1月6日早朝、前日の中国のニュースをチェックしている中で、12月19日に紹介した陝西省西安のコロナ感染抑え込みの取り組みに関し、国務院聯防聯控メカニズム綜合グループ陝西工作グループの疫学調査組組長の雷正龍が、都市封鎖というもっとも厳しい対策を取る必要性について記者会見で説明しているニュースを見かけて引っかかるものを感じました。中国のコロナ「動態ゼロ」戦略のもと、武漢以来となる西安のまん延を抑え込む上では都市封鎖はやむを得ない措置・対策であるという受け止めが私の中にあったからです。しかし、中国のニュースをチェックした後、韓国・中央日報の日本語版をチェックしている中で、「第2の武漢日記に衝撃」と題する記事にぶつかって謎が解けました。この記事によると、西安在住のジャーナリスト・江雪が「長安十日」と題して、封鎖が続いている西安の市民生活への深刻な影響と「動態ゼロ」政策及び当局の対応のあり方に対する彼女の疑問について文章をWeChat(微信)に投稿し、中国国内で大きな反響を巻き起こした(特に反響が大きかったのは、診察を拒否されたために病院の外で流産した女性に関する記述)ということでした。「第2の武漢日記」とする所以は、武漢が封鎖された際に方方という人物が当時の武漢の状況について「武漢日記」と題して記したものを想起させるからです。江雪の文章が中国国内では大きな反響を引き起こし、それが雷正龍の説明(釈明というべきか)につながっていることは明らかでした。
 江雪氏文章に関してネットで検索したところ、中国の検索サイト「百度」ではヒットしませんでした。しかし、グーグルで検索したところ、台湾・中央社台北電が7日付で全文を転載するとともに、4日に江雪が掲載してから「内容違規」という理由でいったん削除されたものの、3時間後に再び閲覧可能となったこと、環球時報編集長の胡錫進が5日に「長安十日」の掲載を支持する主張を行うとともに、江雪の無事(中国語:'平安')を祈るとつけ加えたことを紹介していました。
 武漢で初動が後手に回って国際的な批判を浴びた苦い経験を持つ中央の対応は迅速でした。すなわち、1月6日、コロナ担当の孫春蘭副首相は会議を招集して、「医療関係で西安市民の苦情が多く寄せられている状況は極めて心が痛むものである」と指摘するとともに、「防疫コントロール上の問題点があぶり出されている」とし、「コロナ防疫自体が人の命を守るためであり、医療機関の最重要の職責は医療サービスを提供することである以上、いかなる口実を以てしても患者の診察を拒否することは許されない」と指摘しました。会議では、以下の対策が決定されました(1月7日付人民日報)。以下の対策が迅速に実行に移されていることも中国メディアが詳しく報道しています。
○重篤な患者に関しては、PCR検査証明の有無にかかわらず、優先的に受け入れる。
○透析患者、妊婦、新生児等、迅速な対応が必要な者のために指定医院を設ける。
○慢性病患者が必要とする薬については処方期間を長くするとともに、薬を自宅に届ける。
○各区は指定病院を定めて診察に責任を持つとともに、病人を医院に送り届けることについても地域が責任を持つ。
○関係医療機関は、救急患者の診察、手術、入院病室について万全の手配をする。
○救急電話120番が通じない問題については、総合的措置を講じて解決策を講じる。
○診察拒否で妊婦が死産を強いられた西安高新医院に関しては、調査解明の上責任者を処罰する。
 他方で同日付人民日報は、「「動態ゼロ」は動揺せずに堅持」と題する文章を掲載し、西安における患者発生数が顕著に減少しており、患者の発生は濃厚接触者あるいは濃厚接触者の濃厚接触者に限られるようになっている(感染経路不明者はいなくなった)事実を指摘して今回の都市封鎖措置が「正解」であるとした上で、「「動態ゼロ」とは「感染ゼロ」を意味するものではなく、早い発見、早い診断、早い隔離、早い治療を通じて地域的な感染の広がりの出現を絶つことである」と説明しています。そして、「コロナを前にして皆が同じ舟に乗っている。党の領導、社会主義制度の優越性、人民大衆の政策への支持協力、防護物質の充足、迅速な検査手段、有効な治療という前提のもとで、皆が心を合わせて行動することで勝利を展望することができる」と説いています。
 1月8日付けの新華社電によると、孫春華副首相は李克強首相の指示のもと西安に赴き、現地の状況を視察(中国語:'調査研究')した上で、次のように指摘しました。

 西安のコロナ患者は大幅に減っており、社会的には基本的に「ゼロ」となった。しかし防疫コントロール上はいささかも気を緩めることは許されず、ようやく出てきた成果を確実にするべきであり、流行再発を許してはならない。現下の工作上の重点は隔離地点の管理に移っている。西安は患者数が多く治療任務が重いので、5グループ432人からなる国家派遣の医療チームを3指定病院に送り込み、重症者、基礎疾患がある患者などの治療に当たらせている。120番電話が通じないという問題については、オペレーターを増員し、救急車も増やすなどの対応を取って需要に応えるようにする。
 また、妊婦が流産を強いられた事件に関しては8日、国務院聯防聯控メカニズムによる記者会見で、中国国家衛生健康委員会監察専門家の郭燕紅が次のように説明しました。
 コロナが始まってから、国務院聯防聯控メカニズムは再三にわたって、コロナ対策をしっかりやると同時に、正常の医療サービスも保障し、患者特に重篤な患者に対する治療はゆるがせにせず、診察を拒否するようなことは許されない、老年及び慢性病の患者には処方量をしかるべく多くし、基層医療衛生機関は予約診療や薬の送り届けなどを行い、コロナを理由にして診療停止、診察拒否指定はならない、等を要求してきた。
 西安で起きた問題(妊婦流産事件)は、医療サービス提供側における手抜き等の人為的なミスによるものである。陝西省等委員会と政府は調査チームを立ち上げてこの事件に対する連合調査を行い、然るべき対応を行う。国家衛生健康委員会は、他の省もこの教訓から学び、周到な工作案をつくって、コロナ期間中の正常医療サービス業務がいかなる影響も受けないようにすることを求める。また、個別の機関あるいは個人の問題を全体の問題と捉えてはならず、広範な医療従事者が果たしている貢献・奉仕を抹殺することも誤りである。
 郭燕紅の上記発言(西安の状況を一般化してはならないとするもの)については、河南省鄭州市や浙江省寧波市の病院が正常医療サービスの提供について万全を期した対応を行っていることを紹介する記事などで確認することができます。
 私個人の感想をつけ加えます。私は、中国が実行している「動態ゼロ」戦略は正解だと判断しています。中国を除くすべての国が抑え込みに失敗し、あるいは早々に抑え込み作を放棄し、「ウィズ・コロナ」が常識化していますが、今第6派を迎えつつある我が国を含め、「出口」戦略はまったくありません。そうした国々からすれば、中国の「赫々たる成功」は妬ましいものですらあり、それ故に様々な批判を浴びせることにもなっています。そうした屈折した心理状態にあるものからすれば、江雪「長安十日」は飛びつきたくなる「好材料」でしょう。つまり、「動態ゼロに固執する中国は一人一人の人権・尊厳をおろそかにして省みない」という批判を裏付けるものと映るからです。
 江雪の文章に関しては、環球時報編集長の胡錫進の評価がおおむね妥当な線だと思います。中国検索サイト「百度」に紹介されていましたので、要旨を紹介します。
 江雪の「長安十日」に対しては正反の評価が出ている。私も読んだ。作者が描いている出来事は細部にわたっておそらく真実だろう。他方、作者の素材の取り上げ方は明らかに選択的である。この選択性は彼女の価値観によるものであり、政治的動機に駆られたものではないだろう。江雪はおそらく西安市民の中でも悲しい感情がもっとも多い一人だろう。彼女からすれば、西安における唯一の真実は苦痛であり、希望がないということだろう。
 このような悲観的見方は恒久的に存在するのであり、楽観主義と英雄主義が存在し続ける限り、悲観主義も存在し続ける。知識分子の中には、自分の使命は人間の苦痛を記録することであり、そうすることのみが良心の表出だとする考え方がある。江雪の見方は社会生態の中で自然に存在するものなのだから、好き嫌いに関わりなく、「長安十日」の表述を認めるべきである。実際の状況もそうであり、この文章はネット上で誰でも見ることができる。中国社会は批判に対して開放と包容の態度を持つべきである。ネットが一つの声一色になるようなことを誰も願わないだろう。
 江雪の文章が遭遇した「一斉攻撃」についていえば、これも世論という場における一つの現象であり、彼女としては直視し、受け入れるべきだろう。また私は、彼女が心の準備があった上で発表したのだと信じる。
 ネット上では江雪がこの文章を発表してから公安の訪問を受けたという情報が流れたが、彼女本人がこれを否定し、自分は無事であると述べている。私も彼女が無事でいることを望む。(「武漢日記」の作者である)方方が無事でいるのと同じように。
 最後にいいたいのは、中国社会には多くの見方があり、悲観的な見方はその中の一部にすぎないということだ。中国の防疫コントロールに関しては肯定的な見方の方がはるかに普遍的である。なぜならば、中国の防疫コントロールの総合的効果は外部世界よりはるかに優れているという事実によって支持されているからだ。この事実は人々が様々な困難と悩みの日々を過ごすことに取って代わることはできないが、人々の集体理性は眠り込んでもいないし、目が見えなくなってもいない。国家的な防疫コントロールの成功と現実における具体的な問題とを恣意的に対立させ、一つのことで全体を覆い尽くすということがないようにすることは、いかなる立場に立つものであっても物事を描く出す際に踏まえるべき境界だろう。