改革開放時代の中国の指導者4人(鄧小平、江沢民、胡錦濤、習近平)を比べる時、習近平を他の3人の指導者と決定的に隔てるポイントは、習近平が中国の伝統文化・思想を重視する点にあるというのが私の強い印象です。「新時代の中国の特色ある社会主義」建設において、習近平が強調するのは、「マルクス主義の基本原理と中国の具体的実際と結合させ、中華の優秀な伝統文化と結合させる」ことです。「人民当家作主」は西側の「人民主権」概念に相当しますが、「以人民為中心」は中国の伝統的「民本」思想の中国共産党的表現とも言えます。
 11月29日付の人民日報は、「中国古代の民本経済観の継承と止揚-中国の特色ある哲学・社会科学の構築-」と題する、興味深い文章を掲載しています。筆者は、北京大学と上海財経大学の教授である叶坦と王昉です。"民本観は古代思想の中に豊富に見いだすことができる、しかし、歴史的社会的条件の制約によって、「民」は一貫して政治権力行使の客体であり続け、統治者の仁慈恩賜がある場合にのみ「民本」の実を享受できたのであり、中国革命を経て人民当家作主が確立することによってはじめて「以人民為中心」としての「民本」への止揚が実現した"とする文章です。要旨を訳出して紹介します。

 中華文明は、その数千年の歴史の中で、豊富な経済現象、経済実践、経済観念をもって、世界にはるかに先だって経済思想を育み、創造してきたが、民本経済観はその中の重要な一部である。以人民為中心の発展思想は古代の民本経済観の歴史的止揚の鮮やかな事例である。
 古代中国においては政治と経済は密接不可分であり、「経済」という言葉の本義は「経世済民」である。中国古代の民本経済観は、安邦定国に着眼し、「民生」を核心とし、富民、養民をもって基礎とした。周代の《尚書・五子之歌》における"民惟邦本 本固邦寧"は正に民本経済観に対する経典上の記載であり、論述である。
 「富民」は中国古代の民本経済観の重要な内容であり、中国経済思想として、ほとんどの流派の学説中に見いだすことができる。孔子は養民・富民・教民の説を唱えたが、富民とは"軽徭薄賦 蔵富于民"を求める意である。孔子は魯の哀公に対して、民と利を争うべきではなく、"省力役 薄賦斂 則民富矣""百姓足 君孰与不足"等の重要な思想を提起した。孟子は孔子の富民思想を継承し、「恒産」を提起した。今日的にいえば、"治恒産"とは、富民のために財産権の制度的保障を強化する必要を強調したものである。道家も富民を極めて重視し、"擾民争利"に反対した。老子は、"以百姓心為心""我無事而民自富" を提起し、"体恤百姓 与民休養生息"を強調した。これらの論述は古代の民本経済観の基本理念を表しており、民を本とし、百姓に豊かな生活を過ごさせることによってのみ、国家は長治久安できるとした。
 「養民」も中国古代の民本経済観の重要な内容であり、特に自然災害との対抗、救災救荒等に関連して頻出する。古代中国では、水害、干害、風霧雹霜、疫病、虫害が「五害」とされた。百姓の五害への抵抗を助け、太平の日々を過ごさせることは行政の重要な職責だった。《管子》は"故善為国者 必先除其五害"を提起する。古代中国では、各種災害に抵抗し、災害に備えることを重視し、独特の「荒政」制度を作り上げた。例えば、「常平倉」とは、災害に備え、穀物の価格を安定させるために設けた食糧倉庫である。このようなシステムは後世に大きな影響を与えるものとなった。"以工代賑"の救済策も古代民本経済観における「養民」理念の重要な体現である。すなわち、災害発生時に、行政は大規模な土木工事で雇用機会を造出し、経済社会の安定と発展を実現したのである。
 民本経済観には具体的な理想的な長期計画もある。《礼記》は"大道之行也 天下為公"の理想を提起し、"老有所終 壮有所用 幼有所長 衿寡孤独疾病者 皆有所養"の大同計画を描いた。孟子も仁政を施す理想郷を描いている("五亩之宅,树之以桑,五十者可以衣帛矣。鸡豚狗彘之畜,无失其时,七十者可以食肉矣。百亩之田,勿夺其时,数口之家可以无饥矣")。《礼記》が描いた「小康」社会は歴代中国人のドリームとなり、後世に深甚な影響を及ぼした。歴史がくり返して証明してきたとおり、民本経済観を堅持し、民をして休養生息させた時にのみ、経済発展を実現し、社会を安定させることができる。"文景之治""貞観之治"などは民本経済政策を励行した結果であった。
 唐宋時代以後、商品経済の発展に従って、民本経済観は継承されるだけではなく、さらなる発展を見ることとなった。すなわち、富民、養民等の理念を継承すると同時に、「民」の範囲を工商業者まで郭大し、工商業も「本」として提起し、明時代の特徴をなす「四民皆本」等の観念が出現した。そこにおける基本理念は、"民間経済が発展し、人民が富裕になって、国家の基ははじめて固まる"というものである。
 それまでの伝統的な「重本(農)抑末(工商)」論を批判したことは民本経済観の重要な発展だった。南宋浙東学派の代表人物である叶適は工商業を保護することを強調し、旗幟鮮明に「重本抑末」の主張に反対した。叶適の学生だった陳耆卿が編纂した《嘉定赤城志》は、士農工商はすべて百姓の本業であると明确に提起している。これらの観点は南宋時代の浙東地方における商品経済の発展とそれに伴う経済観念の変化を反映しており、民本経済観を豊富にした。
 官営の公共救災福利機構の大量出現もまた民本経済観の発展の重要な表れだった。宋代の理学家である程頤は、政を為すは"以順民心為本 以厚民生為本 以安而不擾為本"と提起し、朱熹は"天下之務 莫大于恤民"とした。民本経済観は宋代において大きな発展を見せたが、その明確なシンボルが官営の公共救災福利機構の大量出現であった。慈幼局等は遺棄された赤子や孤児を収容する福利機構、居養院、養済院等は孤独老人や貧困老人を收養する養老機構、施薬局、恵民局等は慈善施薬機構、安済坊等は福利的医療機構、漏澤園は孤独死したものを收葬する墓園であった。
 君権を制限し、専制を排撃し、経世致用を重視し、商品経済を発展させることは、明清時代の民本経済観の進んだ主要方向であった。明代の丘浚は、"為国以足民為本"を提起し、"民自為市"、商品経済を発展することを認めるように要求した。彼は更に、国家の理財を君主のためだけに用いることに反対し、百姓のために用いるべきだと主張した。黄宗羲は明清時代における民本経済観発展の重要な推進者であり、"天下為主君為客"思想を提起し、"民所自有之田"を侵奪することに反対し、民財保護の財産権の発展を主張し、さらには、宋時代の「四民皆本」論を発展させて工商もまた国家経済の根本であることを提起した。
 古代の民本経済観は数千年の進化を経て一定の進化と発展を遂げた。しかし、歴史的社会的条件の制限により、真の意味での"以民為本"に到達することは不可能だった。歴代王朝時代において、「民」は政治の権力行使の客体であり続け、その基本的権利を制度的に効果的に保障されることはあり得ず、統治者の仁慈恩賜を待ってはじめて実現され、「君本」を通じてのみ「民本」を実現することができた。辛亥革命で君主専制制度が覆された後でも、この状況は根本的に変化することはなく、広範な人民は相変わらず被搾取の状況におかれた。
 中国人民の地位に根本的な変化が起こったのは、中華人民共和国からである。1954年制定の憲法ははじめて人民当家作主の地位を法律的に確立した。人民が翻身して国家の主人となることによって、人民の地位における古代民本経済観に対する歴史的止揚が実現したのである。