日本国内は官民をあげてアメリカを無条件で肯定的に見る雰囲気が充満しており、特に、誰が見てもおかしいトランプに代わって、一見好々爺に見えるバイデンが登場したことで、ますます無批判的に見る雰囲気が圧倒的になってしまっています。また、日本人の対ロシア感情はもともと悪く、また、台頭する中国にも複雑骨折した感情があるという素地があったところに、バイデン政権の止まるところを知らない反ロ反中政策が火を注ぎ、もはや止まるところを知らない勢いで燃え盛ることになってしまっています。
 しかし、今日の米欧対中ロの闘いの本質は21世紀国際秩序はいかにあるべきかをめぐる路線対立です。そして、歴史的視野に立てば、ゼロ・サムの権力政治に固執し、国際ルールの制定権を引き続き独占しようとする米欧と、ウィン・ウィンの脱権力政治を指向し、国連憲章を始めとする国際法に基づく民主的国際関係を標榜する中ロ+途上諸国の闘いにおいて、後者が勝利を収めることは歴史的必然というのが私の基本的判断です。
 私たちに緊急に求められているのは、「アメリカ=善」「中ロ=悪」という二分法的国際観を卒業することです。そのための不可欠な出発点の一つは、アメリカに対する正確な理解・認識を持つことだと思います。7月19日付けの環球時報が掲載した金燦栄署名文章「「伝統的思考」ではもはや判断できない今日のアメリカ」(中国語原題:"不能再按"传统思维"判断今日美国")は、今日のアメリカが新旧5つの矛盾に直面していると分析し、アメリカ政治社会が直面している問題として、自己反省の欠如、傑出した政治家の不在、国力の衰弱、責任転嫁を摘出(私は以上に加え、歴史的視野の欠落を是非付け加える必要があると思います)し、結論として「今日のアメリカにとっての真の挑戦は、内部矛盾が空前に複雑であり、しかも矛盾対応能力を含む実力が相対的に低下しているということであり、したがって、アメリカに対する観察及び判断も時とともに調整していく必要がある。要すれば、伝統的見方に寄りかかっていることはもはやできず、新しい視角を備える必要がある」と指摘しています。非常に読み応えがありますので大要を訳出して紹介します(なお、この文章は7月22日のコラムにつけたレジュメの中でも紹介しましたが、レジュメまで見てくださる方は多くないと思うので、改めて紹介する次第です)。ちなみに、金燦栄は中国人民大学国際関係学院教授です。

現在のアメリカの内政外交に映し出されている状況を前にして、学界及び世論の場で、「アメリカはもはや自己修正能力を失っているのではないか」、「アメリカはもはや没落しつつあるのではないか」という議論が盛んに行われるようになっている。これらの議論の背後にある根本問題は、現段階のアメリカをいかに判断するべきかという問いである。アメリカは超大国であり、大国は内部で問題が現れない限り、外部的挑戦に対しては対処しやすいものだ。ところが現下のアメリカの問題は正に多くの内部矛盾の激化にあり、歴史上もっとも激烈とは言えず、南北戦争当時あるいは20世紀60年代の様々な社会運動の時の方が今日よりさらに激烈であったことは確かだが、それにもかかわらず、もっとも複雑な時期にあるとは言えるだろう。これらのアメリカ史上まれに見る複雑な矛盾をまとめれば以下の5種類の矛盾・問題に概括することができる。
<古くからある3つの矛盾の再発>
第一は上下矛盾である。これは伝統的には階級・階層矛盾と呼ばれてきたものである。冷戦期のアメリカの政権担当者は中間層・中産階級を育て、支持することに留意し、中間層・中産階級が一定の福利を獲得することを保障していた。しかし、冷戦が終わってソ連と競争する切迫した必要がなくなるとともに、アメリカ政府はこれらの福利を削るようになり、その結果、中間層・中産階級は次第に縮小し、中間層・中産階級の「貧困化」傾向が出現することになった。20世紀80年代の多くの統計によれば、アメリカ総人口中の中間層・中産階級は80%前後もいたが、近年の統計によれば50%前後まで減少している。アメリカ社会の構造はオリーブ型からピラミッド型に変わってしまっており、社会構造の悪化を表している。
アメリカ社会の上下の矛盾は昔から一貫して存在しているが、近年になって激化してきたことは二つの事件に反映されている。一つは2011年に起こった「ウォール街占拠」運動であり、もう一つは政治の過激化(左右対立)である。前者の運動におけるスローガンは「我々は99%」であり、運動自体はその後沈静したが、基底に座った社会矛盾は緩和、解消することなく、むしろその後累積され、その傾向の集中的な表れとしてのポピュリズムは日増しに深刻となり、ポピュリズム的土壌は第二の矛盾、すなわちトランプの登場に集中される政治の過激化(左右対立)を生み出すことになった。
第二は政治の過激化または左右の対立である。かつての民主党及び共和党は内部に分厚い穏健派を抱えていたが、今日では両党において穏健派の勢力は昔日の面影がない。民主党内ではサンダースに代表される左派が力を強め、共和党内では右翼ポピュリズムが幅をきかせている。このことにより、両党が妥協を見いだすことはますます困難となり、「拒否権政治(フランシス・フクヤマのVetocracy)」が横行し、結果的にアメリカ政治における著しい統治能力の下降・喪失を導いてきた。
第三は黒白矛盾あるいは人種矛盾である。人種的矛盾もアメリカ社会に古くからある問題だが、1960年代以後の公民権運動によって改善されてきた(例:オバマ大統領の登場)。しかし、現在再びこの矛盾が台頭しており、しかも複雑化の様相を呈している。以前は白人対黒人だったが、今日では有色人種間の対立も顕在化している(例:アジア系アメリカ人に対する蔑視迫害)。
<新しく登場した2つの矛盾>
第四の矛盾は実体経済と仮想経済との矛盾である。1971年にニクソン大統領は、いわゆる「ニクソン・ショック」、つまり、米ドルの金本位制からの離脱を宣言した。アメリカは、自国の利益を優先して、自らが作ったブレトンウッズ体制・金本位制の崩壊を演出した。しかし、世界経済・各国経済はすでに対ドル依存にどっぷりつかってしまっていたため、アメリカのルール違反は罰を受けることなく、そのまま通ってしまった。
 アメリカ経済はこの時以来金融化への道を歩み始め、経済金融化の流れはインターネットという担い手も得て、1980年代以後のアメリカの金融投資は大規模にインターネット上に群がっていった。経済の金融化とネット化は仮想経済を構築し、実体経済は次第に萎縮していった。本来であれば、仮想経済は実体経済を離脱できず、実体経済という基礎の上で建設されるべきものであるが、アメリカでは仮想経済が実体経済を圧倒することとなり、資本家集団の内部で分裂、矛盾が生まれることとなった。この現象はそれまでのアメリカ史上かつてなかったことであり、エリート層あるいは政治指導層内部の精神分裂を引き起こす結果となった。
第五の矛盾はグローバル主義と保護主義との矛盾である。地域的に見れば、グローバル主義は東西両沿岸地帯を地盤とし、保護主義は内陸を地盤としている。2016年の大統領選挙はグローバル主義を代表するヒラリー・クリントンと保護主義を代表するトランプの激突だった。GDP比でいうと、クリントン支持層がGDPの2/3を占め、トランプの支持層は1/3に過ぎなかったが、トランプの勝利に終わったということはアメリカ政治の土台部分が保護主義にあることを示した。
<アメリカ政治社会が直面している問題>
(浅井注:この部分は、私流に再構成しています。)
(自己反省の欠如)
これら5つの矛盾が交錯する結果、アメリカ社会が直面する問題は以前にも増して複雑となっており、アメリカを観察する上で、過去の手法に頼っているのでは判断を誤ることになる。創造的な思考力とアプローチが求められるゆえんである。しかし、アメリカ国内では、このような根源的反省がまったく欠如している。
(傑出した政治家の不在)
 今日、さらに問題を深刻にしているのは、独立運動時代の建国の父、南北戦争時代のリンカーン、大不況時代のルーズベルトのごとき傑出した政治家がいないこと、というより、傑出した政治家を生み出すだけの政治的土壌がもはや失われていることであり、この貧弱化した政治土壌はまた自己修正能力をも失わせる原因にもなっている。
(国力の衰弱)
金融経済・仮想経済が実体経済を圧倒しているアメリカには、もはや国家としての実力そのものが低下している。バイデン政権は、中国が世界経済の中心に座る産業チェーン・供給チェーンをアメリカに奪い返すことで自らが再び世界経済の中心に座ることを目指しているが、5兆ドルを超すバイデン式「ニュー・ディール」は共和党の抵抗に遭って不発のままであり、支持率もじり貧の同政権の対中経済戦争は、ただでさえ前途ただならぬ世界経済にさらなる混乱をもたらすだけである。
(矛盾転嫁)
バイデン政権は、自らが作り出した国内インフレをロシアのウクライナ侵攻のせいにし、国内経済問題の責任を中国に押しつける。それは例えるならば、「自分(アメリカ)が病に陥っているのに、他人(ロシア、中国)に薬を飲め」と強要しているに等しい。バイデン政権の売りである「ルールに基づく国際秩序」の本質もまさに矛盾転嫁のカムフラージュという点にある。
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 アメリカは現在も間違いなく総合的実力において最強の超大国であり、アメリカを正しく認識、判断することは世界情勢を理解するカギである。しかし、今日のアメリカにとっての真の挑戦は、内部矛盾が空前に複雑であり、しかも矛盾対応能力を含む実力が相対的に低下しているということであり、したがって、アメリカに対する観察及び判断も時とともに調整していく必要がある。要すれば、伝統的見方に寄りかかっていることはもはやできず、新しい視角を備える必要があるということである。