今回は最初に、中国の対日積極政策が1950年代から一貫したものだったことを中国側当事者の発言から理解します。この作業を行うのは、日本(政府・国民)が日中関係に前向きになりさえすれば、中国はいつでもそれに応じる用意があったということを確認し、日本側のこれまでの受け止め("1972年は「あれよあれよのドラマ」だった")を正す意味があります。私たちは日中関係について考えるとき、"「体制の違い」というハードルは高い"という思い込みが常に働きます。今日でもそうです。しかし、中国は早くから対外関係の基本に、体制を異にする国々との関係を規律する原則である「平和共存」を外交の基本に据えてきました。「体制の違い」というハードルは中国外交には元々ないのです。したがって、日本側がその気になりさえすれば、中国は常に国交正常化に応じる態勢にあったということです。
 次に、とはいえ中国は1972年の日中国交正常化交渉に当たって明確な条件を設けていたことを「竹入メモ」に基づいて確認します。中国の条件とは、いわゆる「復交三原則」(中国政府は唯一の合法政府;台湾は中国の領土の不可分の一部;日華平和条約は不法で、破棄されなければならない)です。また、日本側の懸念事項(日米安保条約、賠償)に対する中国の考え方も確認します。
 その次に、日中国交正常化交渉に臨んだ日本側の基本的考え方を、日中共同声明の日本側原案作成者だった栗山尚一氏(当時は外務省条約課長)の証言に基づいて理解します。その核心は、①国交正常化の前提はサンフランシスコ体制堅持、②台湾問題に関するアメリカの対中政策との平仄合わせ、③日華平和条約(戦争終了時期及び賠償請求権にかかわる)については、日中双方の法的立場を維持できる「玉虫色の表現」を工夫、ということでした。
 その上で、日本側が用意した共同声明原案と中国側が示した対案をもとに、実際の交渉においていかなるやりとりが行われて、まとめられていったのかを外務省が公表した交渉記録に基づいて確認し、国交正常化を実現した日中共同声明において、何が解決され、何が先送りされたのかを明らかにします。アメリカの対中政策が変わったことで日中国交正常化は可能になりました。しかし、その後のアメリカの対中政策及び米中関係は安定せず、そのことは日中関係にも大きく影響し、日中国交正常化の際に先送りされた問題は日中関係に重くのしかかることになるのです。
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