮明にしており、ロシア国内にはパシニャンを「第二のゼレンスキー」と決めつける論調も現れていますが、ウクライナ問題とアルメニア問題をひとくくりするのは無理があることを確認したいと思います。
 しかし、NK問題の歴史的経緯を整理するだけでもかなりの長文になってしまいました。したがって、米西側のNK問題への介入及びウクライナ問題とアルメニア問題の比較については次回コラムで紹介することにし、今回はNK問題の歴史的経緯について紹介することにします。

1.2020年9月までの歴史的経緯

caucasus

<問題の背景>

 上掲地図から分かるとおり、アルメニア人が住民の大多数を占めるNKはアゼルバイジャンの中のいわば「飛び地」です。他方、アゼルバイジャンの領土もアルメニアによって二分され、「飛び地」(ナヒチェヴァン自治共和国)を抱えている状態です。1919年から1920年にかけてソ連が南コーカサスを版図に収めた際、NKはアゼルバイジャンの一部とされました。両国がソ連邦の一部を構成していた時代には民族意識が表面化することもなく、両民族は平和的に共存していたとされます。しかし、ゴルバチョフ政権のグラスノスチ及びペレストロイカ政策の下、ソ連各地で民族的・宗教的自己主張の動きが強まる中、1988年2月にNK当局はアゼルバイジャンの支配を拒否し、アルメニアと統一することを決定しました。しかし、ソ連中央政府はこの決定を承認せず、同地を中央直轄の下に置く決定を行いました。

<1992年-1994年戦争とロシア仲介の休戦>

 1991年のソ連邦崩壊及びアルメニアとアゼルバイジャンの独立(ともに1991年)後、アルメニア軍は1992年から1994年にかけてアゼルバイジャン領に侵入し、NKのみならず隣接するアゼルバイジャンの7地域をも占領し、NKの「飛び地」的状況を解消しました。装備に劣ったアゼルバイジャンは苦戦を強いられました。他方、独立したアルメニアとアゼルバイジャンが1992年に欧州安全保障協力会議(CSCE.1995年に欧州安全保障協力機構(OSCE)に改称)に加盟したことに伴い、CSCEがNK問題を管轄することになり、同年2月28日、停戦、人道的回廊の設置、紛争地域への武器提供禁止等を内容とする決定を採択します。しかし、この決定はアルメニア及びアゼルバイジャンによって履行されませんでした。
 国連安全保障理事会もNK 問題に関して1993年に4つの決議(822、853、874、884)を採択しています。これらの決議で留意するべきは、10月14日の決議874の前文及び11月12日の決議874第2項において「アゼルバイジャン共和国のNK地域」と明記しており、NKがアゼルバイジャンの領土であるとする国連安保理の認識・立場を明らかにしていることです。
 アルメニアとアゼルバイジャンの軍事衝突自体は、ロシアの仲介による1994年5月の休戦協定(署名日はアゼルバイジャンが9日、アルメニアが10日、ナガルノカラバフ当局が11日という変則的形。想像するに、アルメニアとしてはアゼルバイジャンが署名するのを見極めた上で署名したと思われます。)で一段落します。しかし、この休戦協定はアゼルバイジャンにとって極めて屈辱的なものでした。すなわち休戦協定は、アルメニアが軍事行動で獲得した成果(ナゴルノカラバフ及びアゼルバイジャンの7地域に対する支配)をそのままにするもので、軍事能力に劣っていたアゼルバイジャンとしてはこの屈辱を受け入れざるを得ませんでした。アルメニアの占領地域は国際的に認められたアゼルバイジャンの領土の20%を占め、80万のアゼルバイジャン人が民族浄化され、20万人が難民化したとも言われています。アゼルバイジャンがその屈辱に甘んじるつもりはなく、臥薪嘗胆、他日を期しての一時的妥協でした。
 なお、アルメニアがNKを併合せず名目的に独立国の地位を維持させたのは、1992年から94年にかけての軍事行動が侵略であるという批判をかわすためのものだった、つまり、アルメニアとしては民族自決・独立を主張するNKを支持するための軍事行動だと主張して、軍事行動を正当化するためだったと指摘されています。MGは自らをアルツァフ共和国(the Republic of Artsakh)と名乗っていました(ただし、国際的に承認されることはありませんでした)。

<2020年戦争に至る経緯>

 1994年12月5日に開催されたCSCEブダペスト首脳会議(OSCEへの改称とその機構・機能強化を決定)はNK問題に関してミンスク・グループ(以下「MG」)の設置を決定しました。そして、1995年1月から、MGの枠組みの下でアルメニア、アゼルバイジャン及びNK三者間の交渉が開始されました。しかし、1997年初に交渉は決裂します。
 これを受けてMGは1997年、ロシア、フランス及びアメリカによる三者共同議長制度を設置しました。共同議長国は同年11月29日のOSCE閣僚理事会に「NG紛争平和的解決のための基本原則」(以下「基本原則」)を提起します。基本原則として示されたのは、①NKの最終的法的地位はNK人民による国民投票によって決定、②過渡期間中のNKに対する自治権保障、③アルメニアが支配するすべてのアゼルバイジャン領土の返還、④NKとアルメニアを結ぶ回廊確保、⑤避難民の原住所への帰還、⑥アルメニア軍の移動モニターのための国際平和維持部隊の展開、⑦オープンな交通運輸・通信、などでした。
 しかしMG主導の交渉は、アルメニアが基本原則を無視したために進展しませんでした。アゼルバイジャンは辛抱強く交渉に臨む一方、トルコ及びイスラエルの支援・協力を受けて軍事力を強化し、それを背景に、平和交渉が行き詰まった場合の最後の手段として武力行使に訴えることをアルメニアに対して警告するまでになりました。基本原則に基づくアルメニアとアゼルバイジャンの交渉が一向に進展しなかった基本的原因はアルメニアにあるという批判は、当時、国際的に広く共有されていたようです。こういう歴史的背景を考える時、近年、ロシアと対立が深まるアルメニアに一方的にテコ入れする立場からNK問題を処理しようとする米西側の動きはバランスを欠くものであり、何ごとも「ロシアたたき」の材料にしようとする「動機不純」の匂いを感じざるを得ません。この点については次回のコラムで。
 カナダ国際問題研究所のフェローであるロバート・カトラーは、NK問題が迷走する主たる原因はアルメニア側(特にパシニャン首相の前後矛盾する言動)にあることを指摘する文章「NKでアルメニアに優位に立つアゼルバイジャン」(原題:"Without Russian Aid to Armenia, Azerbaijan Has the Upper Hand in Nagorno-Karabakh" 2020年10月9日付け『フォリン・ポリシー』WS所掲)を発表しています。カナダは今やすっかり米西側の一員として行動する存在に成り下がっていますが、こういう文章を発表する研究者がいることには救いを感じます。
 カトラーは、2018年5月にカラー革命まがいの事態の中で行われた議会選挙を経て首相となったパシニャンは当初、アゼルバイジャンに対して融和的で、基本原則中のアルメニアにとってやっかいな問題についても弾力的に交渉に臨む姿勢を示したと指摘した上で、選挙期間中の公約を実現できなかったパシニャンは、政治的な生き残りのためにナショナリズムに訴えるようになり、それがまた国内のポピュリズム及びミリタリズムを強めることとなって、NK問題でアゼルバイジャンに対して強硬な立場を取るようになるのみならず、キリスト教のアルメニアとイスラムのアゼルバイジャンの対立を「文明の衝突」と描き出し、アゼルバイジャンを支援するトルコに対しても、法的根拠のない領土的要求をするまでになってしまった、と指摘しています。
 さらにパシニャンの言動はエスカレートしました。カトラーによれば、汎アルメニア競技会が行われていた2018年8月5日に、パシニャンは「NKはアルメニアである。それがすべてだ」と爆弾発言を行いました。すでに紹介したように、国連安保理決議がNKはアゼルバイジャンの一部であると指摘していることに示されるとおり、NKは国際的にはアゼルバイジャン領であることが承認されています。またこれもすでに紹介したように、アルメニア自身もこれまでは、アゼルバイジャンに対する軍事行動を正当化するため、NKの独立という「イチジクの葉」を必要としてきたという事情があります。さらに、基本原則も、NKの最終的帰属はNKにおける住民投票によって決定されるとしています。パシニャンの上記発言は、彼の政治感覚を疑わせるに十分なものでした。
 ちなみにカトラーはまた、パシニャンは「プーチン問題」にもぶつかることとなったと指摘しています。すなわち、カトラーは、パシニャンが前大統領コチャリャン(Robert Kocharyan)と前首相サルグシャン(Serzh Sargsyan)を「アルメニア憲法秩序転覆」及び横領を罪状として訴追したこと、その背景にはコチャリャンの後継者に指名されていたサルグシャンが、不正選挙の疑いに関するパシニャンの抗議活動に関連して、2009年にパシニャンを投獄した経緯があること、サルグシャンとコチャリャンはNK出身であり、1990年代からアルメニア政治を支配してきたこと、そして両者はプーチンと個人的に親しい関係にあったこと、野党時代のパシニャンがアルメニアのロシア依存及びロシアがアルメニアの国際的孤立を利用してアルメニアを支配してきたことを批判していたことなどの過去があることなどを挙げて、プーチンはパシニャンに対して好意的ではない(ロシアのメディアも同じ)、と分析しています。
 これから紹介する事実関係に鑑みれば、カトラーの「プーチン問題」にかかわる指摘は的外れです。プーチンとパシニャンの個人的関係はともかく、プーチンがNK問題仲介に当たって取った態度・アプローチは厳正中立を旨とし、アゼルバイジャンとアルメニア双方にとって納得できる着地点を導き、それによって両国関係、ひいては南コーカサス全体の平和と安定を実現しようとするものです。ウクライナ戦争を抱えるプーチン・ロシアにとって、南コーカサスにおける「火種」を解消することが至上命題であることは十分理解できることです。

2.プーチン政権の仲介努力と3国合意

<44日戦争>

 1994年に屈辱的敗戦を余儀なくされたアゼルバイジャンはその後、石油収入による豊富な財源、民族・言語・宗教・文化的に極めて近いトルコの強力な支持のもと、また、イスラエルからの武器調達も通じて、軍事力を増強してきました。2019年に双方の激しい非難の応酬が続いたことを背景に、2020年夏に国境沿いで小競り合いが起こり、また、コロナによる経済的低迷も背景事情として働いて、9月27日の本格的武力衝突につながったと説明されています。戦争はわずか44日間でアルメニアの敗北で終わりました。
 アルメニア及びアゼルバイジャンが速やかにロシアの停戦仲介を受け入れた要因に関しては、2020年10月21日付けの中国国防報が掲載した李瑞景及び王毅(浅井:中国外交部長とは別人)署名文章「NK武装衝突の回顧と啓示:作戦様式の深刻な変化がもたらした耐えきれない戦場消耗」(原題:"作战样式发生深刻变化,战场消耗成为"不可承受之重"——新一轮纳卡武装冲突回顾与启示")は、軍事強国とは言えないアルメニア及びアゼルバイジャンの双方が長期戦を戦う能力がないことに一番の原因があると指摘しています。この文章は、ドローンの兵器としての効用を分析する一方、伝統的な地上部隊が果たした役割にも言及した上で、両国が高度な消耗戦に耐えきれずに速やかな停戦に応じざるを得なかったと分析しています。本論から若干脱線する内容を多々含みますが、興味深い内容なので、大要を紹介します。
 シリア、リビア、イエメンにおける戦争さらには世界規模の反テロ軍事作戦において、ドローンは早くから戦場に投入される「常連」になってはいたが、今回のNK軍事衝突におけるドローンの振る舞いは正に「出色」だった。アゼルバイジャンは、トルコから購入したTB-2型偵察及び攻撃一体ドローンにMAM-L小型レーザーセミアクティブ誘導空対地爆弾を携帯させ、アルメニアの地上装甲部隊に対して精密打撃を加え、その結果、戦争後期になると、アルメニア軍は装甲部隊の投入をためらわざるを得なくなった。また、アゼルバイジャン軍のTB-2ドローンは、イスラエルから購入した「ハーピー」-2対レーダー・ドローンとの組み合わせにより、アルメニアの10以上の対空システム(S-300対空システム及び「Repellent-1」対ドローン電子戦システムを含む)を破壊することに成功し、驚くべき防御突破能力を示した。さらにアゼルバイジャン軍のドローンはNKに陣取ったアルメニア軍の補給線に対しても縦深空襲を行い、糧食及び弾薬の不足に陥ったアルメニア軍の一部は陣地放棄を迫られた。
 このようなドローンの活躍は、伝統的な制空権作戦理論に対する再考を迫るものである。制空権に関する伝統的考え方によれば、パイロットが操縦する戦闘機によって一定時間、戦場空域に対する支配権を握るとされている。しかし、ジェット機は低空空域に対して長時間にわたって支配を及ぼす上で最適とは言えず、また、低空で攻撃することに優れた攻撃ヘリは地上からの反撃に対してますます脆弱となっている。今回、アゼルバイジャン軍はドローンだけで戦場の制空権を掌握した。
 具体的には、ドローンには低コストにしてバッテリー寿命が長いという特徴があり、戦時においては、ローテーション展開を通じて対象空域のフルタイム監視を実現できる。しかも、目標を発見すれば直ちに攻撃破壊を実行できるわけで、その結果、空対地制圧作戦の難度とコストを大幅に引き下げることができる。同様に、ドローン装備の地上部隊も低空制空権能力を獲得できるわけで、その結果、空軍による空中支援に対する依存度を大幅に減らすことができる。
 このようにアゼルバイジャン軍は制空権を支配し、アルメニア軍に重大な打撃を与えたが、地上部隊の動きは緩慢で、最終的な占領地域面積は当初の見積もりを大幅に下回った。アルメニア軍は巨大な空中からの脅威に直面したものの、「地の利」を生かし、地雷戦、待ち伏せ戦、包囲戦闘等を臨機応変に活用することで、アゼルバイジャン軍に大きな打撃を与え、撤退を余儀なくさせた。その結果、アゼルバイジャン軍は空中での優位性を地上部隊による領土支配につなげることができなかった。
 今回の衝突に際して、両国ともに総力戦で臨む姿勢だった。しかし、戦場における消耗度の高さは双方にとって大きな圧力となってのしかかった。一年の軍事費が20億ドルのアゼルバイジャン軍、5億ドルのアルメニア軍にとっては、このような消耗戦はとても耐えきれるものではなかった。アルメニアは第二次大戦中の大砲を引っ張り出して戦うことを余儀なくされたし、アゼルバイジャンも巨大な圧力に直面した。高い消耗戦が双方をして迅速な停戦を促したといっても過言ではない。
 ちなみにパシニャンは、敗北について自らの責任を認めつつも、フェイスブックで次のように発言して、野党側が要求する辞任を突っぱねています。すなわち彼は、「戦争を回避することはできたか。もし、NK周囲の(アゼルバイジャンの領土である)5つの地域を放棄することに応じる用意があったならば、答えはイエスだろう。しかし、そうした場合、NKの地位もどうなっていたか分からない。私があなたたちに、NK周囲の土地を諦めるべきかどうか聞いていたとした場合、あなたたちはどう答えただろうか。私も含めて、この問いかけに同意する者はいなかっただろう。」と居直ったのです。「政治は結果責任」ですが、パシニャンはこういう理屈で言い逃れをしたわけです。

<プーチン仲介と3国合意>

 2020年11月9日にプーチン大統領は、アゼルバイジャンのアリエフ大統領及びアルメニアのパシニャン首相が同日、11月10日真夜中からの完全休戦と敵対行動終了に関する声明に署名したとする声明を発出しました。国連事務総長スポークスマンは10日付けで、ロシアの行ったことに対する感謝を表明しました。アゼルバイジャン大統領、アルメニア首相及びロシア大統領による声明(以下「NK合意」)は、以下の9項目からなっています。
-2020年11月10日午前0時開始の完全休戦と敵対行動終了。
-アルメニアは占領地・アグダム地域(浅井:NK東側境界に隣接)を11月20日までにアゼルバイジャンに返還。
-ロシア平和創造部隊(ママ)をNK接触ライン及びラチン回廊沿いに配備。
-ロシア平和創造部隊はアルメニア軍撤退と同時に5年間配備(異議がない場合、5年間自動延長)。
-合意実行モニタリングのためのセンター設置。
-アルメニアは11月15日までにカリバジャール地域、12月1日までにラチン地域をアゼルバイジャンに返還。NKとアルメニアとを接続するラチン回廊はロシア平和創造部隊が管理。3年以内に、NKとアルメニアの接続のための新ルート建設プランを作成。アゼルバイジャンは、ラチン回廊を移動する人、車両、荷物の安全を保障。
-国連難民高等弁務官監視の下で国内難民がNKに帰還。
-捕虜等の交換。
-経済輸送のすべての接続開放。アルメニアは、アゼルバイジャン西部とナヒチェヴァン自治共和国との輸送接続の安全を保障。ロシア連邦保安庁国境警備局が輸送安全を監視。ナヒチェヴァンとアゼルバイジャン西部を接続する新輸送リンク(ザンゲズール(Zangezur)回廊)の建設。

<アルメニア内外の動き>

 NK合意成立直後から、アルメニア国内及び国際的に不穏な動きが始まりました。  アルメニア国内では、NK合意に署名したパシニャンに対して辞任を要求する激しい抗議行動が起こりました。野党勢力は、国家救済委員会の設置を決定し、暫定政府結成を要求しました。また、サルキシャン大統領は、「遺憾なことに、大統領である私には、この合意文書に関していかなる協議・議論もなく、交渉にもかかわっていなかった」とNK合意から距離を置く姿勢を露わにし、「NKの運命という問題についてはアルメニア人民の国益を考慮し、国民的コンセンサスの基礎の上で決めなければならない」として、パシニャンの行動を批判しました。さらにサルキシャンは、「NK合意はMGについて触れていないが、アルツァフ(浅井:NKの自称国名)の地位を決める最高権限を持っているのはMGだけだ」と述べて、NK合意をも批判しました。11月16日には、サルキシャンは早い時期に議会選挙を行うことを前提とした政権交代の必要を訴える国民向け演説を行いました。
 国際的には、アルメニアのムナツァカニャン外相(当時)は同年11月13日、ロシアのラブロフ外相、フランスのドリアン外相(当時)及びアメリカのビーガン国務次官(当時)、つまりMG共同議長3国代表とNK合意を議論するための話し合いを行いました。その際同外相は、NK合意は停戦確立を目的としたものであり、NK問題に関する包括的解決と考えることはできないとし、アゼルバイジャンの占領下にあるアルツァフの歴史的文化的遺産の命運に対する深刻な懸念を表明し、MGのみが唯一の国際的仲介フォーマットであると、その活動の継続の重要性を強調しました。同日、フランスのマクロン大統領はパシニャン首相と電話で会談し、休戦レジームに対する満足を表明するとともに、アルメニアとの友好関係を確認し、「NK全当事者のための公正で永続的、受諾可能な政治解決を樹立する」ための用意があることを表明しました。ロシア主導のNK問題解決に対するアルメニア国内及び国際社会の抵抗感が早くから表面化していたことを示すものです。

<プーチンの弁明>

 しかし、ロシアはMGを無視し、NK問題解決を独占しようとしていたわけではないことは確認しておく必要があります。11月13日、プーチンは、ラブロフ外相、ショイグ国防相等とNK人道問題解決のための会合を行っています。この中でプーチンは、MG関係者に対する通報をラブロフに指示したことに言及し、そのフォロー・アップ状況を質問しています。これに対してラブロフは、米仏をはじめとする関係国に通報したこと、国連関係機関とも連絡を取っていることを報告しています。
 プーチンは11月17日にNK問題に関して記者の質問に答える会見を行っています。そこでの発言は、プーチンのNK問題に関する認識を詳細に明らかにするものでした。プーチンが主観を交えず、冷静かつ客観的にNK問題解決に臨む姿勢を確認できます。主要発言を紹介します。
○(NK合意の評価) NK問題に関して起こっていることを理解するためには歴史を振り返らなければならない。すべての始まりはアゼルバイジャンの都市スンガイット(Sumgayit)で1988年に起こった民族的衝突であり、アルメニア人が犠牲となり、その後NKにも衝突が広がった。センシティヴな問題であり、誰が悪い、正しいというつもりはないが、とにかく、当時のソ連邦の指導者はこれらの出来事に的確に対応しなかった。その時点でアルメニア人が武器を取り、その結果紛争が長引くこととなった。結局、1991年にNKは独立、主権及び自立を宣言するに至った。1994年にビシュケク合意が署名され、敵対行動はストップした。NKは独立を宣言し、NKに隣接する7つの地域がアルメニア人の支配下に入った。これが過去から引き継がれた問題であり、我々が解決しなければならない問題だ。今回のNK合意で敵対行動がストップし、関係当事者が道路封鎖を解除し、経済的つながりを回復することに合意したことは極めて重要であり、長期的な関係正常化のための良好な基礎を造りだしたと考えている。
○(NKのステータス) その時もその後も、誰もNKの地位を認めていない。ちなみに、アルメニア自身も認めていない。
○(NK問題の所在) NKの地位という問題はまだ解決されていない。我々が合意したのは現状(the status quo)を維持するということだ。今後のことについては、将来の指導者及び将来の参加者によって決定されることになるだろう。正常な生活のための条件が造りだされ、両国間の関係、特に紛争地帯での人民間の関係が回復されれば、NKの地位を決定する環境が作り出されるだろう。
 NKを独立国家として承認するかしないかに関しては、様々なアプローチがあるけれども、今回の血なまぐさい紛争における争点であった。アルメニアを含めてNKを(独立国として)承認していないという事実は諸々の出来事に大きく影を落としている。
 率直に言うが、ジョージアの前の指導者たちが南オセアチアのロシア平和維持軍を攻撃するという犯罪的な動きを取ったため、ロシアは南オセアチアとアフカジアの独立を承認した(2008年)。また、我々はクリミアに住んでいる人々のロシアと統合したいという意思表明を承認した(2014年)。このことに気に入らないものもいるが、我々は現地に住んでいる人々のためにそうしたのであり、恥じることは何もない。NKではそういうことが起こらず、そのことが事態の展開に大きく影響した。
○(アルメニアによる占領地域の返還) アルメニアが支配していた7つの地域をアゼルバイジャンに返還するという問題は長い間議論されてきた。2013年、MGの枠組みの下で、ロシアは平和プロセスの開始に資する条件を定式化したことがある。ちなみに、MG共同議長国であるフランスとアメリカも我々のアイデアを受け入れ、支持した。
 アイデアの基本とは、第一段階で5地域、その後さらに2地域を返還すること、アゼルバイジャンのラチン地域に回廊を作ってNKとアルメニアを接続すること、そして、NKの最終的地位を決めないままでその現状を承認することなどだ。もう一つ、双方の避難民の故郷帰還は国際人道法上の無条件の要件だ。私は何度も以上について両国に話してきた。しかし、アプローチする度に双方に障害が現れ、克服することができず、今回の事態に立ち至ってしまった。
○(シューシャ(Shusha)問題) この問題は今回の紛争の中で起きた。10月19日-20日に、アリエフ、パシニャンと何度も電話で話しあった。その時点では、アゼルバイジャン軍が取り戻していたのはNKの南側の重要でない地帯だった。ともかく、戦闘終了は可能なこと、ただし、シューシャを含め、避難民帰還(を受諾すること)が絶対条件であることについてアリエフを納得させた。
 予期しなかったことだが、アルメニアはシューシャを取り返したところであり、シューシャをアゼルバイジャンに返すことは受け入れられないし、あくまで戦うとパシニャンが主張した。彼は、アルメニアとNKに脅威になると主張した。だから、このこと(シューシャの最終的放棄に応じたこと)でパシニャンを反逆罪呼ばわりするアルメニア国内の動きはまったく根拠がない。(浅井注:シューシャは、NK「首都」であるハンケンディの南側に隣接しており、戦略的要衝と位置づけられています。)
○(交渉に招かれなかったとして米仏が憤慨している件とミンスク・グループの今後の役割) 米仏が何に憤慨しているのかは分からない。憤慨すべきことは何もない。問題は3首脳で扱ったし、扱わなければならない問題は、長期にわたる数百万人の健康、生命、運命である。
 米仏は常に知る状態にあったし、我々の提案についてはほとんど支持し、2013年にロシアが将来的平和解決フォーマットの基本を示して以来、一緒に働いてきた。問題は、文書を起草する段階で彼らの意見すべてを考慮に入れることが可能だったかということだ。しかも今回の合意内容は完全に3国の立場に基づいている。
 前にも言ったように、10月19日-20日にアリエフ、パシニャンと何度も電話した。私としては、敵対行動終了の合意をほぼ達成したと感じていた。その時になって事態が動き、予想されるシナリオとなった。つまり、アゼルバイジャン軍がシューシャ支配を確立したのだ。パシニャンが昨日(11月16日)アルメニア国民に演説した際、彼は公正かつ正直な発言を行った。彼は情勢がアルメニアにとって危機的になっていたと述べた。正に時間の問題だった。敵対行動を直ちに終了することがアルメニアにとって利益になることだった(浅井:パシニャンはアルメニア軍幹部の意見に基づいてNK合意受諾を決めたと発言しています)。このような状況の下では、MGの枠組みに基づく協議をしている時間はなかった。我々は、アゼルバイジャンとアルメニアの人民にとって利益になることを行った。
○(アルメニアの対ロシア感情) 前にも指摘したとおり、アルメニアはNKの独立と主権を承認したことはない。国際法的にいえば、NKはアゼルバイジャンの不可分の一部であることを意味する。集団安全保障条約機構(CSTO)加盟国の領土に対する侵略があった場合は相互に支援することを定めている。今回、アルメニアの領土を侵略しようとするものはなかった。したがって、CSTO諸国がNK紛争に直接介入する権利はない(浅井注:後述するように、パシニャンのロシア批判のポイントの一つは、ロシアもCSTOもアルメニアを共同防衛する条約上の義務があったのに、それを履行しなかった、ということにあります。プーチンのこの発言はそれに反論するもの)。
 アルメニアが見放されたか否かという点に関してだが、ロシアは、多国間及び二国間の枠組みに基づく軍事技術協力を完全に果たしている。この点については、パシニャンを含めアルメニア当局が多くの機会に、ロシアは完全に義務を履行していると謝意を表していることだ。
○(アルメニア国内のNK合意反対の動き) NK合意をアルメニアが履行しないという事態は自殺行為だ。前にも述べたとおり、パシニャンはアルメニアが直面した厳しい真実を受け止めたのだ。それ以上付け加えることは何もない。
 アルメニア国内情勢は彼らの問題であり、我々のかかわることではない。アルメニアは独立主権国家だ。自分の良いと思うように内政を動かす権利がある。私の評価を聞きたいというのであれば、戦争さなかあるいは戦争再開の危険の中にある国が内側から社会を分裂させるような余裕はないはずだ(と答える)。それは許されないことであり、反生産的であり、極めて危険なことだ。
○(アルメニア指導部のロシアに対する立場・アプローチ) 私は確かにアルメニアの以前の指導者と良い関係を持っていたし、それを隠したこともない。しかし、そのことが国家間の結びつきに影響することはあり得ない。第一、私たちは信用に基礎をおく健康的な個人関係を築いてきた。第二、そしてもっとも重要なことだが、我々はアルメニア人民と数世紀にわたる良好な関係がある。我々の関係は文化的宗教的親近性に基礎を置いており、歴史的にも我々を結びつける多くのものがある。これらの要素は個人関係より重要である。我々はこのことを記憶しているし、絶対に忘れないだろう。そしてこれこそが我々のアルメニアとの相互関係の核にあるものだ。

3.アゼルバイジャンの実力行使

<アゼルバイジャンの実力行使までの主な出来事>

(アルメニア内政)
 NK合意成立から2023年のアゼルバイジャンの実力行使に至るまでの間、NK問題自体についてはほとんど進展がありません。その主たる原因は、コロナ・パンデミックの影響に加え、アルメニアが国内問題に忙殺されたことにあったと言えます。サルキシャン大統領がNK合意直後から議会選挙を主張したことはすでに触れました。2021年2月25日にアルメニア軍参謀本部が突然声明を発表してパシニャン首相の辞任を要求したことがきっかけとなって、この声明を支持する大統領と首相が対立するなど、アルメニア国内情勢は再び騒然となりました。結局、3月2日にパシニャンが自らの過ちについて国民に謝罪するとともに、3月18日には、サルキシャン及び議会3会派の指導者と協議の上、6月20日に議会選挙を行うことを発表します。そして、6月20日に行われた選挙ではパシニャンを党首とする政党(the Civil Contract party)が投票の53.92%を獲得して勝利し、パシニャンが引き続き国政を担当することになりました。
(米西側のアルメニア支持)
 国際的には、アメリカがアルメニア支持の立場を鮮明にしたことが最大の変化と言えるでしょう。すなわち、2021年4月24日にバイデン大統領は声明を出し、「1915年4月24日にオスマン・トルコ当局によってコンスタンチンノープルのアルメニア人のインテリ及びコミュニティ・リーダーが逮捕されたことを皮切りに、150万人のアルメニア人が追放、虐殺され、絶滅キャンペーンで死に追いやられた」、「アメリカ人は、106年前の今日始まったジェノサイドで命を落としたすべてのアルメニア人に敬意を払っている」と発言して、アメリカのアルメニア寄りの姿勢を鮮明にしました。バイデンが言及したのは、1915年にオスマン・トルコ帝国の下で起こった事件(国外追放及び組織的殺害によって、アルメニア側の主張によると、60万とも150万とも言われるアルメニア人が命を落とした事件)のことです。この発言は米西側がアルメニア支持一辺倒になる上で決定的な役割を果たしたと私は理解します。
 バイデンの発言の政治的意味を理解する上では、従来、オバマもトランプも「ジェノサイド」という表現を慎重に避けてきたという背景があることを考慮する必要があります。ちなみに、バイデンの発言に先立ち、2019年にアメリカ議会は、1915年に起こったこの事件について「アルメニア人ジェノサイド」と規定する初めての決議を採択していました。
 アメリカとトルコの関係は、ウクライナ戦争に関するトルコの自主路線に集中的に現れているように、近年は緊張含みで推移しています。したがって、バイデン声明に対してトルコが鋭く反発したのは当然です。バイデンの声明が出たその日(4月24日)にトルコのエルドアン大統領とアゼルバイジャンのアリエフ大統領は電話で会談し、共同歩調を取ることについて協議しました。
 これに先立ってトルコとアゼルバイジャンの外相も電話会談しました。会談後のプレス向け声明は、「(アゼルバイジャンの)バイラモフ外相は、1915年の出来事を政治問題化するいくつかの国々の指導者の試みは受け入れられず、アルメニアの記憶の日(the Armenian remembrance day)に関するアメリカ大統領の声明は歴史的事実の歪曲であると述べ」、「両外相は、歴史の改竄及び政治的利用は受け入れられないと強調した」と指摘しました。また、トルコのチャウショール外相(当時)はツイッターで、バイデンの発言を「政治的オポチュニズム」と決めつけ、「言葉で歴史を変更、書き換えることはできない。自らの過去について誰からも学ぶことはない。政治的オポチュニズムは平和と正義に対する最大の裏切りだ。ポピュリズムに走ったこの声明を我々は全面的に拒否する」と激しく反応しています。さらにトルコ外務省は声明を出し、「この声明は相互の信頼と友好を損なう深刻な傷口を開くものだ。米大統領がこの深刻な誤りを是正することを求める」と「もっとも強い表現」で非難しました。
 なお、タス通信の解説によれば、トルコのこの事件に対する立場は、事件の存在そのものを否定するということではありません。アルメニア人が多数亡くなった事実は認めつつ、その死は当時の政府の意図的な政策によるものではなく、オスマン・トルコ帝国下の内戦の結果であり、トルコ人もその中で多数死んでいると指摘し、また、アルメニア側が主張する数字は確固たる証拠に基づくものではないとして、「ジェノサイド」と規定するだけの証拠・根拠はないとするものです。
 他方、アルメニアはバイデンの声明に直ちに歓迎の意を表明しました。サルキシャン大統領は、「大統領、ありがとう。アルメニア人ジェノサイドを認めることは勇気のある、気持ちを奮い立たせる行為だ。それはアルメニア国民にとっても、世界の正義を求めるすべてのものにとっても重要なことだ。それは米・アルメニア関係の新たな展望を切り開く」とツイートしました。また、パシニャン首相はバイデン大統領に手紙を送り、「アメリカがアルメニア人ジェノサイドを認めたことは国際社会が必要としてきたメッセージであり、国際関係における人権・価値の至高性を確認するものである。この観点から、それ(バイデンの行為)は公正で寛容な国際社会を建設しようとするすべての者に対する力強くかつ啓発的な具体例を示した。」と述べました。
 ちなみに、バイデンの声明に先立つ3月6日、ブリンケン国務長官がパシニャン首相と電話会談を行ったと、両国双方(アルメニアは首相府、アメリカは国務省)が発表しています。アルメニア側発表文は、双方がNK戦争後の状況に触れ、MGの枠組みの下で平和プロセスを回復する必要性を強調したとした上で、「パシニャンは、アゼルバイジャンが即刻捕虜等を返還する必要があることについてアメリカ側に注意喚起した。この点に関して、アメリカ側はMG共同議長国として、紛争解決の役割を担っていく用意があると述べた」と紹介しています。さらにこの発表文は、ブリンケンが「デモクラシーの分野におけるアルメニアの進展を称賛し、アメリカが引き続きアルメニアの改革プロセスを支援していく」と述べたこと、これに対してパシニャンがアメリカの評価及び支援に謝意を表したことも紹介しています。
 これに対して国務省発表文は、NK問題解決を含む二国間にとって重要な問題を議論したこと、双方が二国間パートナーシップの重要性を強調したことを紹介しました。また、ブリンケンが法の支配及び民主制度を尊重することの重要性を強調し、アルメニアにおける民主的なプロセス及び制度の発展に対する変わることのない支持を表明し、NK問題の持続的な政治的解決を実現しようとする努力を歓迎したことも紹介しました。
 この電話会談の後に、パシニャンの国内政治上の動き、すなわち、6月20日に議会選挙を行うと発言して国内の混乱の収拾を図ったこと、及びバイデンの「ジェノサイド」発言が行われたことの因果関係を見いださないとしたら、政治分析の素人という批判は免れないでしょう。
 5月1日には、アルメニアのミルゾヤン外相とアゼルバイジャンのバイラモフ外相が、ブリンケン国務長官が主催する二国間外相会議に臨みました(於アメリカ)。具体的な成果はありませんでしたが、この会合でブリンケンは、アゼルバイジャンの封鎖解除(浅井:次項「NK問題」参照)を要求してアルメニア支持の立場を明確にしています。この動きに対してロシア大統領府のペスコフ報道官は、「NK問題解決の法的基礎になるものはNK合意以外にない。しかし、NK合意の基礎を損なおうとする様々な試みが行われている」とコメントしました。
(NK問題)
 2023年9月15日付けのロシア・トゥデイ(RT)は、9月にアルメニアとアゼルバイジャンの緊張が高まったことを受けて、「新たな戦争勃発か」(原題:"'An explosive situation' near Russia's southern borders: Could a new war erupt between Armenia and Azerbaijan?")と題する長文の文章(以下「RT文章」)を掲載し、その中でNK問題に関しても近年の動きを解説しています。すなわち、NK合意成立以来、アゼルバイジャンとアルメニアは両国の国境を画定するための平和協定について繰り返し議論してきましたが、2022年3月、アゼルバイジャンは5項目の平和協定案をアルメニアに提案しました。5項目の内容とは、国境の相互承認、領土的要求がないことの確認、武力行使及び威嚇を慎むこと、国境線画定、輸送及び通信の開放です。特に、アゼルバイジャンは今回の提案の中で、同回廊の開設を提案しました。その提案によれば、ルートは、アルメニアのシュニック省を通ってバクーとアゼルバイジャンの西部「飛び地」であるナヒチュヴァンを結びます。回廊はさらにトルコまで延伸し、そのことによってアルメニアの交通的孤立を解消することまで見通しています。
 ところがアルメニアは、NK合意に含まれているにもかかわらず、安全保障を理由としてこの回廊計画そのものをボイコットするに至りました。パシニャンは同年7月、「アルメニアは口頭にせよ文章にせよいかなる回廊の義務も受け入れたことはなく、(アルメニアが受け入れたとする)解釈も受け入れない」と述べました。
 しかもアルメニアは、NKが「封鎖」に陥っていると主張し、NK当局もアゼルバイジャンが天然ガスの供給をカットしたと非難しました。さらにアルメニアは、アゼルバイジャンが人道援助のためのトラックのアクセスもブロックしていると非難しました。アゼルバイジャンはこれらの非難を拒否し、あるいは、代替ルートで食糧、医薬品を輸送することを提案します。こうして、アルメニアはアゼルバイジャンがNKにおける人道危機を造りだしていると非難し、アゼルバイジャンはアルメニアが平和協定交渉を妨害していると非難する、非難の応酬に陥りました。
 さらにもう一つ、NK合意に規定がある、在NKアルメニア軍の退去という問題も未解決のままでした。7月にアリエフは、「アルメニアはNKがアゼルバイジャンの一部であることを承認することを強いられたのに、NKにはまだアルメニアの残存部隊がいる」と指摘しました。このアリエフの指摘に対してパシニャンは、NKにはアルメニア軍はもはやおらず、いるのはNK軍であるとし、NK軍はアゼルバイジャンの政策のために解隊していないと応酬しました。
 RT文章は、これらの事情のために、平和協定締結の可能性は阻まれているのみならず、再度の武力衝突へのエスカレーションが危惧される状況になっていると指摘しています。
(ロシアとアルメニアの関係)
 ロシアとアルメニアの関係悪化は、2023年9月に入ってパシニャン等のあい重なる言動によってますます露わになりました。すなわち、パシニャン首相はイタリアの新聞(La Repubblica)との9月2日のインタビューで、ロシアはNK危機を解決する意思がなく、NK封鎖を解除させる意思もない、また、ロシアの平和維持部隊は民間人の安全を保障し、アゼルバイジャンのNK支配拡大に対抗することもできていない、と述べました。次いでアルメニア国防省は9月6日、同月中旬にアメリカとアルメニアの合同軍事演習(Eagle Partner 2023)を行うと声明で発表しました。
 また、アルメニアはウクライナとの関係改善の動きも見せ始めました。まず9月7日には、パシニャン夫人(Anna Hakobyan)がゼレンスキー夫人の招待に応じてキーウを訪れ、ゼレンスキー夫妻と会見しました。さらに10月6日には、パシニャン自身が、スペイン・グラナダにおけるEU首脳会合に出席した際、ゼレンスキーと会見しています。両者は二人の初めての会合の重要性を強調するとともに、南コーカサスにおける安全保障について議論した、と報じられました。
 ただし、アルメニアのアスバレツ(Asbarez)通信によれば、ウクライナは長年にわたってアゼルバイジャンと緊密な関係にあり、2020年戦争でアルメニアに勝利したアゼルバイジャンを祝福しています。また、ゼレンスキーは、パシニャンと会う前にアリエフと電話会談し、ウクライナに対する人道援助に感謝しています。したがって、パシニャンのゼレンスキーとの会見も、ロシアに対する「当てつけ」の意味合いの方が大きいと見るのが自然です。
 ロシアがアルメニアに対する態度を明確に硬化させたのは、アルメニアが10月14日に国際刑事裁判所(ICC)の管轄権を承認するローマ規程を批准したことでした。パシニャン自身は、アゼルバイジャンの「戦争犯罪」を訴追することに資するから(批准した)と説明しました。しかし、ICCがプーチンのウクライナにおける戦争犯罪を訴追していることは公知の事実ですから、パシニャンの説明はあまりにも「とぼけたもの」という批判は免れないところです。
 パシニャンは9月13日にもアメリカのポリティコとのインタビューで、ロシアに対する厳しい見方を詳細に明らかにしました。そのさわりは次のとおりです。
○ウクライナの出来事のためにロシアの能力は変化し、そのため、アゼルバイジャン及びその緊密な同盟国であるトルコを疎遠にすることはできなくなっている。
○国際援助団体のNKへの食糧・燃料運搬は数ヶ月も阻まれており、アゼルバイジャンはそうすることでNKのアルメニア人に抵抗をやめ、アゼルバイジャンからの提供を受けるようにし、アゼルバイジャンの一部として支配を受け入れることを要求している。「これらすべてはロシア平和維持軍の責任事項であるのに、その任務を果たしていない。」ということは、ロシアはもはやその責任を果たしていないということだ。
 パシニャンの9月2日の発言については、ロシア外務省のザハロワ報道官が激しく反応しました。ザハロワは、「封鎖」は自業自得("a consequence of his own actions." )と決めつけるとともに、現在の状況に関する責任を歴史的同盟国(ロシア)になすりつけようとする「下手くそなダンサー」(a "bad dancer" )と当てこすりました。また、新興諸国国際研究所所長のマルチュノフ(Alexey Martynov)も、「パシニャンがしていることは状況を刺激するだけだ。何故こんなことをするのか理解できない。多分、彼はEUのよからぬ輩にそそのかれたのだろう。」とコメントしました。ロシア側のパシニャンに対する怒りの所在を理解するには十分です。

<アゼルバイジャンの実力行使>

 9月19日、アゼルバイジャン軍はNKで、アルメニア側による「大規模挑発を挫折させる」ための「局地的反テロ措置」作戦を開始した、とする声明を発表しました。そして、この軍事行動の目的は「アルメニア軍所在地」その他の軍事目標を無力化することにあるとしました。この実力行使は、翌9月20日、ロシア平和維持軍の斡旋により、アゼルバイジャンとNK当局代表(アゼルバイジャン側発表ではNK地区アルメニア人武装勢力)が停戦合意に達して終わりました。
 同日、パシニャンは国民向けの演説を行い、アルメニアはアゼルバイジャンとNK当局との休戦交渉にかかわっていないし、停戦案の策定にもかかわっていないと弁明しました。パシニャンはさらに、ロシア平和維持部隊が休戦交渉を仲介したのであるから、「NK人民の安全について全面的かつ無条件の責任を負うべきだ」と述べて、今回の事態の責任をロシアに押しつけました。
 このパシニャンの発言に対して、ロシア大統領府のペスコフ報道官は翌日(9月20日)反論しました。ペスコフは、アゼルバイジャン軍の軍事行動は自国領内におけるものであって問題にならないとしました。その理由としてペスコフは、パシニャン自身が'アゼルバイジャンの国境は1991年にソ連邦が解体した時のアゼルバイジャンの行政境界と同じである'と承認したことを挙げました。彼は次のような言い回しをしました。「特に、アルメニア側がNKをアゼルバイジャンの一部であることを公式に承認することを決定した後となっては、(パシニャンの)我々に対する愚痴は受け入れることはできない。」
 このペスコフ発言の意味を理解するためには、NK問題に関するアルメニアの立場が豹変する経緯を知る必要があります。この豹変の背景には、アルメニアを引きつけ、ロシアから離反させようとする米西側の外交攻勢がありました。NK問題をめぐる米西側とロシアの応酬については次回のコラムで扱います。