私は、国際政治に関する米欧で圧倒的主流のパワー・ポリティックスという考え方に根本的な疑問を感じています。特に21世紀に入って、①国際人権規約を中心とする国際人権法の発展で人権と尊厳が国際法規範として確立し、②国際的な相互依存がますます深まり、不可逆的に進行し、③気候変動をはじめとする地球規模の諸問題が人類の生存そのものを脅かすに至っている状況を前にする時、ゼロ・サム的発想に立つパワー・ポリティックス的発想はもはや過去の遺物であることを痛感するのです。
 パワー・ポリティックスのもっとも本質的な要素は力、特に軍事力の支配であり、最終形態は戦争(軍事力行使)です。しかし、人権・尊厳の尊重と戦争とは両立しません。国際相互依存のもとでは、大規模な戦争は直ちに国際の平和と安定を根底から崩します。そのことは、「台湾海峡有事」を考えれば直ちに理解できることです。地球規模の諸問題は戦争のために資源を浪費することを許しません。要するに、21世紀国際社会が解決・直面することを求める諸課題に対して、パワー・ポリティックスはもはや答を用意することができないだけではなく、否定的・破壊的な役割しか担えなくなっているということなのです。
 私は以上の判断に基づき、かなり早くから、「21世紀こそ平和憲法の出番」であることを提起してきました。周知のとおり、憲法の前文は、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」、「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」と述べています。私は、この立場・思想を「脱パワー・ポリティックスの国際民主主義」と名づけ、日本外交は平和憲法の立場・思想に基づいて21世紀の国際社会が直面する諸課題に対して積極的に取り組んでいくべきだ、と主張してきました(『私の平和外交論』(1992年8月30日 新日本出版社)、『大国日本の選択』(1995年8月5日 労働旬報社)など)。
 このように脱パワー・ポリティックスの必要性・必然性を確信する私にとって、習近平時代に入ってからの中国外交(「習近平外交」)は正に「お株を奪われた」思いを味わわされるものです。特に、"合作共嬴(ウィン・ウィン)を核心とする新型国際関係の建設"という提起は、ゼロ・サムのパワー・ポリティックスの根本的否定であるとともに、国際関係のあり方に関するコペルニクス的発想の転換・革命的な理念提起といってもなんら誇張ではありません。
 残念でならないのは、中国から発信されている革命的な提起が国際的に注目されるに至っていないことです。それどころか、私たちが日々目撃するように、"習近平・中国は大国主義・覇権主義・拡張主義を追求している"という批判・非難がちまたにあふれています。どうして中国のメッセージは世界に伝わらないのでしょうか。私が考えるに、いくつかの原因・ハードルがあると思います。
 第一は、中国語が世界語になっていないために外部世界に伝わりにくいという問題があります。仮に中国語が英語と同じような世界語であったならば、中国の主張に対する注目ははるかに大きくなっていただろうと思います。
 第二は、"合作共嬴(ウィン・ウィン)を核心とする新型国際関係の建設"という提起に至る中国共産党の思考回路が優れてマルクス主義的、あるいは唯物弁証法的・史的唯物論的であるということです。米欧的思考回路の主流はプラグマティズムであるために、マルクス主義的な中国的思考回路を"はなから受け付けない"あるいは"拒否反応が先に立つ"という問題があります。
 第三は、習近平・中国は意識的に「マルクス主義の中国化」に取り組んでおり、中国の伝統文化・思想に今日的な息を吹き込む(意味を付与する)ことに努めているということです。マルクス主義的、弁証法的思考に違和感がないものであっても、中国の伝統文化・思想というハードルが待ち構えているということになるのです。
 これまでのお話でもそうでしたが、今回とりわけ中国側の文献に即してお話しするのは、中国側の考えを理解するのを難しくする以上の三つの原因・ハードルを少しでの取り除くことで、皆さんに中国共産党の外交思想に直に接していただきたいと考えるからです。
今回のレジュメを添付しておきます。↓

合作共嬴(ウィンウィン)