(以下の文章はある雑誌に寄稿したものです。)
 ロシアがウクライナに侵攻したことは、私にとって大きなショックだった。対イラク戦争以後のアメリカの傍若無人かつ世界を股にかける侵略戦争・武力行使のたびに、ロシアは中国とともに、アメリカの行動が国連憲章に違反すると厳しく批判してきた。また、「アメリカ一国主義」に凝り固まったトランプ政権及び、国際主義を掲げつつも本質的には「アメリカの利益実現」を中心に置く、パワー・ポリティックスの発想にしがみつくバイデン政権の対外政策に対しても、ロシアは、中国とともに、国連を中心とし、国連憲章・国際法に基づく民主的な国際関係の構築という主張を対置させてきた。要すれば、プーチン・ロシアは国連・国連憲章重視を標榜しかつ実践してきたのである。それを知り、評価してきた私にとって、今回の行動は首肯しうるものではなかった。この点はまずはっきり指摘しておく。
 また、私はロシア問題の専門家でもない。かつて外務省にいたときに在ソ連大使館で2年間勤務したこと、また、中国問題を専門とする私にとって中ロ関係は常に観察対象であることから、ロシアの対外関係にも興味を持ってフォローしてきたという程度のバックグラウンドしかないことはあらかじめ断っておかなければならない。

1.「ロシア批判」に共通する問題点

 ロシアのウクライナに対する侵攻が始まってから、私は内外の分析・見方に注目してきた。私の目にとまった文章は限られているが、その範囲内では2つの共通した特徴を読み取ることができる。  一つは、いわゆるロシア専門家と言われる人々は、内外を問わず、総じてロシアに対して元々批判的であり、したがって、今回の問題に対しても「ロシアが悪い」という前提に立って持論を展開しているということである(ちなみに、『マスコミ市民』5月号に掲載された東郷和彦氏の冷静かつ明晰な分析は極めて例外に属するというのが私の強い印象である)。
 しかし私にいわせれば、結論先にありきの文章は、そもそも「分析」という名に値しない。有り体に言えば、この類いの文章に共通するのは、自らの主張を裏付ける(補強する)事実関係は取り上げるが、自分の主張とは反する(都合が悪い)事実関係は切り捨てる(見て見ぬふりをする)というご都合主義である。
例えば、後で取り上げるように、今回の問題を理解する上で絶対に見逃してはならないのは、NATOの東方拡大がロシアの安全保障を20年以上にわたって脅かし、しかもウクライナ(地政学的にロシアの喉口に相当する)にまで及ぼうとする事態に立ち至っている、という歴史的事実である。しかし、ロシア批判の「分析」の中でこの問題を取り上げたものは、寡聞の故かもしれないが、私が目を通した限りでは、一つもない。
 もう一つの特徴は、ロシア・ウクライナ問題を歴史的視野の下で捉える視点が希薄、というより欠落した分析が多いということである。しかし、すべての国際問題がそうであるように、ロシアのウクライナに対する侵攻という今回の問題を正確に評価する上では、「なぜ今回の事態が生まれたのか」という視点は絶対に欠かすことができない。
それはとりもなおさず、歴史的視野の下でこの問題を捉えるということである。もっと具体的にいえば、「ロシアはなぜ、自らの対外政策上の立脚点である国連・国連憲章重視の立場と背馳する行動を選択するに至ったのか(選択せざるを得ない状況に追い込まれたのか)」と設問することである。私が以下において行うのはこの設問に即して、先行諸文献から得た知識を整理し、理解を深めることである。

2.ロシアとウクライナの歴史

(ウクライナの民族構成)
 1917年のロシア革命以前の歴史については、東郷和彦氏が分かり易く説明しており、私も多くを学ぶことができた。東郷氏の指摘を私なりに咀嚼した上で、ロシアとウクライナの今日の対立を理解する上で私が重要だと考えるのは、ロシアとウクライナ(及びベラルーシ)はスラブ民族として「兄弟関係」(プーチン)にあるが、ウクライナ西部は独自のアイデンティティを持ち、ロシアとアイデンティティを共有する東部とは異なることである。
(レーニンの「民族自決権」承認)
 ロシア革命以後に関していえば、ソ連特にレーニンの民族政策に大きな問題があった、とするプーチンの指摘を無視することはできない。簡単に言えば、レーニンは、「民族自決権」を一般的原則として認めただけではなく、ソ連邦を構成する諸民族にも「民族自決」(=独立)の権利を認め、ソ連憲法にも規定した、ということだ。
私はかねてから、レーニンの主張・政策の中でも、「民族自決権」の承認は世界的に先駆的(第一次大戦で指導的役割を果たしたアメリカのウィルソン大統領が「民族自決権」を唱道したのはレーニンに対抗する意味もあったとされる)であり、高く評価してきた。したがって、プーチンがレーニンの民族自決権擁護の立場を強く批判する発言に接したときには驚いたし、意外でもあった。
 しかし、プーチンからすると、民族自決権を承認する規定がソ連憲法に入っていなかったならば、1991年のソ連邦崩壊と諸民族共和国の独立という事態を招くことはなく、今日の事態はそもそも起こりえなかった、という理解になる。同意するか否かは別として、プーチンの主張に一理あることは認める必要があるだろう。
(「安全保障の不可分性」原則)
 1970年代にいわゆる米ソ間の「デタント」が成立した背景のもと、1975年の全欧安全保障協力会議(CSCE)ヘルシンキ宣言は、他国の安全保障を損なう形で自国の安全保障を一方的に追求してはならないことを約束したいわゆる「安全保障の不可分性」原則を定めた。ソ連崩壊後の欧州安全保障協力機構(OSCE)首脳会議でも、この原則は「イスタンブール首脳宣言」(1999年)及び「安全保障コミュニティを目指すアスタナ記念宣言」(2010年)に盛り込まれ、再確認されている。
ソ連邦解体だけでも深刻だったのに、ワルシャワ条約機構を構成していた東欧諸国という緩衝地帯まで失ったロシアにとって、この原則は自国の安全保障を確保する上で死活的なものであり、西側諸国にこの原則の遵守を要求することは当然のことである。
 ソ連が解体崩壊していく過程を目撃した当時の西側諸国は、ロシアの安全保障に対する懸念を十分に理解していた。例えば、統一ドイツの成立後、ドイツは旧東独にNATO軍を展開しないという配慮までしていた。  しかし、そのような対ロ配慮は長続きせず、アメリカ以下のNATO諸国が明確にコミットした「安全保障の不可分性」原則に背馳するNATOの東方拡大が5回にわたって行われた。すなわち、1999年にポーランド、チェコ、ハンガリー、2004年にルーマニア、ブルガリア、スロヴェニア、スロヴァキア、ラトビア、リトアニア、エストニア、2009年にアルバニアとクロアチア、2017年にモンテネグロ、2020年には北マケドニアと、NATO加盟国は16カ国から30カ国にまで膨れ上がった。
その結果、ロシアにとっての対西側正面の緩衝地帯は、ロシアと歩調を合わせるベラルーシを除けば、今やウクライナのみになっている。ロシアがウクライナの中立確保に血眼になるのは当然だといわなければならない。
(カラー革命)
 さらに、アメリカ以下の西側諸国は、旧ソ連邦を構成していた国々にも、これらの国々における「民主化運動」を支援する形で触手を伸ばした。これらの国々で起こった民主化運動を総称して「カラー革命」という。その中には、2003年のジョージアにおけるバラ革命、2005年のキルギスにおけるチューリップ革命と並んで、2004年のウクライナにおけるオレンジ革命が含まれる。2022年にカザフスタンで起こった政治的混乱も、名前こそつけられなかったが、ロシアでは西側諸国が使嗾したカラー革命という受け止めが支配的である。
(親西側勢力の支配と国内分裂)
 ウクライナは、オレンジ革命後も政情が安定せず、特に2014年のいわゆるウクライナ騒乱(マイダン革命)によってヤヌコヴィッチ大統領がロシアに亡命し、西部を地盤とする親西側政権が支配を確立した。
これに対して、ロシア系住民が多数を占めるクリミアでは住民投票でロシアへの帰属を選択した。また、東南部のドネツク及びルガンスク2州も住民投票を行って「人民共和国」の成立を宣言し、これを鎮圧しようとしたウクライナ政府との間で内戦状態となった。ロシアとウクライナは、フランスとドイツの仲介を得て2州での停戦にこぎ着けた(ミンスク合意)。しかし、ウクライナの合意不履行もあって、ロシアとウクライナの対立は深まっていった。
(ゼレンスキー政権とバイデン政権)
 2019年にウクライナで行われた大統領選挙で、NATO加盟を公約に掲げたゼレンスキーが当選した。彼はコメディアン出身で政治にはズブの素人であり、その政治手腕に対しては当初から、内外から厳しい疑問符がつけられていた。案の定、ゼレンスキー政権はこれといった実績を挙げることができないまま、支持率はじり貧をたどった。
ゼレンスキー政権は、ミンスク合意履行に応じないだけではなく、ロシア語使用を制限するなどロシア系住民に対する締め付けを強化していった。また、ウクライナのNATO加盟に理解を示すバイデン政権に対する傾斜を強め、2021年9月にアメリカを公式訪問するなど、ロシアとの対決姿勢を鮮明にすることで国内支持基盤を回復しようとした。

3.ロシア:外交努力から軍事侵攻へ

(外交努力)
 ウクライナが対米傾斜を強めることに危機感を深めたロシアは、外交努力で局面の打開を図ろうとした。すなわちロシアは、2021年12月にアメリカとNATOに対してロ米間及びロシア・NATO間の安全保障に関する条約・協定案を提示した。ロシアはこの中で、西側がウクライナについて取ろうとしている行動はイスタンブール宣言及びアスタナ宣言に盛り込まれた「不可分の安全保障」原則に反するものであることを指摘し、西側がこの原則を遵守することの法的確認を求めたのである。しかし、アメリカもNATOも言を左右にしてロシアの提案に応じようとせず、ロシアの外交努力は挫折に終わった。
(軍事侵攻)
 以上の歴史的経緯を踏まえれば、「ロシアはなぜ、自らの対外政策上の立脚点である国連・国連憲章重視の立場と背馳する行動を選択するに至ったのか(選択せざるを得ない状況に追い込まれたのか)」という設問に対する答を、次のようにまとめることができるだろう。
 ロシアは、西側優位の国際秩序に固執するアメリカに対抗して、中国とともに、国連・国連憲章を中心とする民主的な国際秩序の構築を主張してきた。ロシアにとって、ウクライナ軍事侵攻は自らの主張・立場と根本的に矛盾する極めてハードルの高い、危険な選択であって、是非とも回避したかったであろうことは疑問の余地がない。
しかし、アメリカはウクライナのNATO加盟を認めないことに応じなかった。ロシアとしては、このままではウクライナのNATO加盟という最悪の事態にいずれ直面せざるを得なくなると判断するしかなかった。しかも、アメリカ・NATOは、ウクライナがNATO未加盟のもとでウクライナへ派兵する可能性は否定していた。ロシアとしては、このわずかなタイミングを捉えてウクライナ侵攻を敢行し、ウクライナからNATOに加盟しないという確約を取り付けるしかないと判断したと思われる。

4.結論:事態打開のカギ

 遠い過去にまで遡るまでもなく、アメリカ以下の西側諸国がソ連・ロシアとの間で約束した「安全保障の不可分」原則を遵守して東方拡大を行わなかったならば、ウクライナがロシアと西側との激突の場となることはなかっただろう。百歩譲って5回にわたる東方拡大という既成事実には触れないとして、アメリカ・NATOがウクライナについては手をつけないと、ロシアに対して約束していれば、ロシアがウクライナに侵攻するという事態を招くことにはならなかったはずである。
 ロシア・ウクライナ戦争は泥沼化の様相を呈している。しかし、今も事態打開・問題解決の可能性・道筋は存在する。ゼレンスキー政権が国民・国家の安全と平和を最優先すること、アメリカ・NATO諸国がロシアの弱体化に執着せず、ウクライナの中立性(NATO非加盟)を保障すること、この二つを最優先する方針に切り替えてロシアとの外交的問題解決に本腰を入れれば、ウクライナ侵攻に伴う重い負担にあえぐロシアは必ずや積極的に呼応する。問題の平和的解決のカギはアメリカが握っている。