最初に白状しますが、私は経済問題の門外漢であり、ましてや農業経済という専門分野に関してはズブの素人です。そんな私が、「中国農業を取り上げては?」という李泳采先生のお誘い(?)に乗ってしまったのは「身の程知らず」もきわまっています。案の定、第1回のレジュメを準備する上で早くも自分の尋常でない「勇み足」のほどを思い知らされています。
 とは言え、"中国を内側から理解しなければ日中関係を正しい方向に導くことはできない"ことを確信し、NPAのお話しの中でもくり返しそのことを強調している私にとって、中国経済について無知のままで済ますことは到底許されることではありません。特に、中国農村は中国の思想・文化・伝統の源であり、中国共産党の出自でもあります。このチャンスを逃したら必ず後悔することになると思い、敢えて正真正銘の「八十の手習い」に挑戦することを決意した次第です。よちよち歩き、暗中模索、七転び八起きとなるとは覚悟していますが、皆さんとともに学習しつつ高みを目指してみたいと思います。至らないことばかりだとは思いますが、辛抱強くお付き合いくださることをお願い致します。
 「改革開放と農村」というテーマについての今回のレジュメは、「Ⅰ 改革開放」、「Ⅱ WTO加盟と改革開放」、「Ⅲ 中国農業と改革開放」という構成になっています。
まず、「Ⅰ 改革開放」では、「改革開放」政策の歴史的な沿革を踏まえる(「1.「改革開放」とは?」)とともに、2018年8月に国家統計局が発表した報告に基づいて、改革開放の下で達成された主な成果を簡単に紹介しています(「2.改革開放のマクロ的成果」)。次に、「Ⅱ WTO加盟と改革開放」では、中国が改革開放政策を推し進める上で、WTO加盟交渉及びその中で修得した知見が極めて重要な役割を果たしてきたことを確認します。
中国のWTO加盟実現は2001年12月です。重要なことは、早くも1986年に中国は自ら進んでWTOの前身であるGATTに加盟申請を行ったという事実です。中国の改革開放は国際経済の荒波に身をさらし、その中で身を切る努力を行わなければ成功を勝ち取ることはできない、という中国の覚悟のほどを窺うことができます。
加盟交渉はGATT・WTOとの間で15年にも及びましたが、この交渉の中で中国は国際通商ルールを学びつつ、中国経済の改革開放の進め方・方向性を修得していきました。また、次回に取り上げることとしている「社会主義市場経済体制」についても、その建設目標が提起されたのは1992年の第14回党大会であり、「市場と政府との関係のあり方」という中心問題はもちろん、社会主義市場経済体制のもとにおける金融、財政、外為、外貿、企業等の様々な制度のあり方についても、この交渉における学びが大きな役割を果たしました。
 「Ⅲ 中国農業と改革開放」では、まず建国後の中国の農業政策を通観します(「1.農業政策の歴史」)。 建国直後の「一窮二白」の中国は、ソ連に倣った重工業建設を土台とした計画経済建設路線を採用しました。これが第一段階であり、1949年から1977年までの30年弱です。この路線は、ソ連がそうであったように、農業・農村・農民を搾取して経済建設に必要な原資を強制蓄積し、その原資を重工業基盤建設に振り向けるという「スターリン・モデル」をコピーすることにほかなりませんでした。1920年代のソ連と同じく、1950年代の中国も世界経済から遮断されていましたから、やむを得ない選択だったというべきでしょう。
農業・農村・農民に対する搾取を制度的に可能とするために、中国は、やはりソ連(ソフホーズ・コルホーズ)に学んで、農業集団化運動(その行きついた先が大躍進・人民公社運動)を強行し、農業の投入、生産、分配を計画化し、農産物については国家による統一購入・統一販売を断行しました。また、膨大な農村過剰人口が都市に流入することを防ぎ、都市部の余剰人口をも強制的に農村に送り込み、定住させるべく、都市と農村を分断し、二元化する厳格な戸籍制度も導入しました。
毛沢東の号令の下で開始された大躍進・人民公社運動は悲惨な結果に終わり、自然災害と人為災害が合わさって数千万人の死者を生んだともいわれています。責任をとった毛沢東が一線を退き、劉少奇、周恩来等が中心になって進めた調整政策によって中国経済は立ち直るかに見えました。しかし、この調整政策の中に"ソ連修正主義の萌芽"を嗅ぎ取った毛沢東は文化大革命を発動し、中国は再び混乱に陥りました。毛沢東が1976年に死亡してかじ取りを失った文化大革命は1977年に「4人組」逮捕によって幕を閉じましたが、10年以上に及んだ「内乱」による中国経済に対する痛手はあまりにも大きく、中国経済の立て直し・根本的な見直しは待ったなしの課題となっていました。
文化大革命期に2度にわたる失脚を余儀なくされた鄧小平が全面復活し、同じく復活を遂げた陳雲、李先念等とともに、「改革開放」を掲げて中国経済の全面的立て直しに取り組んだ時期が第二段階であり、時期的には1978年から2003年頃までの約25年間となります。「改革開放」路線を打ち出したのは鄧小平ですが、文化大革命終了後の中国農業における改革は、最初から今日に至るまで、一貫して農民の実践が先行し、それを中央が後追いするパターンで進められてきたのが一大特徴をなしています。中国を「全体主義」「専制主義」とレッテル貼りするのは日本をはじめとする西側では常識に属しますが、"中国農業改革の担い手は終始農民自身だった"という事 実は、そうしたレッテル貼りがいかに皮相的な見方であるかを如実に物語っています。
私は1980年から1983年まで中国大使館で働いていました。今でも鮮明に思い出すことの一つは、安徽省や四川省の農民たちが中央の政策(集団化)に違反していることを承知の上で密かに始めた自家農業経営が実績を上げ、それに注目した万里(安徽省)、趙紫陽(四川省)等の地方指導者がそれぞれの省で奨励して中央の注目するところとなり、最終的に「世帯別生産請負責任制」、人民公社廃止という中央公認の政策となっていったという、中国独特の政策決定プロセスを目の当たりにしたことでした。
先取りでお話しするのですが、「農民の実践先行」パターンは、今日の農業改革政策においても公認され、奨励されています。社会主義中国では土地は国有であり、私有は認められません。しかし、農民の農地請負に関する権利(「承包権」)を法的権利として公認し、経済的に活用する政策が、今日、「社会主義市場経済体制」のもとで積極的に模索されています。この政策においても、農民の創意工夫が先行することを積極的に奨励し、実践によって有効性が証明されたものを中央が政策的に洗練していく方向性を追求しています。
話を元に戻します。「世帯別生産請負責任制」の導入は、国家による食糧買い上げ価格引き上げという政策と相まって農民の働く意欲を引き出し、中国の食糧生産量は1978年の3.05億トンから6年後の1984年には4.07億トンへと急増しました。ただし、この成果に安心した中央の気の緩みもあったと私は個人的に思う(中央は1992年に農業問題を専門に扱う最初の年初「1号文件」を出し、1986年まで農業に特化した「1号文件」を出すのですが、1987年以後ストップし、第6回目の農業に係わる「1号文件」は2004年と、実に18年の間が空きました)ですが、食糧を含む農産物について政府が介入するシステムと政府が指向する農業の市場経済化(根本は農産物価格の市場による決定)システムとを調和させることは難しく、1992年に打ち出された「社会主義市場経済体制」改革のもとで著しい成長を遂げる第二次第三次産業に支えられた都市部経済の躍進とは対照的に、食糧生産は低迷、減少し、農業・農村・農民(いわゆる「三農」)問題が深刻化していきました。
深刻な三農問題打開の先鞭をつけたのも安徽省の「法破り」の実践でした。安徽省太和県は1984年に密かに農業税税改革の実践に乗り出し、その実績を高く評価した朱鎔基首相が2000年に安徽省を全国農村改革の「試点」省に指定し、その実績を踏まえて2004年には、農民の収入を増加させる政策を打ち出しました(2004年の「1号文件」)。指摘したように都市経済の社会主義市場経済体制改革は1992年に開始されましたが、農業・農村・農民にとっての社会主義市場経済体制改革が本格化するのは、実に12年後の2004年からです。これが第三段階になります。その重点は農業保護と農業市場改革を通じた三農問題に対する本格的取り組みであり、「都市と農村の二元構造」という中国経済最大の問題を解決するための取り組みということになります。
2001年のWTO加盟は中国農業のさらなる改革及び対外開放を迫るものです。「2.WTO加盟当時の中国農業」は、2000年及び2002年に執筆された文章を紹介することで、当時の中国側の問題意識の所在を確認しておこうとする試みです。中国はWTO加盟に当たって、農業関連の非関税障壁(例:動植物検疫規則)を撤廃し、国内農業の保護は関税措置に限定するという思い切った対外約束を行いました。したがって、米、小麦、トウモロコシ、大豆など、対外競争力の乏しい土地集約型農業に対する甚大な影響が懸念されたのをはじめとして、農業を強靱な産業として育成することの難しさが指摘されました。特に従来の土地制度及び戸籍制度に抜本的改革を講じることの必要性が訴えられたのもこの時からです。
ところが中国専門家によれば、WTO加盟から現在に至る中国農業は総体として安定して推移し、加盟当時に心配されたような、農民の大規模失業を含む深刻な事態は起こっていません。それどころか、対外競争力がないことが懸念された土地集約型農産物を含めて好調を維持してきました。そのために、中国農業の将来性に対する楽観論まで提起されるに至っているといわれます。
しかし、レジュメで詳しく紹介する清華大学の葉興慶教授の論考「WTO加盟後の中国農業の発展態勢と戦略的調整」(2020年6月2日)はこのような楽観論を厳しく戒めます。彼は、①価格差駆動型輸入圧力、不足駆動型輸入圧力、伝統的に対外競争力を持っていた労働集約型農業における労働力コストの上昇等によって農業の対外依存度が上昇していること、及び②人多地少という中国農業の資源賦存度の根本的制約を挙げて、中国農業のこれまでのあり方に対する転換圧力が強まっていることを指摘します。
また葉興慶は、都市と農村という二元構造を解消するために従来の農業強奪から農業補助への根本的転換が迫られていることを背景に三農問題解決のための大規模な投入が求められている一方、開放型経済体制構築という国家戦略の下で中国農業も開放型農業に移行が迫られているという時代的要請に直面しているという根本的な矛盾も鋭く指摘しています。開放型農業のもとでは、土地集約型農業のみならず労働集約型農業も大きな試練に直面することは避けられないというのです。
葉興慶は以上の厳しい認識に基づいて、今後の中国農業に戦略的調整が求められていることを指摘します。レジュメでは彼の主張を詳しく紹介していますが、彼の主張の要点を私なりにまとめると、次のようになります。
*保護するべき重点農産物を確定する一方、それ以外の農産物については市場原理に委ねる。
*従来は各省の判断に委ねていた生産地域構造を、今後は国家的判断に基づいて戦略的に調整する。
*コスト、価格、品質、特色などの要素について、中国農業の競争力を高める方法を追求する。
*従来の発想を転換し、国計民生に対する敏感性、国際競争力、WTO農業改革の方向性等を重視した新しい農業支持保護制度を構築する。
*輸入先の多元化、輸入量の均衡化、農業生産者に対する衝撃制御等を通じて安定的輸入メカニズムを構築する。
*国外農業資源・市場に対する掌握力・影響力を強化する。
 葉興慶は以上の諸提案を行った上で、開放政策堅持の下でも、中国の人口及び市場の馬鹿でかい規模を考慮して、万全な食糧安全保障能力を構築する重要性を指摘します。しかし、それは狭義の「自給自足」を主張するものではなく、国際貿易を通じた食糧の安全供給をも含むものであり、そのためには国際農産物市場に対する中国の影響力・発言力を高めることが必要である、とする主張にもつながっています。
 私自身は農業を貿易自由化の対象に含めること自体に一貫して懐疑的です。農業の自由化を強力にリードしてきたのは、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの農産物輸出国です。しかし、各国の歴史、文化とも密接に結びついている農業を第二次産業、第三次産業と同列において議論すること自体がおかしいと思うのです。日本農業・農村の衰退と荒廃を必然にしたのは、政府・自民党の無為無策によるものです。葉興慶論文からは、中国農業に関したそういう問題意識を窺うことはできません。しかし、皆さんにも関心が共有されるのであれば、この機会に「農業の自由化の是非」についても話し合えたら幸いです。
今回のレジュメは以下の通りです。↓

改革開放と農業