米中対立が厳しさを増し、かつ、対立が全面的になるにしたがって、中国国内における対米論調は対決色一色に染まっています。米中対立はトランプ政権が「アメリカ第一主義」の立場から人為的に作り出したものであり、国際主義を標榜して政権についたバイデン政権が、同盟国・友好国を総動員して、米中対立を西側対中国の対立にまでエスカレートしたものです。中国からすれば極めて不本意であり、文字通り「売られたけんか」です。したがって、中国側論調が対決色一色に染まるのも責めるわけにはいかないと思います。
 そうした対米言論の中で、7月6日付けの環球時報が掲載した程亜文署名文章「アメリカの「政治的失敗」の深層原因」(中国語原題:"美陷入政治失度根源在哪里")は、米連邦最高裁の妊娠中絶違憲判決によるアメリカ社会の分裂深化の深層原因を冷静に分析するもので、私としてはとても勉強になりました。アメリカ社会に対する公正な判断を期する意味で大要を紹介します。なお、程亜文は上海外国語大学国際関係公共事務学院教授です。

 6月23日、アメリカ連邦最高裁判所は、アメリカ人は公共の場で銃を携行する権利があるとする判決を出した。その翌日最高裁は、女性の妊娠中絶の権利を合憲とする1973年の「Roe vs. Wade」判決を覆した。この判決はアメリカ国内で激しい論争を引き起こし、妊娠中絶の権利を擁護する側は女性の権利を大きく後退させるものだと見なした。さらに、最高裁はこの勝利に乗じて、避妊、同性愛、同性婚等に関する過去の判決についても再審し、すでに確立している多くの公民権を取り締まるのではないかという不安をも呼んでいる。
 すでに全国的に確認された公民(注)の権利がなにゆえに取り消されるのか。広く受け入れられている見方によれば、政治的二極化の表れである。つまり、司法的判断の背後には政治があり、民主党と共和党との間の政治的抗争が今や最高裁にまで持ち込まれたとされる。しかし、さらに見届けなければならないことがある。すなわち、最高裁は必ずしも自らの意志で判決を行ったとは考えておらず、アメリカ社会の「総意」を代表して判決を出したと考えているということであり、最高裁判決に対するアメリカ国内の対立は権利倫理と国家倫理との激しい衝突を如実に反映しているということである。つまり、この衝突は最高裁とアメリカ人民との衝突ではなく、国家は公民権に対してどの程度の保護を与えるべきかを巡ってアメリカ国内で深刻な対立が生まれているということであり、この対立が近年になって際立ってきたということである。
(注)「公民」:「ある国家の国籍を取得しまたは所有し、かつ、当該国の憲法法律によって定められた権利を持ち、義務を担う人。我が国(中国)では、公民と国民は同義。」(『現代漢詞辞典』)
 内部的に相互牽引力が働いている政治共同体においては、権利倫理と国家倫理はともに欠くことはできない。国家は公民の権利を保護し、促進するべきであり、それが国家の重要な存在理由でもある。しかし同時に、国家に対して公民が権利の要求を行うに当たっては、国家の存在に危害をもたらさず、国家の一体性を弱めないことを前提とする必要がある。権利倫理と国家倫理は一致する側面があり、公民権を拡大することによって公民の国家に対する帰属意識(アイデンティティ)を増進し、国家の求心力を高める場合もある。しかし、両者が対立する場合もあり、権利に対する公民の留まることのない要求は政治的コストを高め、国家の財政困難をもたらす場合もある。異なるグループの権利要求は互いを排斥し合い、国家に対する帰属意識の分裂を引き起こす可能性もある。権利倫理は個人主義に基づき、国家倫理は群体主義(注)に基づいており、群体の利益と個体の利益とは必ずしも常に一致するとは限らない。
(注)「群体」:「本質的に共通点を備える個体から組成される集体」(『現代漢語詞典』)。
 20世紀後半以来、福祉制度の建設、公民権運動等が後押しして、多くの国々で公民の権利が拡大してきたが、一つの問題も提起されることとなった。すなわち、国家が行う公民の権利に対するコミットメントには限界が存在するのか、つまり、公民が提起する権利の要求を無制限に満たすことができるのか否かという問題である。
 21世紀に入って、西側諸国における社会的分裂が加速し、政治的紛争も増加し、福祉国家の建設はもはや維持することができないことが明らかとなってきた。西側諸国が直面している政治的苦境について、筆者は「政治的過多」(中国語:'政治过度')と「政治的過少」(中国語:'政治不足')という言葉で言い表している。「政治的過多」とは、政治的テーマとして取り上げるべきではない問題を政治的テーマとして取り込んでしまう結果、政治が機能できなくなるほどの負荷を負ってしまうことを指す。「政治的過少」とは、政治的テーマとして採り上げるべき問題を政治的視野から漏らしてしまう結果、公民の権利の保障を含む政治の機能を維持するために必要な財源が逼迫してしまうことを指す。
 1980年代以降、グローバル規模での資本の利益追求に資するため、アメリカ以下の西側諸国は資本の活動に対する制約を次第に緩めていった。その結果、資本と政治との関係が逆転し、政治が資本を取り締まっていたのが今や資本が政治を動かすこととなり、富が少数の私人に集中する一方、家の財源は大いに縮小することとなった。これがすなわち「政治的過少」である。他方、戦後の福祉国家建設と公民権運動により、国家が公民に対して提供する福祉は微に入り細をうがつこととなった。不断に拡大する公民の権利は一定の段階までは国家とのアイデンティティを強める方向に働いたが、国家の財政負担を増大させるとともに、(公民権)運動の行き過ぎは国家とのアイデンティティを弱めることになっていく。これがすなわち「政治的過多」である。
 公民の権利は「天賦」のものではなく、国家の成立を前提とする。つまり、どの程度まで公民の権利を保障することができるかという問題は、公民の要求の強さによると同時に、国家がどの程度までコストを担うことができるかによっても決まってくる。20世紀後半のアメリカでは、人々が自らの様々な権利を重視し、アメリカの政治システムもこれに積極的に応えようとした。アメリカ女性の妊娠中絶の権利は1960~70年代の公民権運動の中で獲得された。当時のアメリカは世界をリードする工業国であり、財政力ももっとも豊かな国家であって、様々な権利の拡張に対して十分な財政的保障を提供した。同時に見届けておくべきことは、かつてのアメリカは欧州から移民した白人を主とし、人種、宗教及び文化における主体性も彼らが代表していたことであり、これがアメリカ的アイデンティティを構成していたことである。公民の権利は白人だけではなくすべてのアメリカ人に付与されたが、これによって国家的帰属意識が脅かされることはなかった。
 しかし、今日においてはもはや以上のような前提条件は存在しなくなっている。数十年に及ぶ「脱工業化」によってアメリカはもはや伝統的な意味での工業国とは言えなくなっている。また富の少数者への集中による「政治的過少」によってアメリカの公共支出に向ける財政能力は大いに弱まり、希少社会の兆候をあらわにしている。収支があい償わない状況の下で、公民的権利の要求に応じる余力はもはやない。
 もう一つ見て取る必要があることは、近年のアメリカ社会における権利要求はますます細分化され、様々な人種、グループによる個別的要求と密接に関係するようになっているということである。特殊グループに対して権利を付与することは、国家資源を消耗すると同時に、グループ的帰属意識の増大を助長し、その結果として国家的帰属意識が弱められることとなる。特にアメリカの人口構成が激変し、白人人口並びにその宗教的信仰及び文化システムが主導権を失う背景のもと、帰属意識の分裂及び様々な政治的主張の対立によって、「衆が合して一になる」のではなく、「一が分かれて多となる」状況が現れており、これがアメリカにとって耐えきれない重圧となっている。そして、これによって社会の分裂とさらに厳しさを増す政治的対立が引き起こされ、アメリカの既存の政治制度はもはやこれを解決するメカニズムと能力とを喪失しているのである。