5月27日、習近平が主催して、「中華文明探源工作」(浅井:中国歴史及び古代文化を研究する国家重点プロジェクト)深化をテーマとする中共中央政治局第39回集体学習(浅井:2019年12月23日のコラムで解説。ただし、そこでは「集団学習」と紹介しましたが、中国語の「集体」を安易に「集団」と訳すのは誤りでした)が行われました。内外ともに難問山積であるにもかかわらず、中国共産党政治局が相変わらず月一のペースで「集体学習」を行っていること自体が驚異的です。しかも今回習近平は席上、「中華の優秀な伝統文化は中華文明の知恵の結晶であり、中華民族の根であり魂であり、世界が激動する中で動揺しない上での基盤である」、「中国大地に立脚し、中華文明を語り、世界に中国のイメージを伝えるべきである」、「中国はいかなる文明であり、いかなる国家であるかを語り、中国人の宇宙観、天下観、社会観、道徳観を語り、世界に中国、中国人民、中華民族を知らしめよう」と語ったと紹介されています(5月28日新華社)。落ち着き払った、自信に満ちた習近平の姿を彷彿させるものがあります。
 6月20日付けの人民日報は、この集体学習で習近平が「中華文化は和諧を尊び、中国の「和」の文化は天人合一の宇宙観、協和万邦の国際観、和而不同の社会観、人心和善の道徳観を内包している」と述べたことを受けて、これら4つのテーマに関する4つの文章を紹介しています。また、同日付の光明日報は、習近平が「中国はいかなる文明であり、いかなる国家であるかを語り、中国人の宇宙観、天下観、社会観、道徳観を語り、世界に中国、中国人民、中華民族を知らしめよう」と語ったことを受けて、中央党校習近平新時代中国特色社会主義思想研究中心の曹潤青研究員署名文章「中華文明における「文明」意識の独自性」(中国語原題:"中华文明独特的"文明"意识")を掲載しています。
 私はかねてから、中国の「和」と日本の「和」の根本的違い(日本の「和」は個人が集団に埋没する・させられる「和」であるのに対して、中国の「和」においては個人が自らを持しながら集体に尽くす「和」であるという違いがある)、それぞれの歴史・文化に源泉を持つ欧米の個人主義と中国の集体主義との根源的違いについて考えることがありました。曹潤青文章はこの二つの違いについて鮮やかなまでに解き明かしています。本当に「目からうろこ」でした。高度に専門的な内容の文章を正確に訳す自信はないのですが、なんとしてでも皆さんに紹介したい一心で訳してみました。
 私たちのように海外(主として欧米)の思想を受け売りするのとは異なり、中国は自らが育んできた「中華文明」に自信を持ち、その精髄を今日に活かすことを基本的スタンスとしていることをつくづく実感させられます。この自信こそが、厳しい米中対決にも平常心で臨むことを可能にしているのだと改めて思い知った次第です。

 長い歴史のプロセスの中で、中華民族は源遠流長、博大精深、自成一格の中華文明を創造した。中華文明は人類文明発展の源泉の一つであり、世界史上唯一の連続的発展を実現した文明体でもある。中華民族の文明に対する理解及び実践上の基本的立場には以下のような鮮明な特徴がある。
 第一、人文主義に対する重視である。中華文明の立場から見るとき、文明はまず、人が神を離れ、天地の中における自立自主自為の存在になったこと、つまり人の自らに対する自覚を意味している。世界の大多数の文明は宗教的文明であるが、中華文明はこれとは強烈な対比をなしており、もっとも早く「以神為本」から「以人為本」への転換を実現し、人を以て中心となす人文の立場をうち固めた。夏商の時代にはなお鬼神崇拝の原始信仰をとどめていたが、西周の時代には人文主義の思潮を生み出した。この思潮は人神関係に対して思考を加え、両者の関係を再構築し、神を人の後ろに置き、人が神に代わって文明の中心になった。儒家は西周時代の人文的立場を継承し、「鬼神を敬して遠ざける」観念を提起し、文明の境界を属人的世界内部に限定し、鬼神が代表する宗教システムを外部世界に置き、存在するが論じない立場を明確にした。
 中華文明の基本である人文的立場の影響は各方面に広範囲に存在するが、もっとも深遠な影響は次の二つの面に現れている。一つは、中華文明が終始関心を示すのは人の現実世界であって彼岸の世界ではないことである。そこから生まれるのは中華民族の現実世界に対する強烈な参与意識であり、そこから中華民族の現実主義的傾向と実践精神が生み出される。もう一つは、中華民族が終始人を以て文明構築の尺度とすることである。人の有限性を承認する基礎の上で、天地の心をなす人の独特の地位を肯定し、人の眼光から出発し、人を標準とすることから出発して、主観的客観的世界を認識し及び改造し、かくして中華文明をして各領域において強烈な人文的関心と人的色彩を表現せしめることとなった。
 第二、道徳的自覚に対する尊崇である。中華文明の人文主義の表れが人の自らに対する覚醒であるとするならば、中華文明の道徳中心主義がさらに表していることは、人の自らに対する覚醒が人の欲望、本能、情感、理性その他に対する覚醒ではなく、主として人自身の道徳意識に対する覚醒であるということである。その点から見るとき、人文主義と道徳中心主義とは一にして二という関係であり、両者は本質的に中華文明という一体における二面を構成している。さらにいうと、中華文明の立場から出発すれば、文明と野蛮との区別は、古代ギリシャにおけるような理性または知性の自覚の上に成り立つものではなく、人の徳性の自覚の上に成り立つものである。中華文明が文明意識を育む上で道徳的自覚が優先的地位を備えるという歴史的出発点により、中華文明に関していう限り、道徳は多面的な文明における一面ということではなく、文明全体が成り立つ根本的標準であり、中華文明の基礎及び中心であって、その地位は、宗教的文明において宗教が占める核心的地位に類似するものである。道徳が宗教に代位していることこそ、中華文明意識及び文明的立場の独自性を表している。
 歴史的に見るとき、西周人文主義思潮の誕生は、人を以て中心となす人文的立場の誕生を促したことに加え、「敬徳保民」という伝統的徳性の誕生をも促した。孔子は三代の歴史特に西周の歴史の総括の上で、「仁」という概念を以て三代の伝統的徳性に対する高度の総括を行い、道徳を以て中心となす中華文明の根幹を確立した。その後は、循道立徳という文明の方向性を掲げて複雑な道徳的規範システムを形成する流れと、道徳を根幹として道徳的意識と道徳的要求が社会の各分野に浸透する流れが続いた。前者に関しては、仁義礼智信を代表とする「五常」と孝悌忠信礼義廉恥を代表とする「八徳」を全社会が奉じる道徳的準則が社会の安定とその安定を支えることに確固とした基礎を提供した。また、後者に関しては、政治上の「道之以徳、斉之以礼」の王道観、経済上の「義理之辨」「以義為利」の利益観、治理上の「以徳服人」を強調し「以力服人」に反対する教化観、世界秩序において「協和万邦」「各得其所」を強調する天下観、個人生活においては「人以為己任」「修身為本」の修養観などがある。これらの徳目は、道徳によって社会生活を調節、規範する中華文明の基本的立場と考え方を鮮やかに反映している。
 第三、倫理本位に対する強調である。中華文明における人文的覚醒は人の個体としての覚醒ではなく、群体としての覚醒である。中華文明から見るとき、文明は人の群体に対する知覚によって誕生しており、したがって、中華文明が一貫して強調するのは、個人の権力ではなく、群体の価値であり、個人の意義及び価値もまた群体の中において説明されることが求められる。中華文明という環境の中では、このような群体本位の強調は倫理本位の具体的な表れである。さらに具体的に説明すれば、中華文明においては、人は常に様々な倫理関係の下にあり、様々な倫理的役割を演じているのであって、様々な倫理的責任を担うことを通じて他者と緊密な関係を構築することにより、様々な規模の群体を形成する。それらの群体の中では君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友がもっとも重要な「五倫」と見なされ、群体が成り立つ上でのもっとも基本的な五種類の関係であり、身、家、国、天下という4つのレベルの構造もこの基礎の上で確立することができるのである。
 中華文明が高度に強調する人倫及び和諧が実質的に表しているのは群体という価値に対する重視である。中華文明の視野のもとでは、群体価値の実現はすなわち和諧倫理関係の達成であり、それは主として個人が倫理責任を担うことに立脚しているのであり、個人が権力に対して主張し、要求することに立脚しているのではない。正にこれが故に、中華文明は早くから他者を重視し、責任及び義務を先にする倫理道徳意識を育み、倫理本位と徳性伝統とが高度に結合することとなった。その後、このような倫理道徳意識は、実践において、個人が自らと家、国、天下等との関係を処理する日常の実践の中で広範かつ普遍的に体現されることとなり、強烈な家国に対する感情と天下を担う意識となって表出するようになったのである。家、国、天下は規模こそ異なるが、根本においてはすべて、倫理関係の調節、すなわち倫理的責任に対する規定及び担当を通じて群体秩序を維持、発展するものであり、したがって、中華文明においては、家、国、天下は倫理関係が段階的に拡大していく現実政治的表現形式であり、斉家、治国、平天下は内在的に統一した連続的発展である。このような文明発展の脈絡に従い、倫理本位の立場が中華民族の思考様式を根本的に形作り、事物の普遍的関連、事物の変化発展に関心を注ぐ思考性を養い、中国人独特の世界観、価値観、人生観を形成してきたのである。
 概括的にいえば、人文主義という人間に対する関心意識、道徳至上という内在的超越的立場及び倫理責任指向という共同体原則は、中華文明のうちにあるものをすべて包括することはできないものの、中華民族文明意識のもっとも基本的な要素を構成しており、中華民族が蕩々たる歴史の奔流の中で終始足下を固めることができる「文明の決定的要素」を凝集している。「剛柔交錯、天文也;文明以止、人文也。観乎天文、以察時変;観乎人文、以化成天下」《周易・賁卦・彖辞》。中華文明の文明意識は人文化を以て理想とし、人格の養成及び人類の和諧を以て究極的目標となし、種族、地域、宗教及び文化の境界を越えた性格を顕示し、全人類が追求する共同的価値を内包している。