99才にして第19冊目の著作『リーダーシップ:世界戦略における6つのケース・スタディ』(原題:"Leadership: Six Studies in World Strategy")を著したヘンリー・キッシンジャーが真に政治家(statesman)と呼ばれるにふさわしい者の資質について語った記事が8月13日付けのウォールストリート・ジャーナル紙に掲載されました。この新著は、アデナウアー、ドゴール、ニクソン、サダト、リー・クアンユーそしてサッチャーという6人の政治家を取り上げて、政治家に求められるリーダーシップについて考察したものです。ただしキッシンジャーはこの著作について、いわゆる「今日的考察」という性格のものではなく、19世紀のウィーン会議(第1著作)からビスマルク(第3著作)、そして第一次大戦勃発までを通して、キッシンジャーが考察した19世紀の平和及びその終焉の延長線上にあると説明しています。すなわち、この本で取り上げた6人の政治家に共通するのは、いわゆる戦間期から第二次大戦まで(1914年-1945年。キッシンジャーは「第2の30年戦争」と呼ぶ)を経験し、第二次大戦後の世界の形成に貢献したという経歴です。
 キッシンジャーによれば、リーダーシップには、政治家としての先見の明あるプラグマティズム(farsighted pragmatism)と預言者としての洞察力を備えた大胆さ(visionary boldness)という2つの原型があるといいます。キッシンジャーが取り上げた6人のうち、ドゴールを除けば誰一人として若い時代にはこれらの資質を備えていませんでした。しかし、彼らは政治屋ではなく、重職に就くまでには目的意識(perception of purpose)を備えるに至っていたといいます。そして、目的意識こそ預言者を預言者たらしめる資質だとキッシンジャーは言うのです。そして政治家が備えるべきは、この目的意識と、もう一つは平衡感覚(equilibrium)だとキッシンジャーは指摘します。
 キッシンジャーは1950年代以後、核戦略について研究し、その中で、核戦争の影に脅かされる大国が互いの間できわどいバランスをとる行為が外交であると認識するに至りました。現代兵器テクノロジーが備える終末論的ポテンシャルにより、敵対国間の平衡を維持することは、その均衡がどんなに不安定であるにせよ、国際関係における至上課題となるというのです。
 キッシンジャーによれば、平衡感覚は2つの要素からなっているといいます。一つは絶対的平衡(a sort of absolute equilibrium)です。つまり、時に敵対する価値の正統性を受け入れるという意味でのバランス・オヴ・パワーです。なぜならば、こちら側の価値をあくまで押しつけようとするならば、平衡を実現することは不可能だからです。もう一つは行為における平衡(equilibrium of conduct)というものです。つまり、全体的な平衡を実現するためには、我が方の能力及びパワーを行使する上で制限を伴うということです。この2つの平衡感覚の組み合わせを達成するためには「芸術的スキル」を必要とします。
 ただし、キッシンジャーは、ヒトラーとの間で平衡を語る余地はあり得なかったことをリマインドして、平衡が国際政治で追求されるべき絶対的価値という位置づけではないことをリマインドすることを忘れません。しかしこの記事の中で、キッシンジャー自身が明示的に言及しているわけではありませんが、プーチン及び習近平はヒトラーではないということが、彼のいわんとするポイントだと私は受け止めます。ウクライナ問題及び台湾問題を考える際には、この2つの平衡感覚の組み合わせを最大限に発揮することが求められているというのが、キッシンジャーのいわんとすることだと思います。
 そのことについてキッシンジャーは、この『リーダーシップ』という著作で扱った先輩たちの教訓から今のアメリカの政治家たちがヒントを吸収してほしいと述べています。キッシンジャーは、「今日においては方向性を見極めることがとても困難になっている。彼ら(浅井:バイデン政権)はその時々の感情に流されてしまっている。外交をライバルとの個人的関係から切り離すことに抵抗している」と述べました。彼によれば、彼らは交渉を心理的ではなく伝道的に捉える傾向があり、交渉相手の考え方を洞察しようというよりも、相手の考え方を改めさせようとするか、非難しようとしているのです。
 キッシンジャーは、今日の世界は平衡が失われる危険な淵にあると考えています。キッシンジャーは、「我々は、米西側がかかわって作り出した問題についてロシア及び中国と戦争の危機にあるというのに、(バイデン政権は)それをどう終わらせるか、また、どうなっていくのかについてまったく考えていない」と厳しく指摘します。
 台湾問題については、キッシンジャーは、「共和党及び民主党両政権の政策によって、自治的な台湾の発展と50年にわたる中米の平和が維持されてきた。この基本的構造を変えようとするかのごとき政策については慎重を期する必要がある」と述べました。
 ウクライナについては、キッシンジャーはアメリカとNATOの不用意な政策が危機を作り出したとし、プーチンが表明してきた安全保障上の関心を深刻に受け止める以外の選択はあり得ないとし、NATOがウクライナの最終的なNATO加盟のシグナルを出したのは過ちだと確信していると述べました。さらにキッシンジャーは、もともと西側の歴史の一部だったポーランドのような国々がNATOの加盟国になるのは論理的だが、ウクライナはかつてロシアの一部だったし、ウクライナ人の一部は同意しないとしても、ロシア人は自分のものだと考えているのであり、ウクライナはロシアと西側の間の緩衝国として行動する方が安定に資するのであり、「ウクライナの完全独立は支持するが、その最善の役割はフィンランドのようなものである」と結論づけました。
 しかし、キッシンジャーも、「賽はすでに投げられた」として、今回の事態が収拾した暁には、正式かどうかは別として、ウクライナをNATOの一員として扱う以外にないだろうと述べています。しかし、その場合にも、2014年にロシアが作り出した結果(クリミア併合とドンバス支配)を保全する解決となると予想しました。核戦争回避が至上課題である限り、グローバルな均衡(の実現・維持)における小国の役回りは大国によって決定されざるを得ないからです。ちなみに、キッシンジャーは、5月にダヴォス世界経済フォーラムで発言した際にも、この妥協的解決を選ばない場合には、ウクライナの自由云々ではなく、ロシアとの戦争そのもの(浅井:核戦争)ということになると発言していました。「核戦争の回避は至上命令」という命題を受け入れる限り、キッシンジャー自身のこの苦渋に満ちた結論に対して正面から異論を提起することははなはだ難しいと考え込まされます(「だから、核兵器廃絶以外にない」という反論は容易に想像できますが、それは真の答にはなっていません)。